マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

互いに

2020年12月04日 | キリスト教

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

            ガラテヤ 6章 2節

キリスト教の特徴の一つは、分かち合いの精神です。私たちが人生の各段階で背負う重荷は、実に様々ですが、

もしその折々の苦しみや辛さを、誰かが熱心に聞いてくれたら、ずいぶんと慰められると思います。

それはすぐ、その苦しみの解消にはつながらないでしょうが、じっと自分の話に耳を傾けてくれる人がいるという、

その事だけで、私たちは自分の重荷を背負い直し、生きていく勇気与えられます。

「分かち合う喜びは二倍の喜び、分かち合う苦しみは半分の苦しみ」という美しい諺があります。

誰でも何か嬉しいことがあったら、すぐに家族や友人たちに知らせて、一緒に喜んで欲しいと思うでしょう。

同じように辛いことや、悲しいことが起こったとき、その苦悩を分かち合える人がいたら、どんなに大きな心の支えとなるでしょう。

 

クリスチャンは、それぞれが独立して、一匹狼のように生きたりする存在ではありません。

あるいは、自分の悩み相談室のように、自分の悩みが解決されることだけを求めて教会に来るのでもありません。

孤立するのでもなく、依存するのでもない、「互いに重荷を負いあう」仲が、クリスチャンの間に必要なのです。

 

キリストはだれも担えない重荷を私たちに代わって担ってくださったという事実があります。

そのことによって、私たちは救われた(贖われた)のです。私たちはキリストの十字架という贖罪の恵みを受けたのですから、

キリストにある兄弟たちが互いに重荷を負い合うことは当然のことなのです。

そして、それによって「キリストの律法を成就することになる」のです。

 

 

 

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神になろうとしている。

2020年11月27日 | キリスト教

「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。」

      マタイ 5章 7節

あわれむとは、人を赦し、さばかない態度です。

イエスは後で、「さばいてはいけません。さばかれないためです。(7:1)」と言われましたが、

私たちは、人の心の中に起こっていること、つまり動機をさばくことはできません。

むしろ私たちは、神がわたし達を豊かに赦されたように、私たちも他人を赦すべきなのです。

約束は、「あわれみを受ける」ことです。ですから、他人を赦すことは、直接私たちの益につながります。

神の義を求める者は、憐れみ深くなります。自分の義ではなく、神の義を求めるからです。

イエスは後で、「裁いてはいけない」ことを教えられます。

マタイ7:1-2
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、

あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」

そこで、裁きというのが神の領域にあることを知るようになります。

命を与えるのも取るのも神のみが行ないますが、もしそれを人が行なったら殺人です。

それは神の領域に侵害したことに他なりません。同じように、裁きや復讐も神に属しています。

これに手を触れることは神の領域に同じように侵害しているのです。

それで、私たちが憐れむのは神への健全な恐れによって、憐れみます。

「その人はあわれみを受けるからです。」とあります。人に憐れみを示すことが、

自分自身が神の憐れみを受けることにつながっていることを知ります。

 

「私は間違いを犯すなら、憐れみのほうで過ちを犯したい。

人を誤って裁くのではなく、人を誤って赦すことを選びたい。」                          

              チャック・スミス

 

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祈るために

2020年11月20日 | 聖書

「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。

          あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」

                               詩編 70篇 6節

この詩編は伝統的に受難節に読まれてきました。十字架につけられた主イエスの祈りと通じるものがあるからです。

私たちの信仰はしばしば緊急性、切迫性が感じられるところで試されます。つまり、私たちが緊急性、

切迫性として感じられる状況では、助けが遅くなってしまったら大変だという恐れが背後に隠れています。

そんな私たちの恐れに対して、イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問われます。

神を信頼するということがどういうことかを探られることばです。

また、信頼するとは、一見、緊急を要する状況の中でも主にあって安心することです。

そうした主を信頼することから生まれる心の余裕を持つことが、本当の信頼することだと信じます。

 

