マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

真の豊かさとは。

2019年12月27日 | キリスト教
 「 主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。」
          
                   詩編 37編 16節

「ひとりの人の持つわずかなもの」とは一体何なのでしょうか。それは、豊かな命、豊かな心ではないでしょうか。

自分は正しいとし、人にも正しいとされていたパリサイ人と、自分を罪人だと自覚し、

人にも罪人だと思われていた取税人が、二人並んで神殿の前で祈りました。

パリサイ人の祈りは、「この横の取税人のような罪人でない事を感謝します。

神よ。私は何事も正しくやってきました。」でした。

取税人の祈りは、「神よこんな罪人のわたしをあわれんでください」でした。

イエス・キリストは軍配を取税人の方にはっきり示されたのです。

罪を悔い改めて神を恐れ(畏れ)、神に新しい心をいただいた正しい人のその心、その命こそ豊かなのです。

見えるところは僅かでも、それは宝石のように貴重なものです。

御言葉と心の関係を主が土のたとえで話されていたとき、良い土地に落ちる種は三十倍、六十倍、

百倍の実を結ばせると約束されましたが、それはただ、良い土地に一つの種が落ちるという僅かな出来事によってです。

ルカ18:10~14
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
パリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、
奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、
この人であって、あのパリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」



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平安のために

2019年12月20日 | キリスト教

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
 
                マタイ 5章 10節
 
ここで考えなければいけないのは、それは、第一義的に神との平和です。
 
一人ひとりが、罪の赦しの必要があります。家族の一人ひとりにも罪の赦しの必要があります。
 
これは家族といえども代わって赦しを受けることはできない。その心の一新があってこそ、真の平和が訪れます
 
「正義」「平和」という言葉がよくつかわれますが、それは社会的に大きなことだけとは限りません。
 
人と人との関わり合いにもそれが必要です。お互いにかけがえのない兄弟であり、
 
社会を作っていく仲間であるということを全面的に認めた時に、好き嫌いによって過大評価をしたり、
 
過小評価をする資格や権利のないことが分かると思います。そこには正義があります。
 
感情的で生理的な好き嫌いは一生付きまとうかもしれませんが、お互いに欠点を持ち、迷惑をかけながらも

一人ひとりを大切にし、  支えになっていこうととする時、平和があるのだと思います。
 
それは、キリストの兄弟である小さな一人に、自分の方から隣人になっていくという積極的な姿勢と、
 
毎日毎日、自分自身の矛盾と闘いながら、少しずつ前進していく努力です。もうこれでよい、
 
という時は決してこないものなのではないでしょうか。
 
面白い事に、私たちが悔い改める事によって、世から迫害を受けます。なぜなら、世は、心の貧しいもの、
 
悲しむもの、柔和な者、義に飢え乾いている者、人をあわれむもの、心の清いもの、平和をつくる者が嫌いです。
 
そういう人たちが自分たちの中にいたら、迫害し始めます。
 
コロサイ1:13
「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」
 
 
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任せなさい。

2019年12月13日 | キリスト教

  「 あなたの道を主にまかせよ。」
 
                     詩編 37篇 5節

愛による自発性、これは主との親しい交わりの中で培われると信じます。

「ゆだねる」ためには、主を知ること、主との親しい交わりが必要です。

しかし、ゆだねることが私たちになかなかできないのです。

ゆだねる相手が神にもかかわらずです。ここに私たちの根深い罪があります。

主にゆだねること、主を信頼することは私たち信仰者の生涯のテーマと言えます。

さて、私たちの人生には過去の罪、人生の障壁、人間関係のもつれ、嫌なこと、邪魔なものなど、

心の願いの成就を妨げるようなものがいっぱいあります。心配もその大きなことの一つです。

そんな重荷を主にゆだね、転がしていって主の前においてお任せすると、主が始末をしてくださり、

負ってくださるのです。

ペテロは「あなた方の思い煩いを、一切神にゆだねなさい、神があなた方を心配してくださるからです」と言いました。

神にゆだねるということは、自分の突っ張ったエゴをゼロにし、きよい神を百にすることですから、

神が希望を成就してくださる。無理にごり押ししなくても、神が願いを成し遂げてくださるからです。

エレミヤ12:1
「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、私はあなたと争い、裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」。

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本物輝きとは

2019年12月06日 | キリスト教
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、

天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
              
                     マタイ 5章 16節

私たちが、自分の信仰、神に対する希望をただ心の中に留めていくことだけでは不十分だということです。

信仰とは公にするものです。口で告白するものです。

それは、教会のみならず、世の人に対しても明らかにすることです。これには危険が伴います。

なぜなら、自分がキリストにそぐなわないことを行なえば、すぐに周りの人はそれを認め、

「だからクリスチャンは・・・」と言って、キリストの名が侮られる可能性があります。

けれども、私たちはキリストの使節です。出て行き、キリストの権能を携えて、その力を行使する者たちです。

あるテレビのディレクターが、放送雑誌に書いていました。


「最近の若いタレントたちに、ドラマの中で『幸せそうな表情をしてごらん』と注文をつけると、

十中八・九人までが、得意げな顔をする」というものでした。大勢の中からオーディションの末、

晴れてタレントの座を獲得した人たちのこと、幸せイコール得意と考えるのも当然なのかもしれません。

しかし、幸せと得意とは必ずしも同じではないのです。得意に輝いている人々と、幸せで輝いている人々とでは、

輝きの質が違います。得意に輝いている人の陰には、必ず失意の人々がいるのに対して、

幸せで輝く人は、周囲の人々にまで幸せにする力をもっています。

イエスは、外から浴びるスポットライトで輝く得意な人ではなく、

自分のうちに光の源をもって輝く人になりなさいと言われました。

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