マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

備えよ。

2020年07月31日 | キリスト教

「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、

  主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。

  

      マタイ 3章3節

洗礼者ヨハネは、「荒野で叫ぶ者の声」として現れました。

彼は、神殿ではなく、学校でもなく、荒れ野で宣べ伝えました。

町の大通りではなく、人通りのない荒野で叫びました。

荒野とは、イスラエルが四十年間彷徨ったところであり、

イエスが誘惑にあわれたところです。

荒野はまた、人生の荒野、人々が愛を失い、冷たくなる場所でもあります。

この荒野を、神の恵みの場所とするためには、悔い改めが必要です。

悔い改めとは、神を中心に生き始めることです。

すべてを神中心にやり直すことです。どんなに信仰深そうに見えることでも、

真に神中心になっていなければ、それは形だけのもの、表面的なものに過ぎません。

神はこの冷たく冷めた所へと、あなたを導いておられるのです。

イエスの愛を受けた私たちはこの愛をそれぞれ置かれた場所で叫ぶようにと。

父は願われています、またその力を聖霊によって与えられることでしょう。

神の恵みと力があなたの上にありますように。シャローム そして マラナ・タ

 

 

 

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新しい戒め

2020年07月24日 | キリスト教

「 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。

     わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

             ヨハネ 13章34節

イエスが愛されたというのが基準です。

弟子たちは、イエスがどのように自分たちを愛してくださったのかを知っていました。

イエスは愛を語ったのではなく、愛をお見せになりました。ご自分が模範となられて、

それを実践されていました。したがって、弟子たちは、イエスが去って行っても、

このイエスにならって前に進んで行くことができるわけです。

どのようにして生きれば良いか分からないのではなく、模範にしたがって生きていくことができます。

それは、イエスにならって人を愛して生きることです。

 

「互いに愛し合いなさい」とイエスは言っておられます。

ではキリストの愛とはどんな人間関係を言っているのでしょうか。いつもべたべたした人間関係を

持つことが愛しあっうことだと思っている人たちがおられます。多くの教会、クリスチャンが、

愛をこのように理解し、結果として自立できない人たちを造っています。こうした人たちの特徴は、

自分の立場から神、教会、人の愛について鋭く論じますが、自分は、神、教会、人から見てどんなものであるか

と言う視座が欠けています。また、キリストの愛は乾燥した愛でもありません。

人が愛や助けを必要としているとき。指一本貸さない人、他人のためにはお金も時間も犠牲も払いたくない、

ただそれらしいジェスチャーをして泳いでいく人であってはならないと思います。

 

ヨハネは、手紙の中で、愛とは真実と行ないであって、口先のものではないと言っていますが、そのことをイエスは行なわれたのです。

 

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二種類の涙

2020年07月10日 | キリスト教

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」

   詩編 126篇 5節

 

「涙とともに種を蒔く」とはどういうことでしょうか。この箇所をしばしば伝道の働きに解釈して、

涙ながらに苦労して伝道するならば、必ず、束を抱えるような収穫を得ると理解してきましたが、

この箇所はそのようなことを言うとしているのではありません。この箇所は働きを励ますことではなく、

神とのかかわりのために必要な、神のお取り扱いとしての「種蒔き」のたとえです。

 

マタイ  13章5~8節
いくら種を蒔いても、生えない事もあります。イエス・キリストのたとえ話にあるように、

道端に落ちて鳥に食べられてしまう種もあれば、石ころだらけの石地に蒔かれて、すぐに芽を出しても、

間もなく枯れてしまったり、雑草の生い茂るところに落ちて実を結ばない種もあるでしょう。

これが人生の現実かもしれません。しかし「蒔かぬ種は生えぬ」これこそ原則中の原則ではないでしょうか。

ですから涙と共に、いのちの種、愛の種、祈りの種を蒔き続ける人だけが、やがて喜びながら刈り取ることができるのです。

蒔かない限り、生えないのです。私たちは涙をもって種を蒔き、しっかりと希望をもって忍耐しなければなりません。

 

愛の労苦の後には必ず報いがあります。

ヘブル書6章10節、
「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、

また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」

私たちが、固い土地に御言葉の種を蒔いたら、いつか必ず刈り取る時が来ます。

 

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終わりの時が来る

2020年07月03日 | キリスト教

「あなたは『いつまでも、私は女王でいよう』と考えて、これらのことを心に留めず、

       自分の終わりのことを思ってもみなかった。」

                           イザヤ 47章 7節

私たちは極力、人生の終わりについて考えないようにとして生きていると思います。

家族の死を通して、自分の先を見、人はより意味のある人生を生きたいと願うのではないでしょうか。

死ぬと言うことがあるから、生きている今に価値が感じられる。老いるということがあるから、

今の日々が大切になる、別れる時が来るから、一緒にいる今を大切にしたい。

すべてに終わりがあるから、すべてがいとおしくなってくるのです。

終わりから今を見ると、すごく気にしていたことも、それほど重要なことではないと気づかされることもあります。

今この時にいかに生きるべきかをよく考える時を大切にしたいものです。

 

わたしたちはいつまでも今の楽な生活が続くのだ、優雅な生活があるのだと思いかちですが、

終わりがどうなるかを考えないで、罪を行ないます。こんなことを行なったらどうなるのか、

と少しでも考えれば、思いとどまることができたはずです。私たちも罪を犯すときに、

その終わりを考えるべきです。その罪によって、どれだけ悲惨な結果が待っているかを考えるべきです。

 

歴史は覇者がその栄光を持続することは出来ないことを教える。「奢れる者は久しからず」、

そこに神の意思を認めるかどうかが信仰です。ルカの描く「愚かな金持ち」は、自分が死ぬことを

認識しないゆえに「愚かだ」と言われる。

 

ルカ12:19-21
「(愚かな金持ちは言った)『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。

ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。しかし神は『愚かな者よ、今夜、

お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」。

 

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