マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神を第一にするとき。

2021年11月19日 | キリスト教

「私の叫びに耳を留めてください。私はひどく、おとしめられていますから。

どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。」

               詩篇 142編 6節

人にひどく馬鹿にされた、見下された、無視されたと感じたことはありませんか。

本当に嫌なものです。そのような「被害者意識」は悲しいものですが、私たち自身のひがみである場合が多いのです。

他の人はそれほどあなたのことには関心はないものです。

それなのに、ひがみ根性で、酷くおとしめられたと感じて、その人を恨み怒り、復讐心に燃えるような攻撃的態度をとったり、

へたばってしまうこともありますが、ひがんだり、怒ったり、ぺっしゃんこになっりしたほうが負けです。

そこからの解放は、第一に、どんな時、どんな所でも神を認めること、第二に、神を恐れ(畏れ)て悪から離れること、

第三に、心を尽くして神により頼むことです。そのとき、神はあなたの道をまっすぐにし、あなたの頭を高く上げてくださいます。

ここにこそ、私たちの人生にも、思案投げ首の閉塞状況、卑しめられたり、追いつめられたりといった状況に陥ります。

また、だれひとり声をかけてくれる者もなく、だれひとり自分のために動いてくれる者もいない。

そうした孤独の枷があったとしても、神は必ず救い出してくれるという教訓が語られているように思います。


ヘブル 5:7~10
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、

大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、

彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、大祭司ととなえられたのです。」

 

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愛とは

2021年11月12日 | キリスト教

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

                 ローマ 12章 10節

兄弟愛というのは、親しみと言いかえることができるでしょう。

あなたは自分たちの仲間だよ。きょうは元気かい。

今週は何が起こったの?そのような何気ない問いかけが、私たちには必要不可欠です。

そして、尊敬を持って自分よりもまさっていると思います。その人の人格を尊んで、敬うことです。

たとえ、意見の対立が起こっても、決して礼儀を失せず、慎み深くすることです。

私たちは、悪を憎むことを愛することであると知らなければいけません。

悪いことをしている人を見て、その人のために涙を流して祈らなければいけません。

「そのままでいいのだよ。」と言うのは、真の愛ではありません。

悪を憎み、そして善に親しまなければならないのです。

 

ここで求められているのは、弱々しい愛ではなく、心から溢れる愛です。

それによって私たちの心は、他の人々の悲しみが自分の悲しみであるかのように私たちを傷つけ、

他の人々の繁栄が自分の物であるかのように私たちを喜ばせる証拠を得ます。

それはちょうど、両親が子供が順調な時に喜び、失敗したり、堕落した時に非常に悩むのと同じです。

しかもこの場合、私たちは「自分のように隣人を愛せよ」という戒めを実行することには、

まだはるかに及ばないことを学ばせられるのです。

 

愛することは実に大きなことです。父が子を愛するように愛することは、すべての内で最大なものです。

 

ビリピ 2:3-4 
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」 

 

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辛い・苦しいなら神に叫ぼう

2021年11月05日 | 日記

「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」

           詩編 107篇 6節

私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。

日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。

けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。

 

人生には、様々な試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。

此処の聖句では、そのことを歌っています。この6節は苦しみの時の祝福です。

深い深い、暗いくらい井戸の底から見上げると、昼間でも星が見えると言います。

その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。

それは、暗い井戸の底から見上げた時に見えるのです。

食べるものや着るものに困らなかった時には見えなかった人の優しさや親切が、

貧乏のどん底に落ち込んで見上げるとき、見えてきます。もう他には何の助けも求めることができない苦しみの時、

ひたすら上に向かって叫ぶと神の救いの恵みが見えてくるのです。人生にはいろいろなことが起きてきます。

しかし神を求める者、祈る者にとっては、そのいろいろなことが、すべて神からの祝福と変えらる可能性があるのです。

すべての艱難、災いがあろうと、そこには神がおられることを知っていただきたい。

ヤコブ 5:13
「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」

 

ヘンリー・ナウエンは『いま、ここに生きるー生活の中の霊性―』という本の中で、


「予期せぬ喜びに気づく」ということを述べています。

「私たちの住むこの世界は、悲しみに気づかせようと迫ります。

新聞は交通事故や殺人、また個人やグループ、さらに国家間の争いについての情報をとめどなく流しています。

・・そして私たちは、人と出会うとこう言います。『このことほ聞いたかい。あのことを見たかい。ひどい話だろう。とても信じられないよ。』

・・・予期せぬ喜びとは、ことが思いがけなく好転したことを指すのではありません。

そうではなく、すべての暗やみより神の光の方がはるかに現実性があること、すべての人間の偽りよりも神の真理のほうが強力であること、

そして、神の愛は死よりも強いことに気づくことからきます。」(36, 41頁)

 

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