マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

力ある働き

2018年09月28日 | キリスト教

「 神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。」

                           詩編 60編 14節

 

神に任せきり、神と共に歩むとき、私にだって力ある働きができるのです。

それでは「力ある働き」とはどんな働きでしょうか。

第一に、エネルギーに満ちた、生き生きとした働きではないでしょうか。

朝ごとに、神から、愛や慰めや励まし、いのちの力を頂いて目を輝かせて働くのです。

第二に、世間の言う大事業、大成功とは違うかもしれませんが、人の役に立つ、

神に喜んでいただける、永遠につながる価値のある働きではないでしょうか。

神の目から見る偉大さと、人間の考える偉大さは何と違う事でしょう。

イエス・キリストは偉大な者になろうと思うなら、仕える者になりなさいと言われました。

私たちは、神を信じることによって、神に祈ることによって、また神を愛し、神に従うことによって、

「力ある働き」ができるのです。

神は、私たちに神に依存することを学ばせるためにさまざまな窮地へと陥れるようです。
 
ダビデも王になる前も、王となってからもこのことを学ばされました。信仰の歩みには卒業はありません。
 
イエス様は言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
 
このくらいのことだったら自分にもできる、と思ってしまうことが私たちには無いでしょうか。
 
また、パウロの書簡には、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」とあります。
 
自分で勝手にできないと思い込んで、主のみこころを求めるのを止めてしまうことはないでしょうか。
 
神によって、力ある働きをすることができます。頑張りの世界ではなかなか弱音を吐くことができません。
 
しかし、神の世界においては、自分の弱さを知り、認めることによってはじめて神が働かれる世界です。


 

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み言葉に一途に。

2018年09月21日 | キリスト教

主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、

それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである』。」

                                 アモス 8章 11節

そこに御言葉はあるのに、牧師が体験したこの世的な他の話に取って代えられているのです。

神のみ言葉に、違う面白い話に変えられているのです。人の関心をひくために、あるいは、教会員に配慮をして。

また間違った教会成長という誘惑に駆られて。説教壇で御言葉が宣言されず、ただの人間の言葉が数多く語られているのです。

いつか、まったく御言葉が聞けなくなる時が来ます。いやもうこの飢饉は始まっているかもしれない。

真実に神のみ言葉に耳を傾ける者だけが、この聖書のみ言葉で満ち足り養われる時代になっているのかもしれない。

教会はまっすぐに神のみ言葉を足しもしない、引きもしないで語られるように願う。


また「人はパンだけで生きるのではない」、パンと水の欠乏は肉の生命を脅かすが、

神の言葉の欠乏は霊の生命を滅ぼす。神の言葉を見失った典型がニヒリズムではないでしょうか。

ニヒリズムは「神はいない、絶対的な真理はない、死んだらすべては終わる」と考える。

「すべてが空しい」というニヒリズムを徹底すると、そのプロセスの過程で心身を病み、自殺するしかなくなる。

「神の言葉の欠乏」は、人間を「生きたまま死なす」災いです。

日々、みことばを聞く事によって、心と魂は探られ、清められ、励まされ、生かされています。

これが途絶えるなら、命を失うでしょう。今日も、み言葉によって養われますが、

その恵みをどれほど感謝しているでしょうか。

みことばを聞けなくなるときが必ずきます。心引き締めて、み言葉を聞きましょう。


申命記 8:3

「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。

人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

申命記  28:48

「あなたは主の差し向けられる敵に仕え、飢えと渇きに悩まされ、裸にされて、すべてに事欠くようになる。

敵はあなたに鉄の首枷をはめ、ついに滅びに至らせる。

詩編  34:11

「若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。」

詩編 107:9

「主は渇いた魂を飽かせ/飢えた魂を良いもので満たしてくださった。」




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御心のままに。

2018年09月14日 | キリスト教

「 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」

と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

                              Ⅱコリント 12章 9節

 

これは、クリスチャンが試金石とすべき根本的な真理です。クリスチャンの力は、自分の弱さの中に現われるということです。

私たちは自分の心の中で、一つのサクセス・ストーリーを考え出します。「これこれをしたら、神さまがこのように働いてくださって、

そして、このような出来事が起こって、それで私は幸せになる。」というような、成功談をそれぞれの思いの中で抱いていると思います。

 
 「キリストのために苦しむこと、キリストと共に苦しむことは恵みである。ここに聖書の信仰がある。」


私たちは自分の都合のよいことばかり願い、また、それを叶えることが神の仕事であるかのように考えがちです。

病気を治してください、お金持ちにしてください、この苦しみを取り去ってください ・・・・・・ 。

願うこと自体は決して悪いことではないのですけれども、その後に、「しかしながら、みこころのままに」

と付け加えることを忘れてはいないでしょうか。そして神は仰せられるのです。「あなたには、私の恵みで充分である」と。

 

弱さの中にあって、初めて見えてくる神の恵みがあります。他に苦しんでいる人をあわれみ、助け、慰めることができます。

 また、何よりも、私たちの主イエスさまのことを、深く、親密に知ることができます。イエスさまが歩まれた十字架への道を、
 
私たちが低くされることによって初めて歩むことができるのです。神が最も願われているのは、
 
私たちがキリストに結びつけられた者となることです。もちろん、イエスさまを心にお迎えしたときからすぐに、
 
結びつけられたのですが、その後の人生は、結びつけられた自分に、死んでよみがえられたキリストが現われるようにされようとします。
 
そのために、時に肉体のとげを与えられるのです。

神の愛というものは、人間の不幸、災難、苦しみから遠ざけることにあるのではなく、

それらの試練に耐える力を添えてくださることにあります。誰しも試練から逃れたいと願いますが、にもかかわらず、

与えられたときには、神の愛に信頼して乗り切っていきたいと思います。

 

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口が

2018年09月07日 | キリスト教

「 口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に/自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に/彼らが捕えられますように。」

                詩編 59篇 12節

口は禍のもとといいますが、その第一は「高慢な言葉」です。チョットした言葉の端々に人を見下す心が出ます。

人を見下す言葉は、人と人との心の通い路をシャットアウトし、また、自分では永遠に気が付かないかもしれませんが、

人の心に傷をつけます。

第二は、「のろい」です。のろいの言葉は、私たちが思う以上に私たちの口から出ているものです。

恨みごと、裁きのことば、皮肉、とげのある憎しみに満ちたやり返すことば、ことば・・・悪が悪を生み出す口の罪はのろいです。

第三は、「あざむき、よこしま」です。人の美点を見つけてそれをほめることは、気持ちの良いことです。心が通います。

しかし、あざむき、よこしまというのは口先が巧みで心のねじけていることです。まず動機がいけません。

自分を偽り他人を偽ることです。愛も喜びも平和も生まれません。イエス・キリストは私たちの心を清めてくださる方です。

 

イザヤ 24:16

 「 地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。しかし、わたしは思った。

「わたしは衰える、わたしは衰える/わたしは災いだ。欺く者が欺き/欺く者の欺きが欺く。」

 

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