マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

告白と赦し

2016年03月25日 | キリスト教

 

「 御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。」

                                     詩編 25編 18節

普通、神に悩みや苦しみ、痛みを訴える時、慰めや癒しや、解決を求めるのが当たり前ではないでしょうか。

ところが、ダビデはここで 「 私は悩んでいます、苦しんでいます、私の全ての罪を赦して下さい 」と祈っています。

信仰者の苦しみには、神からの試練があり、自分の愚かさによるものがあり、また、外部からの攻撃によるものがあります。

しかし、いずれにしても、試練や困難が信仰を弱らせたり、神への信頼を疑わせたりすることがないように。

神の守りと助けと不信仰のゆるしを求めて行くのです。罪の結果底からの解放は、罪の赦しから始まるからです。

 スボルジョンはどんな悩みと苦しみのときにも、まず第一に自分自身の反省の時とする事を勧めています。

自分自身のことを棚に上げて人を責めたり、八つ当たりしたり怒ったり、ひがんだりしやすいですが、

まず、深く反省し、赦されていない罪、始末されていない罪がないかどうかを深く反省し、もしそれがあるなら、

神のところへ持って行き、悔い改め、言い表し、赦していただくことです。

また悩みと苦しみのとき、自分が世俗的に流されていないか、感謝を忘れていないか、人に対する思いやりが足りなくなかったか、

反省し、すべて神のところらストレートに持って行くべきなのです。

 

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善く生きていきたい

2016年03月18日 | キリスト教


 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」

                                 マタイ 25章 31節

この世の中で善く生きた人間は、死んだあとには善いところに行く。悪く生きた人間は悪いところに行く。

こういう思想は世界の至るところ、あらゆる民族のうちに何らかの方で見いだされるのではないかと思います

( 因果応報 ) というものでしようが、もしそうならば、誰一人として善い所には行けない、

もともとこの ( 因 ) であるところが ( 善 ) からかけ離れている状態であることを知らなければらないのでは。

 ソクラテスは人間の魂の不死であることを証明しようとして、いよいよ死が迫ってきたところで、

死んだ後に善い魂は良いところに行く、自分は善く生きたからこれから行くところで、善い人に会うのが楽しみであると、

そのようなことを言っています。( ソクラテスは自分の本質を知らないというか、お気楽な人だったのかも。 )

また仏教でのほうでも、地獄と極楽と言う事を言います。キリスト教においても、天国と地獄と言う事が語られています。

( キリスト教では「天国」という表現はなく、それは「 神の国 」または「御国」と言われています。)

聖書から

「 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」  ヘブル 9:27

「 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、

ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 」                         マタ イ 10:28

「 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を

持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。 」   ルカ 12:5

ただ、主イエスに助けていただいて善く生きていきたいものです。

 

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セカンド・アタック

2016年03月11日 | キリスト教


「 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。」

                                         ルカの福音書 5章 4節

漁師ペテロが夜通し働いて一匹も取れなかったのに、イエスはもう一度沖に漕ぎ出して網を降ろしてみなさい、と言われたのです。

( 彼はこの道ではプロ中のプロです。そして、漁師としてのプライドもあったことでしょうが ) 

この記事は私たちに人生のやり直しを教えています。努力をすることの前に、私たちは、よくこう言うのです。

「 今は時ではない 」 という理由で多くのチャンスを失うという経験があります。

主イエスはここでに私たちにはセカンド・アタックがあることをも知らせてくださいました。

私たちは色々なことで失敗し挫折することがあります。そうしたとき、イエスはご自身の方法で私たちのためにやり直しの

道を開いてくださるのです。信仰生活を続けていると、ペテロに言われたのと同じように、再度チャレンジするようにと

イエスの語りかけを聞くことがあります。そのとき 「 先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」 ともう一度聞き従いトライしてみる態度が必要です。

イエスの十字架は、失敗し挫折し自分の弱さと罪深さを知った者たちが、やり直しできるように備えられた救いの道であり、

復活はその力を保証する神の全能を表しています。

もしあなたが奇跡を望むなら、不可能に見えても試みよ、という主の言葉に信仰を置いてやり始めることが大事です。

 

 

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勝利の祈り

2016年03月04日 | キリスト教

「 正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います。」

                                           詩編 7編 18節

「  ああ、どれほど主に感謝していることでしょう。 その恵みは測り知れません。 王の王なる主の御名を、力いっぱいほめ歌います。」

                                           同  リビングバイブル より

 

ダビデは、何もやましい心も、謀反の企てもないのに、サウル王に誤解され、嫌われ、中傷され、命をつけねらわれました。

そんなとき、私たちは相手を呪ったり、攻撃したりしがちです。しかし、ダビデは先ず第一に、わが身を神のところに持って行き、

神に身を投げ出しまた。第二に、神のみ前に自分を洗いざらい投げ出して光に照らされ、反省しました。

そして、第三に、神の正しい裁き、弁護を求めました。そして、その結論がこの賛美です。「 正しくいます主にわたしは感謝をささげ/

いと高き神、主の御名をほめ歌います。」 心の中から、神への賛美、感謝の歌が流れ出るなら、あなたの悩み苦しむ心が、

正しい結論へ到達した確かな証拠です。そして、心からあふれる感謝の讃美は、現実的に、実際的に、問題を開き、解決へと

こぎつける力となるのです。感謝できるまで祈り続け、神の支配を待ち望みましょう。

聖書から

「主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。

                            私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」  詩編 5:8

 

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