マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

塩として

2020年06月26日 | キリスト教

「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。」

      ルカ 14章 34節

喩えを語られているので、聞く耳のある者は聞きなさいと言われています。関心のない人、

求道しない人はこの譬えだけで終わってしまいますが、その意味を解き明かしてほしい、

そして自分に どのように関わるか知りたいと願っている人には知らされる内容です。 

キリストの弟子にならなければ、イエス様に付いてきても意味がないということです。

私たちが本気でキリストの弟子になって、イエスに付いてきていないと、

結局、世において役立つ者たちにならないのです。つまり人々に霊的な渇きを起こし、

社会や人々の心にある暗闇、そこに光を当てることができないのです。

十字架を誇ってください、パウロはそう言いました。その生活を歩んでいる時に、

初めて自分ではなく、自分の内に住んでおられるキリストが、周囲の人々に、

また社会に 対して影響力をもたらすことができるのです。 

 

塩は防腐剤の役目があります。調味料として味を付けます。また、青菜に塩というように、

相手を枯らすほどの強烈な性質があります。イエスは、クリスチャンはこの塩味を持って

いなければならないと言われました。つまり、み言葉によって生きていくとき、

その人は世の中の腐敗を清めていく働きをします。そのためにまずクリスチャンであるあなたが清められ、

塩漬けられていなければなりません。このためには信仰による勇気、愛などが必要です。

塩の強烈さは、社会の悪い、サタンの働きに作用しなければなりません。

こうした塩味を持った働きは、クリスチャンの証と奉仕の生活から生まれます。

 

マルコ 9:49-50
「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、

あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。」

 

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くびき

2020年06月19日 | キリスト教

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、

       わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
        

                       マタイ 11章 29節

 

この当時のガリラヤで使われていた「くびき」とは、二頭の牛に農具をひかせるための道具でした。

二頭の牛がしっかりとくびきとくびきに繋がれて働くのと同様に、イエスのくびきには、

私たちの重荷に苦しむものがしっかりと結び付けられ、力を合わせて重荷を引きずっていくことになります。

そのために私たちの重荷は軽いものとされ、再び編み続ける力を取り戻すこともできるのです。

イエスはさまざまな重荷にあえぐ私たちを招き、十字架の死によって、私たちの重荷を引き受け、

重荷から解放してくださっていることを心にとめ、歩んで行きたいものです。

 


「わたしのくびき」とは、イエスがこしらえたくびきであり、イエスがあなたのために立てられた計画の

ことをさしています。したがって、「わたしのくびきを負いなさい。」と言うのは、

イエスの支配にゆだねなさい、という事です。私たちは、聖書を読んで、知識を蓄えればイエスのことを

知ることができると勘違いをしてしまいますが、

イエスに従わなければこの方を知ることはできません。そして、イエスのくびきは、

「負いやすく、私には軽いからです。」とあります。使徒ヨハネも、「神を愛する事は、神の命令を守ることです。

その命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:3)」と言いました。

ですから、イエスに自分を奉げることは、実はとても楽なことなのです。

 

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豊かに満たされるために

2020年06月12日 | キリスト教

「気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。」

           箴言 11章 25節

奉仕とは、経済的、時間的労力の上で犠牲が求められます。これは避けることの出来ない犠牲ですが。

この犠牲には恵みが伴います。その恵みの値打ちは計り知れないものです。

私たちのささやかな犠牲と奉仕によって「他を潤す人は自分も潤う」という経験をする恵でもあり、

さらにイエスにあって行われる犠牲には、永遠のいのちが約束されています。

イエス・キリストは「自分の十字架を負い、そして、私についてきなさい」と言われ、

またその報いとして、「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では、永遠のいのちを受ける」

と約束してくださいました。

 

さて、神の律法の中に、「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。

あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。(レビ19:9)」という教えがあります。

これはもちろん、貧しい人が後で来てそれを取りにくることができるようにするためです。

このように、神は良い意味で、大雑把になりなさいと命じておられます。

そうすると、かえって主はその与える人を祝福してくださいます。


 
自分が今持っているものを、自分で守ろうとする窮屈な心、上からの祝福を完全に度外視しているところには、

このあふれ出るような祝福は流れません。

 

Ⅱ コリント 9:6

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取 り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」 
 
ルカ 6:38
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、

あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。

あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

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違いが大切

2020年06月05日 | キリスト教

「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、

                また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。」

 

                        Ⅰコリント 12章 20~21節

人目につくからだの器官が、あまり見ばえのしない器官に対して、「必要としない。」と言っていることに注目してください。

目が手に向かって、「必要としない。」と言っています。また、頭が足に向かって、「必要としない。」と言っています。

けれども、見ばえがよいか悪いかで、その器官が必要なのか不必要なのかを決定するものでは、

もちろんありません。それは、互いの器官がいたわり合うという、からだの機能です。

 

パウロは、教会と人類を人間の体にたとえました。人それぞれが目であり耳であり、足であったりするわけです。

目と足とは、いくら話し合ったとしても、お互いが決して理解し合うことはできません。

目は明暗や色彩を中心として、何が明るく楽しいかを語ったとしても、

足は地面が堅くて歩き難いなどということを話題にするでしょう。

しかし目は足がなければ一歩も前進できませんし、足は目がなければ壁にぶつかってしまうのです。

ですから互いに必要な仲間なのです。人類は、まさにこの身体の各部分のような共同体を形成します。

そして互いが連帯を保ちながら生きることを求められています。誰一人として要らない人はいないのです。

 

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