マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

知っておられる神。

2020年02月28日 | 癒し

「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」

           箴言 5章12節


自分が悩んでいるということであれば、それを主の前に持っていけば、主は心を配っておられるのですから、

ず逃れの道を備えてくださいます。大事なのは、罪によって傷ついた心をそのまま主の前に持ってくることです。

主は、その深い憐れみによって必ず受け入れてくださいます。決して、ご自分のところに来る人を拒みません。

主のところに行けば、主がその傷をご自分の体に受けてくださり、そして自分の体の中で、魂の中で、

傷の 治癒を行なってくださいます。 

全知全能の神は、すべてをご覧になる神です。神は私たちが行うすべてのことの中に存在しておられます。

私たちは神うちに生き働き、存在しているのです。では、私たちは日々神のみ前に歩んでいると

自信をもって言えるでしょうか。神は私たちの痛み、落胆、困惑、葛藤をご覧になられます。

そして驚くべき恵みをもって私たちを助けに来てくださるのです。私たちの生活の全部が、

天の父に知られていること、そして、神が私たちの全ての必要を備えてくださることを確信することによって、

神に対する深い畏敬と崇拝の念が私たちの心に生じてきます。私たちはダビデのようにこう叫ぶのです。

「主よあなたは私を究めて、私を知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟っておられます。」

私たちを愛する神は、ただ見ておられるだけでなく、心を配っておられます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隠されている。

2020年02月21日 | キリスト教

「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」
  
                   コロサイ 2章 3節

私たちの人生を豊かにする知恵と知識の宝が、この聖書の中に隠されています。

人生の中の数十年は、今の私たちには非常に大きな意味を持ちます。

現在の自分を作り上げてきた数十年ですが、

その歩みの中で何度イエス・キリストの内にある恵みの宝によって助けられたか、数え切れません。

聖書のみ言葉によってどれだけ守られたか、どれだけ導かれたか、

またあるときはどれほど強く罪を示され悔い改めに導かれたか、与えられた恵は数限りないのです。

長い間使っている聖書はボロボロになっても、聖書のみ言葉はますます新鮮でますます恵みがあふれています。

どんなに歳月が流れても、神のみ言葉はその恵みの新鮮さを失うことはありません。

どのようにしてか、それは互いの愛の交わりの中で、キリストを知っていくなかで、

また生活の中で徐々にキリストの支配が広がっていくとき、

これがクリスチャンの霊的な歩みの中で喜びとなります。

人間の知恵、そのようなものに振り回されないで。割礼を受ければ救われる、

善行を積めば天国にいける、禁欲すれば清められる、

それはこの世の知恵に過ぎない。救いは人間の行為ではなく、神の恵みなのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三人の盲人の話

2020年02月14日 | 聖書

「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。」

                         詩編 111編 10節 

こんなお話を聞いたことがあります。「三人の盲人の話」という物語です。三人の目の不自由な人が動物園に行き象を見学しました。一人は象の足をさわって大きな柱のようだと言い、一人は象の腹を触ったので大きな岩のようだと言い、もう一人は象の鼻を触りホースのようだと言いました。この三人の目の不自由な人が自信をもって言っているのは象の総てではありません。

同じように、私たちも日常生活において、この三人のように一部を触って総てであると考えているのではないでしょうか。また私たちは自信をもって絶対と言い切ることができるでしょうか。私たち自身は何も言い切ることができない存在です。

聖書は私たちに何を教えてくれているのか、聖書こそ私たちにどんな困難な時も解決してくれる道を指示しています。私たちの能力と知恵をはるかに超えた神。その神を畏れることです。神を畏れるということは、神を信じる、神の教えに従っていくということです。

私たちが、自分たちの心についてじっくり調べるのではなく、主のすばらしさをじっくりと調べるのであれば、神のお働きやご性質に細心の注意を払っていくならば、それが主への恐れ(畏れ)へとつながります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つまずきは

2020年02月07日 | キリスト教

 イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。」

 ルカ 17章 1節

イエスは、「つまずきを起こさせる者はわざわいだ。」と言われました。これは、罪を悔い改めて信仰に入ろうとする者たちを妨げるような人たちの事をいいます。ここに「小さな者の一人をつまずかせる」とあります。これは、必ずしも子どものことを意味していません。この世においては小さな評価しか得ない者、あるいは信仰によってへりくだる者、こうした者たちが小さい者です。イエスのところに、罪人や取税人が集まってきました。そして乞食ラザロもいました。そうした人々が小さき者です。こうした人々が信仰を持ち、それを保つのを妨げるようなら、金持ちがハデスで苦しん だように、厳しい裁きを受けることになる、という警告です。 

「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」この後の聖書の言葉はこのように続いています。これはまた大変なことです。なぜこんな厳しいことをイエスは言われたのでしょうか。それは、人がつまずき堕落するということは度々起こることであっても、どうでもいいという事柄ではないからです。他の人の悪い手本になったり、自分の行いで人を悪事に誘ったり、自分の不注意な言動で、何も知らない無邪気な人が、悪を身につけるようになるということは許されない、というわけです。私たちはみんな弱い者ですから、つい自分がつまずいたり転んだりすることはありますが、私たちの軽率な言動が、他の人を罪に追いやることがないように気を付けたいものです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする