マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

道を備えてくださる神

2018年06月29日 | キリスト教

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、

御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

                     ローマ 8章 32節

 

神とともに歩く私たちには、いつも神が第二第三の道を備えてくださっていることを知らなければならない。

一つの道が塞がれ、失敗に見えても、神は次の道を備えてくださるのです。どの道が一番良いか、

あるいはよかったのかは、時間とともに、神が示してくださる。大切なことは、「神が私を顧みてくださること」

を知っておくということです。どの道に導かれても、自らを低くし、委ねることを学んでいきたいものです。

 

私たちが出会う苦難と迫害について、いたずらに不安にかられることはない。なぜなら、神が我々の味方であるなら、

誰も敵対できないからです。
 
ローマ8:33-34
「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるイエス・キリストが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。」
 
この地上で理解されず、人々から捨てられ、一人にされても良いではないか。神は共にいて下さり、私たちを知っておられるのだから。

イザヤ49:4
「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。
 
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愛する者たちへ

2018年06月22日 | キリスト教

「 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、

               愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」

                                    Ⅰヨハネ 4章 7節

ここでの「愛」は、アガペーというものです。肉体的な愛であるエロス、精神的な愛であるフィレオと異なります。

霊的な愛であり、与える愛です。この愛をもって人を愛するのは、神から生まれた者であり、

神を知っている者でなければできません。なぜなら、その愛は神のみから出ているからです。

私たち人間には備わっていないものです。私たちは、イエスを通して神の愛を知った。

だから私たちは自分以外の人たちを愛していく。なぜなら、私たちの根幹には自己愛しかないからです。

(ただしこの自己愛というものも私たちが生きていくうえでのとても大切なものです。)

今から四百数十年前、この日本に初めてキリスト教の宣教師たちが渡来した時、

彼らが伝えたかった福音 ― 良き知らせ ― の神髄は「神の愛」でした。

八百万の神々と区別するために「デウス」を用いた宣教師たちは、愛にもっともふさわしい言葉として、

「ごたいせつに」という言葉を選びました。そして、「あなた方一人ひとりは、デウスのご大切なのですよ。

身分、才能、性別、年齢、財産などと一切かかわりなく、神のみ前にかけがえのない価値あるものなのです。

だから、自分を粗末にしてはいけません。自分を大切にしてください。」と語りかけたということです。

「あなたがた」すなわちあなたを含むすべての人を神は大切に思い当てしておられるのです。

あなたは今誰かに愛されていると思えなくっても、世界中でたった一人だと悲しく思っていたら。

このイエスをあなたの心にお迎えしてください。イエスはあなたを待っておられるのです。


 

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ねたむな、

2018年06月15日 | キリスト教

 

「主よ、わたしがあなたと論じ争う時、あなたは常に正しい。しかしなお、わたしはあなたの前に、さばきのことを論じてみたい。

          悪人の道がさかえ、不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか。」            

                                           エレミヤ12:1 


これは、普遍的な問題です。義の神がおられるならなぜ悪者が栄えるのか、という疑問です。

また詩編(73:11~13)の記者もこう言っています。「… 彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」見よ。

悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。」                  


「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」

                                                      箴言24:19~20


神が正しいこと、心の清い人々に慈しみ深いことを知っていましたが、でも悪者、高ぶる者が栄えるのを実際に見ます。

それで信仰から離れてしまいそうだ、という弱さを打ち明けているのです、「不条理」という言葉があります。

「物事が理に適わない」ことです。まさに、神様を信じない人の世はそのようなところです。

だからと言って、神様が不在ではなく、無能無力でもありません。やがて神様の時が来れば、

全ての理非が明らかになります。それを信じることが信仰です。

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、

                        あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」 詩編 73:28


「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。

今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 」

                                                                                                                 Ⅰコリント13:12 



 

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あなた方が裁く通りに。

2018年06月08日 | キリスト教

人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」

                               詩編 58篇 12節

 

私たち人間の心には、無念を晴らしたいという思いがあります。だから、昔であれば水戸黄門、少し古いですが半澤直樹のようなドラマを見て、

心がすっきりするのです。けれども、私たちキリスト者は、神を信じる者たちは、これを神の中で行います。

反対があっても、迫害があっても、神がその反対を速やかに裁いてくださることを信じるのです。

すると、私たちはその人たちが救われることを願うことができます。その人たちが神の裁きを受けなければいけない器であることをを悟り、

その人たちを憐れみ、福音を伝えようという余裕が生まれるのです。

物事を公平に正しく見極める目は必要です。しかし、あの人が悪い、この人が悪いと裁く態度は、

裁く当人にとって精神衛生上非常に悪いばかりか、時々、問題を大きくしたり、物事を混乱させたりします。

イエス・キリストは、有名な山上の説教の中で「裁いてはなりません、裁かれないためです。あなた方が裁く通りに、あなた方も裁かれる」

と言われました。パウロも言います。人間が正しいとされるのは、決してやましいことが一つもないという自分の正しさによるのではない。

人間の正しさなど、横の人との上辺だけの比較の問題にすぎません、

人を正しくするのは神の愛、神の赦し、神の恵みだけです。自分の弱さ、小ささ、醜さをとことん認めて神の愛の中に飛び込むときだけ、

人は「義とされる」のです。裁くのは神だけです。神は必要な時、また最後に、裁き、報いてくださるのです。

 

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、

彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ 12:19-21)」
 

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侮ってはいけない。

2018年06月01日 | キリスト教

「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」

                                              ローマ 14章 3節

 

イエスは「信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることはできない」とはっきり宣言しています。

食べ物に汚れたものなどない、安息日に働きさえしなければいい、というものででなく、神が望まれるのは、もっと生き生きした愛であり、

義であると言われています。

人間は神の前では、誰もほとんど似たり寄ったりだということを知りながら、その小さなさに悩みます。相手とほんのわずか違うことを、私たちは

怒ってり、非難したりします。神はどんな人でも使われますし、愛されます。

愚かな人も賢い人も、勇気ある人も小心な人も、だらしのない人も潔癖な人も、それぞれ、それなりに心をもって尽くしていることを知って愛し、

実に巧妙に私たちをお使いくださるのです。

私たちがなぜ、他の人をさばいてはいけないか。その理由が、ここに書いてあります。神がその人を受け入れておられるからです。

神が受け入れておられるのに、私たちが受け入れないならば、私たちは、神のみこころに背いている、罪を犯していることになります。

食べる人は食べない人を侮ってはならない、とパウロは言っています。

自由にふるまっている人は、制約を受けている人を見て、侮りの思いがでてきてしまいますね。「あの人、あんなこともできないんだってさ?ばかみ

たい!」なんて感じです。また、逆に、肉は食べないという制約を受けている人は、自由にふるまっている人をさばいてしまいます。

「あの人、あんなことをやっている。なんてひどいことでしょう!」とさばいてしまうのです。このどちらもいけない、とパウロは言っています。

ローマ 12:10

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分 よりまさっていると思いなさい。」

自分が正しいと思って いることと異なることを行なっている、けれども、それが聖書で明確に書いているわけではないこと であれば、

その意見を尊重し、受け入れるということが大切です。 食べる人は食べない人を嘲り、食べない人は食べる人を裁く。

教会が本質的でないことで争うのは愚かであり、イエスの名を汚すことだとパウロは述べる。

日本においては、アメリカから持ち込まれた禁酒・禁煙が信仰の出来事とされたために、多くの人がつまずいた。

 


 

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