マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

何時も喜び。

2019年10月25日 | キリスト教

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。」

                 Ⅰテサロニケ 5章16節~17

主はよく祈っていました。福音書のあちらこちらに祈られる姿がよく見受けられます。

「喜んでいなさい」とありますが、これは神が、イエスさまにあって私たちにしてくださったことを思い、

また神ご自身のすばらしさを思うときに与えられます。

喜ぶということは、幸せとは異なります。幸せは、自分の周りの状況が良ければ存在しますが、

状況が悪ければなくなります。

けれども、喜びは、たとえ愛する者が世を去っても、残っている深い確信です。

ですから、悲しみながら喜んでいることができます。辛苦をなめながら、なおかつ喜ぶことができます。

私たちが求めなければいけないのは、気分の上での喜びではなく、霊の深みにおける喜びです。

「祈りなさい」というのは、もちろん、祈祷院に行って24時間祈っているということではありません。

神をいつも意識して、必要であれば心の中で祈り、人と語っているときにも祈ることです。

そして「感謝する」ことは、自分の身の周りに起こっていることが、神の許しがあって起こっていることであり、

何か目的があると知って感謝することです。

これが神が望んでおられることとあります。神さまとの関係が書かれています。
 
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キッパリと。

2019年10月18日 | キリスト教
「どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。
あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。」
                           
                                  詩編 27篇 9節

あなたは切羽詰まった苦しみ、悩みに出会ったとき、なんと叫ぶのでしょう。なんと祈るのでしょう。

「助けてくれ !!」でしょうか。この世であなたの叫びは聴かれることはなく、

あなたの必要を見たそれることもなく、ただ、あなたの叫びは空しく響くのみ。

しかし、聖書では単純に素直に祈れと教えています。「あなたは私の助けです」ときっぱり言います。

長い人生の間、いろいろなことがあり、いろいろなものの助けを求めました。

しかし、この人生の本当のいのち力、平安、喜び、愛、助けは、ただ神からのみ来ました。

私はよく、叱られても押しのけられても、お母さんのスカートにしがみつき、

それを引っ張りながら泣いて訴える子供の姿を見ますが。そんな祈りに、神はその愛、その正しさ、

その栄光にかけて答えてくださるはずです。

詩篇 26:8
「主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。」

詩篇 79:9
「私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。」


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勝利宣言

2019年10月11日 | キリスト教
「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
      
                      ローマ 8章 37節
 
まず、「私たちを愛してくださった」とあります。その愛は、十字架の上で罪の供え物となってくださったほどの愛です。

そこまで愛してくださったことによって、何が起こったかと言いますと、「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」

と言っています。これはすごいことです。

第一に、「これらすべてのことの中にあっても」と言っています。これらとは一体何でしょうか。

苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣と書いています。この幾世紀において持ち越されているそれぞれ国々、社会、家庭にある、

あらゆる苦しみと試練のことではないでしょうか、その状況から救い出されることが、勝利者ではなく、

その中にあっても愛が引き離されないというところに、キリスト者の勝利があり、力があります。

なぜなら、主ご自身がこれらの苦しみを負われて、その上で神のご計画を実現されたからです。

第二に、「圧倒的な勝利者」であります。単なる勝利者と、圧倒的な勝利者の違いは何かと言いますと、

単なる勝利者は戦って勝つことを意味します。けれども、圧倒的な勝利者とは、すでに戦っている時から、

勝利が確定していることを意味します。

圧倒的な物量でしょうか、また先手を打った戦略や戦術でしょうか、戦っているのですが、勝利が決まっていながら戦っているので す。

これが、キリスト者の戦いなのです。

しかし、聖書はこう私たちに教えておられるのです。「神が私たちの味方であるならだれが私たちに敵対できるでしょうか」

神は私たち一人ひとりを愛しておられますから、神は私たちの味方です。それが証拠に神は私たちを罪と死とさばきから救うために、

神の独り子、主イエス・キリストを私たちの身代わりに十字架にかけて、殺してくださいました。

それほど神はあなたを愛しておられるのです。あなたが、その神の味方になっているかどうかが大事なのです。

自分の知恵、自分の力だけで解決をしょうとしている、そこに私たちの罪と問題があるのです。

私たちは圧倒的な勝利者です。ここで大切なのは、「これらすべてのことの中にあっても」という言葉です。

私たちが、苦しまないことによって勝利を受けるのではありません。むしろ、ほふられる羊とみなされるような苦しみを受けます。

しかし、その苦しみが、私たちを栄光の姿に変えるという神のご計画を妨げるものにはまったくなりません。

これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者なのです。苦しむとき、私たちは、神の栄光を待ち望むように促されます。

苦しむとき、御霊がうめいて助けてくださいます。苦しむとき、神は、その悪をすべて良いことのために働かせてくださいます。

このような神のバックアップがあるので、私たちは圧倒的な勝利者なのです。


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待つことの意義。

2019年10月04日 | キリスト教
「主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」
         
                  詩編 27篇 14節

聖書の中でいろいろなところで、主ご自身が、「強くなりなさい」という言葉をかけておられます。

けれども、今、明確に主からの声が聞こえないときは、私たちに、自分自身に対して、

「心を強くせよ」と言いかけています。主からの約束を、自分に言い聞かせているのです。

さて、人生には二つの困難があります。第一は、道を踏み外し、いつのまにか迷ってしまうことです。

第二は、へとへとになって、へたばってしまうことです。こんな人生にとって「神を待ち望む」こと

ほど大切で積極的なことはないのです。けれども、じっと黙って待っていることは、

ときどき、消極的で弱弱し、愚かで無策な事と人に思われ、自分でもそう感じるのではないでしょうか。

聖書は待ち望むことについてこう言っています。「幸いな事よ。主を待ち望むすべての者」

イザヤ書40章の終わりには、「若者も疲れ、たゆみ、若い男も躓き倒れる、しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、

鷲のように翼を駆って舞い上がることができる、走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とあります。

神に祈り、信頼し、期待し、じっと主を待ち望む人は、決して恥を見ることがありません。


「待ち望む」ことの大切さは。期待して待つこと、忍耐を要求します。心の中はうめきます。

何も期待しなければ、ある意味、楽です。しかし、期待して待つ者に主は豊かな報いを用意しておられます。

ヘブル書に、こう書いています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、

信じなければならないのです。(ヘブル11:6)」


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