マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

悟ると知識

2014年04月25日 | 日記

 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

                                                                                           詩編  19:12

詩編 19:13 ~ 14

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。

松明に ・・ ?

 知識と悟りの区別について。
 
           「 知識があるという事は、」 ・・・ 道を照らそうとして、松明を使う事。
           「 悟ったとは 」        ・・・ 松明になる事

神学校で何年か学び、それで悟ったつもりで、人々に語り、果てには、愛の御言葉で、人々を傷付けていた私、その時思ったのです。 「 この人たちは信仰が弱いから、私の勧めが理解できないのだ 」 と。なんと高慢な者でしょう。知識だけを振り回し、そこに何の実体もない事すら分からずに歩んでいた、
 
真実に一番惨めなのは私自身であるのに、その私を主は、抱き上げ、神の働きのために育ててくださいました。 「 私の松明となるように 」 と。今も松明になり切れているかは、甚だ自信のないものです。ただ、主よ、私をあなたの御手の中にと、祈っています。


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神との出会いの場。

2014年04月18日 | 聖書

     主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

                               詩編 130 篇 1 節

ほとんどの人は自分の力ではどうにも出来ない罪と死の深い淵に落ち込みながら、

まず第一段階に、その事実を否定するそうです。「 やめる気になればいつでもやめられる 」 と深い淵にはまり込んでいることを認めないそうです。

第二の段階は、そこからの脱出の方法を探究するそうです。始めは理性的に、自分の知恵と力によって脱出の道を捜しますが、次第に焦り、もがく様になるそうです。

そして第三の段階は、もう駄目だと絶望して立ち上がろうとしないのだそうです。

人が真実、神を呼び求める時、人はその淵から立ち上がり、抜け出る。人は神から離れ神をないがしろにした時から、底なしの深い淵に捕らえられていくのです。しかし、自分の力ではどうにもならないと、知らされて、その深みから、神を呼ぶとき、救い出されるのです。

あなたは今、何段階の状態でしょうか

主はあなたに速く気付いて欲しいと思っておられます。この第三段階は、つらくて、苦しんですが、でも、ここが主に出会う所となります。主はあなたより先回りして、その最悪の底で傷ついた諸手を広げておられます。私たちにとって、最悪の事態が、最良の時となりうるのです。それは、主イエスを信頼するときにです。

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神の答え

2014年04月11日 | 聖書

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

                                                 Ⅱ コリント 12章 9節
 全文
 「 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 」

 人間の持つ高慢さぐらい始末におえないものはありません。あなたは高慢ですねと言われるよりも遜った人ですねと言われる方が心地よいものです、そして、そう私はそうなんですと言ってのけるのが高慢さなのでしょうか。心が高慢である限り、キリストの救いを受けることはありません。( 絶対にです。) しかし、この高慢と言うものは自分ではなかなか判らないもので、神から示されれば聞く耳はあるが、あなたにだけは言われたくないと言うのもこの高慢です。( 人に言われれば腹の一つも立ちます。) 

 使徒パウロは 「 高慢にならないように、私の肉体に一つの棘が与えられた 」 と言っています。パウロの場合その棘がなんであったかよく分かりませんが、これさえ良くなれば、もっと活躍できるのにとパウロは思っていたようです。私たちも神の下さる一つの棘が自分には判らず、自分の働きを押しとどめるものにしか見えないときがあります。それ故に神の導きを否み、自我に没入してしまう、この棘が私にとって恵みの導きであり、最高のチャンスだとどうして思えましょう。真実は神に出会い、神の働きを見るチャンスなのですが。

 神の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である 」 でした。人それぞれ、生まれ育ち、環境の中でこの問題さえなければどんなに良いものかと言ったこと、一つや二つは持っているものです。実は神はその棘を与えられ、その弱さを通して働きをされるとパウロは教えています。パウロは 「 私が弱いときこそ、私は強い 」 と言う経験をしています。弱さがキリストにあって働きになり、恵みになると言っているのです。( そう確信できれば嬉しいのですが、この未熟な信仰ではそうもいかないのが現実の私であります、そして、ぐちぐち言っております。それでも神は私を愛されていることには変わりはないのです。感謝。 )

              今日もぐちぐち言いながら神のもとへ行きましょう。そんなあなたを神は待っているのです。

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信じたのに

2014年04月04日 | 聖書

 

労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

                                  Ⅱコリント 11章 27節


 私たちが信じた後、とおらなければならない道。 ( 信仰 × 試練 = 信仰 - カス + 忍耐 = 円熟したクリスチャン ) しかし、もし出来るならば通りたくないと言うのが本音でしょう。

 誰もが、苦しみから解放されたいと願いますが、何処にも、苦しみの無い人生などと言うものはありません、信仰を持ってクリスチャンになったとしても、それは苦しみに出会わない人生を意味するものではありません。 ( それどころか、聖書にはあなた方はこの世にあって艱難がありますとはっきり記されています。 ) では、信仰を持つと言う事は、一体何を意味するのでしょうか。それは、苦しみに出会わない人生ではなく、苦しみはあるけれども、苦しみによって潰れてしまう事のない人生、そんな人生を聖書は確かに約束しているのです。苦しみに潰れず、いや潰れないだけではなく、それを乗り越えて、その都度新しくされていく、その素晴らしい人生を約束しているのです。私たちには、「 確信 」 の二文字はあっても、 「 絶望 」 の二文字はありえないのです。

 信仰者の強さは、自分の強さではありません、自分が強いのではなく、共におられる主が強いのです。誰もが強く揺るがない人生を送りたいと願わない人はないのです。もしも、強さの原因が、単なる自信であるならば、その強さはやがて、自らの限界と共に崩壊する可能性を秘めているのでは。私たちは、一見強そうに見えて、実は大変もろいのではないでしょうか。
   
                         「 苦しむ事が悪いと言うのではなく、思い煩う事が問題なのです 
                               日曜日には教会へ家族揃っていかれますように。

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