マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

祈り

2023年08月25日 | キリスト教

「 生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。」

                                 詩編 72編 7節

 

これは公正と平和を願う祈りです。 (今この地球全体の願いでもあります。) 

天国のイメージ、神の国のシンボルは、公正と平和だと言うことができると思います。

私たちが国民として願うことも、この社会に公正と平和が行われることでしょう。

要領よくやり、またごり押しをして得をした人もいれば、正直者は馬鹿を見ると言うことも現実です。

ですから、この世に対して公正を求めて行っても限界があります。(今は悪が栄えていますが、神の国ではこの逆です)

しかし神は決して偏り見る方ではありません。今不公平だと思える事にも、

神は必ず公正さをもって結末をつけてくださるのです。

そして「平和」とありますが、聖書ではキリストこそ「平和の君」だと言われています。

このキリストを私たちの心の中に迎える時、どんな中にあっても潤いを与えて平和にさせていただけるのです。


ルカ 19 : 42
「 もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」

ローマ 3:17                     
「 彼らは平和の道を知らない。」 

マタイ 5:9                                   
「 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 」  

 

栄光の王であられるキリスト、再び、来られるとこしえの王、大いなる方、

正義と愛をもって統べ治められる王の王、主の主に、

栄光と誉れと賛美がとこしえにあるように。 
   

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謙遜と大胆さ

2023年08月18日 | キリスト教

「 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

                                              マタイ 15章 27節

弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかし主イエスは、ただご自分の使命を示されます。

しかし、彼女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。ただ図々しく、熱心だったのではありません。

「 パン屑はいただきたい 」と、パン丸ごとではなく、パン屑をと謙遜にお願いしたのです。
 

パンの奇跡においても、パン屑は丁重に集められています。案外パン屑のほうに、豊かな恵みが注がれている場合があります。

イエスのパン屑こそ、恵みの宝庫ではないでしょうか。それは、パン屑をいただく謙虚さが、主のみ心にかなうからです。

単なる熱心ではなく謙虚な熱心さを主は喜ばれ良しとされるのです。

彼女を動かしていたのは、愛です。愛は全ての者のうち、最も神に近いものです。人は苦しみの中でこそ、まことの愛の神を求めるものです。

わたしたちも、熱心に主の恵みを求めながらも、主よ、おことば通りですと、全てを委ねた信仰を目指しましょう。

主はこのような信仰を歩む者を今も求められています。

私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。

それか反対に、自分の立場や行いを神の前に持っていって、「私は、これだけのことをしているのだから、あなたの祝福を受ける資格があります。」と訴えます。

私たちにとって難しい事は、自分が神の祝福を受ける立場にいないこと、神にのろわれて、さばきを受けるのが当然の存在であることを認めると同時に、

それでも主の祝福を願う事です。

 

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私の主が執成しを

2023年08月12日 | キリスト教

 

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、

否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」

                                        ローマ 8章 34節 

神の義によれば、私たちは罪ありと訴えられます。けれども、今は、神の義は、キリストを信じる者を義と認めることにおいて現れました。

したがって、私たちを訴えることができるものは、誰一人、何一つありません。

 

私たちが肉の弱さのために、罪を犯してしまっても、キリストは私たちのために弁護され、とりなしをされます。

「わたしは、この者のために血を流しました。この者が受けるべき罪の罰を、わたしが変わりに受けました。」ととりなしてくださるのです。

 

私たちの罪のために死なれただけでなく、神の右の座で執り成しをしてくださっているので、私たちを終わりまで救うことがおできになるのです。

私たちがつまずきそうになっても、それでも立ち上がらせてくれる力と勇気を与えてくださいます。

ですから、見ること、聞くこと、なんであっても、十字架を見上げてください。

 

このように、私たちが栄光の姿に変えられるまでに、苦しみを受けても、また罪を犯してしまっても、神から決して引き離されることはありません。

 

ローマ 5:9-10 
「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、

なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、

彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」

 

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