マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

恵みがそこに

2019年02月22日 | キリスト教
「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」
 
          詩編 121篇 7節
 
神を信じていない人があっても、私たちの人生には人の力が及ばない何か強い力が

働いているということを感じている人は多くいます。

人生というのは、自分の力で切り開いていくんだと、そんなふうに豪語している人も、

自分の力ではどうしょうもない事態に出くわすと、

何か自分の手の届かない特別な力が働いている、そんなふうに感じるのです。

そして、運であるとか、つき、さだめというもののせいにして、

特に失敗や自分の足りないところを言い逃れをしょうとするものです。

人の及ばぬ力はどちらかというと、良い方向より、悪い方向に働くもののようですが、

神には私たちを祝福し恵みに満たす力が働いています。
 
主がいつまでも守ってくださる、という約束です。ユダ書にこう書いてあります。

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、

大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、(24節)」
 
 
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信仰は。

2019年02月15日 | キリスト教
「 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
                          
                      へブル 11章 1節
 
その目を閉じて、神のみ手の内に一切を、素直に喜んで委ねるならば、これは最高、最善の信仰です。

その信仰は神がなぜそれぞれの働きをなさるかを知ろうとはしません。

理性と、感覚と、体験には、怒りと不正以外のなにも見えなくても、信仰は、神が最高のいつくしみであり、

正義であることを、なおも信じてよりすがっています。このようなわけで、信仰とは、見ていない事実を確認し、

見える姿と正反対の事実を確認するというのです。
 
さて、英語では、Hall of Faith あるいは「信仰の殿堂」と呼ばれるところです。けれども、この章がしばしば、

あやまって解釈されることが多いのです。強く念じるように信じることによって、

自分の願っていることが叶えられる、など、信仰に信仰が置かれる、あるいは信仰への信仰が語られることがあります。

「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分の心に言い聞かせて、それがかなえられることを神に押し付けることではありません。

そうではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、

なんの疑問も提示せず「しかり」と納得し、確信することなのです。神が言われることが、「そのとおりである」

と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中で体験されていることになります。


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秘訣

2019年02月08日 | キリスト教
主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。」
                               
                               詩編 12篇 9節
 
現実の生活の中で、あるいは主の働きをしていく中で、神はなにも働いておられないように思える誘惑が

主を信じる者たちに襲います。聖書に書き記されているような圧倒的な力をもって神が働いているようには思えない。

そんな時、神を信じることが馬鹿らしくなるときがあるのです。私もそんな思いにかられたことがしばしばです。

神を信じていなくても、世の中には、要領よく立ち回って利益を得ていくような、成功していくような者たちが大勢いる。

みんながだましあって、二心をもって、本音と建前を使い分けながら、悪いことでもかまわずに押し通して成功しているのを見ると、

心が揺らされます。

世が末の時代となり、社会的倫理が破れて来ると「卑しいことがあがめられる」ようになります。

倫理や道徳と言ってもピンと来なくても、「汚いこと、卑しいこと」というと案外わかってもらえます。

悪臭が漂うごみための汚さがすぐわかるように

人と人との交わりの中の「汚いこと」「卑しいこと」は本能的にわかり、したくないのです。

しかし現代は、そんな「卑しいこと」が横行している時代だと思いませんか。

昔の人には思いもよらない、人の尊厳を踏みにじるような獣のような考えと行いが満ちています。

聖書の中に。「上にあるものを求めなさい地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」という言葉があります。

心の中に神を宿す、これこそ、栄光に満ちた人間らしい尊厳ある生き方を送る秘訣ではないでしょうか。
 
ですから、私たちは社会の中に悪を見る時に、卑しいことを人々が受け入れ、もしかしすると私たち教会も「仕方がない」

として許容していないか?悔い改めと執り成しの祈りを捧げることから始 めるべきでしょう。


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素晴らしい報い

2019年02月01日 | キリスト教

「 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。」
                          伝道者の書 4章 9節
 
天地創造の後、神である主がエデンの園に置かれた人はひとりでした。
 
その人はすべての生き物に名前をつける(=それは生き物を支配することを意味します)という立場にいましたが、
 
人には「ふさわしい助け手が見つからなかった」とあります(創世記2:20)。
 
そこで神である主は「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と言って、
 
深い眠りをその人に下し、彼が眠っている間に、彼のあばら骨の一つを取ってひとりの女に造り上げ、
 
その女を人のところに連れて来られました(2:21~23)。「ふさわしい助け手」の存在によって、人は人となるのです。
 
「ふさわしい助け手」を与えられた人がその「助け手」とともに労することに良い報いがあるというのです。
 
「労すること」とは、「結び合って一体となるための労苦」を意味します。それは愛し合うことを通して「家」を建て上げることです。
 
ここに結婚の奥義があります。この結婚の奥義は、神のご計画と密接なつながりをもっているのです。
 
「人がひとりでいるのは良くない」とする神のみこころが、神のご計画の目的と密接に関係しているからです。
 
この聖句の中の二人というのは、夫婦であってもいいでしょう。あるいは親しい友人で会ってもいいでしょう。
 
その二人が力を合わせて一つの仕事に当たると、一人でするよりも行き届いてよくすることができ、
 
しかも、その報いを二人で喜び、楽しむことができるのです。
 
そして、今日のみ言葉をあなたとイエスに置き換えて考えてみてはどうでしょうか。
 
イエスがあなたと共におられるなら、苦労も苦労でなくなることでしょう。その報いは大きいからです。
 
イエスがあなたと共におられるなら、もし孤独死ということになって、周囲から見ればかわいそうと思われても、
 
あなたもね私も平安の内にこの地上の生活を終えることができるに違いありません。
 
イエスが共におられるなら、こんやもイエスに抱かれて、素敵な夢を見て眠れると思えば一人でも暖かいのです。
 
 
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