マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

権利はありません。

2015年09月18日 | キリスト教

「 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

                                   ルカ 6章 41節

別な訳ではこうです。 

「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。」

「自分の目に材木が入っているのに、どうしてほかの人の目の中にある、おがくずほどの小さなごみを気にするのでしょう。」

42節では、「偽善者よ」と主イエスが厳しい言葉で諭されています。

自分のことは棚に上げて人の弱点をとやかく言って裁きがちな私たちに、大切なことを気づかせてくださいました。

私たちはどうしても自分に甘く、他人に対しては厳しくなりがちです。

(私はあなたとは違うという思いと、私は正しいという心がこのような思いにさせます。) 

自分にも同じような弱さがあるのに、人を厳しく糾弾する。主イエスが言いたかったことは、

「あなたが持っている弱さとか、限界とか、そのことをよく考えなさい。他の人もあなたと同じように、

限界とか、弱さを持っているのだよ」 ということではないでしょうか。

決して私たちが審判官のようになって人を批判する権利はありません。最良の人にも欠点があり。

最悪の人にも良い点がある。だから、他の人のあら捜しをすること自体弊害となります。

他の人の弱さではなく、自分の弱さを知ったときにこそ、人への優しさが自分の財産となります。

 

 

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悪者の死を喜ぶだろうか

2015年09月11日 | キリスト教


「 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、

        悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」

                                           ルカ 15章 7節

天地をつくられた神が、失ったものを見つけたときの喜びを知っておられる。そこで神が私たち人間よりもはるかに

思いやりがあるという子とはどんなに素晴らしい真理でしょう。正統派の人々は取税人や罪人を滅びる以外に

どうしょうもない人間と決めつけました。( 神を怒らせる者どもがこの世から消え去るとき、

神のみ前に喜びがある。というユダヤの諺があります。また、ユダヤ教では、罪びとが悔い改めるなら

神は赦してくださるという教えはありますが。その神の方から罪人を探すという考え方はありません。 ) が。

神はそうではなかった。人々は罪人に対する望みを放棄するかも知れない。神は決してそうではない。 

( ただ、罪がなければ神に出会うことはない。しかし、全ての人が罪人である以上、全ての人が

神に出会える機会があると言うことです。)

神は迷い出ない群れをも愛している。しかし、たとえ迷子になる者がいても、それが見つけられて

家に帰ってきたときには、神の心には大いなる喜びがある、実を差すような人間の批判の渦中に帰るよりは、

神のもとに帰る方がいく千倍も容易なことではないでしょうか。

聖書から

「 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、

生きることを喜ばないだろうか。」   エゼキエル 18:23

 

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あなたは必要はない

2015年09月04日 | 聖書

「 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、

                 もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」

                                                   Ⅰコリント 12 章 26 節 

世界中が、いやあってはならないことですが。家族の人たちが 「あなたは必要はない、いらない、」 と言っても

神はあなたを必要とし尊んでくださるのです。どんな人にも、良い点があり、同時にどんな人にも、欠点があります。

欠点というものは、誰でもすぐに気が付きます。良いところは、少し努力をして見つけるようにしないと、なかなか見つかりません。

他人のよいところを見つけるためには、先ず、先入観を捨てて見ていく姿勢が必要です。

たとえ、自分自身で体験したことであっても、判断は控えめにすることが大切です。

それは一つの思いやりというものです。他人のよいところを見つけ、他人の痛みを感じることは、

思いやりのある心を持っている人の美しい姿です。

ますます利己主義になりつつある現代。このような思いやりのある心こそ、家庭の中で、職場の中でも、

あってほしい最も大切なことではないでしょうか。

他人に対して、特に弱い立場の人に、耳を傾けるということは。その他人をそのまま受け入れると言うことです。

神に愛されたようにあなたもこの人を愛しなければなりません。神は全ての人を愛してくださっているのですから。

 

 

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