祈りは、私たちに与えられている特権であり、人生の奥義です。(シークレット) 祈りについて三つのポイントで考えました。

第一は、「悩む者、貧しい者です」と正直に魂を裸にして祈ることです。自分の実情を認め、

偽善や見栄の衣を脱ぎ捨てて祈る、悔い改めた魂の祈りこそ神に聞いていただける祈りです。

 

第二は、魂の緊急性からくる本音の祈り、本気の祈りを捧げることです。

この作者は「神よ、私の所に急いできてください」と祈っています。どうしても今、助けてもらわなければだめなのです、

と本気で願い求めるとき、父なる神は神の子供たちの叫びを聞いてくださらないことがあるでしょうか。

 

第三のポイントは、神こそ私を助け、救ってくださるお方だと確信して祈ることです。この祈りの秘密を私のもととしたいものです。

 

( ダビデは王ですから物質的には貧しくないですが、霊的には自分は貧しいことを知っていました。

主がおられなければ自分には何もないことを彼はよく知っていました。私たちはどうでしょうか。)

 

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喜んで。

2020年11月13日 | 聖書

「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」

               詩編 51篇 12節

罪の清めによって、主に仕える霊が回復できますようにと祈っています。

その清い心により霊が揺るぐことなく、御前に留まることができ、

救いの喜びに基づく神への奉仕ができます。

そうです、私たちの奉仕は、救いの喜びに支えられた、喜んで仕える霊です。

したがって、私たちは神に仕えるということについて真実に知りたかったら、

まずは罪の清めを知り、救いの喜びを知っているということです。

 

聖書は、痛みを伴ったおそれや、偽りの愛からではなく、心から神に仕える望みを人に与えます。

おそれの心から神に仕える人は、おそれが続く間しかその奉仕を続けないからです。

自分の意志によるのではなく、強制によって、神に仕える人は、刑罰がなく地獄が無くなれば、

仕えることをやめるでしょう。同じように、繁栄と報いを求めて神に仕える人も永続しません。

報いがなく、栄えることもないと知ったらなら、神を愛することをやめるからです

。これらすべての人たちは、神の救いの中に喜びをもちません。彼らはまことの霊も純粋な心も持たず、

神より自分を愛するのです。しかし、良いシッカリした意志によって神の仕える人々は、

物事がうまくいかなかっても、気持ちがよくても苦々しくても、主の奉仕に揺らぐことはありません。

 

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罪認

2020年11月06日 | キリスト教

「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

                           ヨハネ 8章 7節

罪のない者とは、罪を犯したことがない者ということです。

イエスはここで、この女が石打ちの刑になるべきであることを否定されていません。むしろ、「彼女に石を投げなさい。」と命じておられます。

そうです、彼女は死に値する罪を犯したのです。けれども、イエスは同時に、あなたたちも石打ちの刑を受けなければいけませんね、と暗に示されています。

罪を犯せば、モーセの律法によれば死刑です。彼らも殺されなければならないのです。

 

姦淫の女に石を投げなかったイエスは、世の光でした。イエスは、暗やみのわざを明らかにされる光なのです。

そして同時に、神の恵みとまことを完全に示す光でもあります。その罪が赦される恵みを現わす神であります。

イエスは、「わたしに従うものは、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われましたが、この女はいのちの光を持った例です。

 

自分が神の律法(聖書の言葉)に照らして、死ななければいけないことを悟らない限り、神の救いとその恵みを味わうことは決してない。

1)罪が分からなければ、キリストの死は分からない。

2)分かっても、その刑罰が死であることを認めなければ、キリストの死は分からない。

3)罪の赦しも、救いも、永遠の命も、「自分が死刑を受けるべき罪人だ」ということが分からなければ、そこに感動も恵みも感じられない。

4)だから、ユダヤ人指導者のように、戒めの一つでも徹底的に守ろうと努力してみるのも良いかもしれない。(いかに守れないかを知るため)

 

 

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