「 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、
御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」
Ⅰヨハネ 2章 16節
普段私たちを駆り立てているものはなんでしょうか。食欲、性欲などの生理的欲求、好奇心や探究心といった知的欲求、
所有欲や権力欲、虚栄心や名誉心といった自我の欲求。こうした欲求は必ずしも悪いものではなく、それを求める者には
それなりの満足を与えてくれるものです。しかし私たちの想いを隅々まで満たし、生かしてくれるものにはなりません。
だから相変わらず渇きが残ります。私たちはこの世に生きながら、この世が提供してくれるものだけでは、人間らしく
生きることができないのです。
イエスは救い主と呼ばれています。イエスに接した者は、あるいは癒され、あるいは喜びに満たされ、あるいは生きる勇気を
回復したと福音書は伝えています。私たちも諸欲に翻弄され続けるだけに終わらないよう、恵みとまことに満ちた主から来る
いのちを下さいと願い祈りましょう。
( この愛の性質上人は同時に二つのものを愛することができない。のですが、現代の社会と神との関わりと、男女のことを見ます
と悲しいぐらいこの道から外れているようです。また聖書ははっきりと記されています。「世と世の欲はは滅び去る」 と。)
「 我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。」
詩編 99編 9章
「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
イザヤ書 6章 5節
聖なる方に向かうとき、自分が罪人中の罪人であり、霊的に死んだ状態であることを自覚する者は父なる神に喜ばれる。
神のこの聖さは私たちを排除するものではなく、私たちを招くものだというのです。神はこう言われます。
「 私が聖であるから、あなた方も聖なる者になりなさい。」 なぜ聖い神は 「 私のように聖なる者になれ 」 と
私たちを 「 聖なる人生 」 に召してくださるのでしょう。
それは罪赦されて本当にへりくだって神に近づく心だけが、神とつなり、神のいのち、神の祝福に生きられるからです。
そして清い人生は、神との交わりの道であるばかりではなく、平和で幸福な、人との交わりの唯一の道でもあります。
また天国へ行くために、私たちは聖なる者、神と共に歩む者とならなければなりません。
罪は私たちを天国から排除します。私たちがイエス・キリストの十字架の血による赦しと清めの中をくぐり抜けて、
キリスト共に歩むところに、清められた生活があるのです。
ここに神を礼拝し賛美する理由を持つことができるのです。この神の姿がはっきり見えている限り、またこの神の救いを経験してい
る限り、私たちの生涯はいつも神を賛美し、絶えず神を礼拝していくことができる、祝福された生涯を送ることができるのです。
「・・・。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」
Ⅱ列王記 4章 26節
あなたの死に出会っても わたしの魂は悲しみに屈しない
死は長い別離ではない それは蔓を伸ばしていき
塀の向こう側で花を咲かせる 薔薇の蔓のようなものではないか
死は人を隠すものではあるが 人と人とを分かつものではない
あなたはキリストの側に行っただけなのだ
あなたはキリストと共におり キリストは私と共にいてくださる
キリストにあって私たちは いまも結び合わされている
「 荒野の泉 」12月3日の記事より
死とは辛く悲しいものです、それはその死が全てであるかのように思うからです。もちろん一時の別れは辛いものですが。しかし。
キリストを主と信じ受け入れた者にとっては死も生も私たちには影響を及ばさない。主イエスは言われました。
「・・・ 。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイ 28章20節 で終わらずに。
神の国においても共にいてくださるのです。