マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

一人より二人

2022年04月29日 | キリスト教

ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。

            伝道者 4章 9節

この箇所全体は「ふたりであることの祝福」が述べられています。一人では得られないすばらしさです。

伝道者は「日の下で」ふたりであることのすばらしさを、ひとりぼっちのむなしさと比較しています。

このふたりとは必ずしも結婚する者のことを意味していません。仲間、友人、協力者であっても良いのですが、

特に11節には「いっしょに寝ると暖かい」とありますから、ここでの「ふたり」とは「夫婦」と理解するほうが自然です。

 

その二人が力を合わせて一つの仕事にあたると、一人でするよりも行き届いてよくすることができ。

しかも、その報いを二人で喜び、楽しむことができるのです。

そして、このみ言葉を私と主イエスに置き換えて考えてみてください。主イエスが私とともにおられるなら、苦労も苦労でなくなります。

その報いは大きいのです。主イエスが私とともにおられるなら、今夜も主イエスに抱かれて、すてきな夢を見て眠れると思えば一人でも暖かいのです。

 

「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」

興味深いことに、二人の話をしているときに三つの撚り糸と言っているところです。

二人がいるところには、二人がもたれあうのではなく、そこに新たな一本が生まれます。

希望という一本、信念という一本、支柱となる一本ができます。そこに二人が絡まり合うことによって強くなることができるのです。

 

使徒行伝や手紙には、パウロが「私」と書くよりも「私たち」と書いていることは、

ここでソロモンが言っていることに関わります。パウロは、初めはバルナバと、そして途中からシラスと動き、

そして信仰の子であったテモテと動きました。私たちは、自分たちのしている神の働きが決して、

独りのものであると考えてはいけません。共有しているのだという意識と信仰が必要です。

 

マタイ18:20
「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

助けを求むのは

2022年04月22日 | キリスト教

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

                                詩篇 121扁 1~2節

 

この詩篇の問いかけは「私の助けはどこからか」です。詩篇の作者は自分自身が大いなる守りと安全を必要としていることを感じながら、

「その助けはどこから来るのだろうか」と思案しています。

安全の保障、防衛の保障は、生存の保障と並んで、私たち人間の基本的なニーズです。

私たちの人生の営みのほとんどは、この必要のために生きているといっても過言ではありません。

 

「自分は誰の世話にもなっていない、自分の力だけで生きている」と錯覚している人がいますが、傲慢と無知丸出しです。

人は一人で生きることはできません。私たちは毎日他者の助けを必要としています。老人や幼児だけの問題ではありません。

青壮年の方々も例外ではありません。高齢になると、そのことをいっそう痛感します。

昨年は苦にならなかったことを、今年は負担に感じて助けを求める事になります。

私たちが必要としている助けは様々です。青年の力を借りることがあります。老人の知恵を借りることもあります。

医療技術者の助け、教育指導をいただく助け、熟練工の助け・・・。助けなしでは生きられない私たちは、

悲しい事に時々見せかけの助けに欺かれることがあります。

 

この「私の助けは、天地を造られた主から来る。」との告白は、新約的に言い換えるならば、

自分が「肉の支配下」ではなく、神の賜物である「聖霊の支配下」においていただいていることを信じ、

聖霊に導かれることを願う生き方と言うことができます。

 

「私は山々を仰ぐ」とあります。山々とは、どこにでもある山ではなく、シオン(エルサレム) にある山です。「仰ぐ」は、祈りの姿勢です。

シオンの丘には神殿が立っており、そこには神の臨在を象徴する契約の箱が安置されていました。

巡礼者は、そのシオンの山々に向かって目を上げ、信仰の祈りを捧げました。彼は問いかけました。

「私の助けは、どこから来るのか」 と巡礼者は自問自答の信仰告白として、「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」と。

人や、富や、地位に頼ると、必ず失望します。しかし、天地を創られた主に頼るなら、決して失望させられることはありません。

神は、私たちの肉体的、精神的必要をすべて知っておられて、それを満たすことができる神なのです。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タラント

2022年04月15日 | 日記

彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、

               もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

             マタイ 25章 15節


彼は、「おのおのの能力に応じて」、財産を渡しました。

彼は、ある特定のノルマを達成しなさいと命じられたのではなく、それぞれの能力に応じて財産を任しました。

この世の仕事では、私たちにある一定の基準を要求して、それを満たすことができないと用いられませんが、

神はその反対に、どのような人をも用いることができるのです。なぜなら、能力以上のことを任せておられなからです。

と同時に神は、能力以下のことも任せられません。

さて、人生には神による総決算の時があります。主人は神、僕は私たち一人ひとりです。タラントは神から預かっている賜物です。

私たちは、誰でも自分の歩んできた人生の総決算を神のみ前でしなければならない時があります。

「かなり日がたってから、僕たちの主人が帰ってきて、彼らと清算を始めた」25:19にある通りです。

神は預けたタラントに従ってしたがって決算されます。私たちクリスチャンの場合、

神が救いへと召されたと同時に、奉仕の賜物が与えられます。神が与えて下さったタラントに気づき、

それをよく用いるのです。そこに信仰者の祝福があるのです。

 

それで、神はその人には責任を問われるのです。神は、おのおのの能力に応じて、ご自分の財産を預けられます。


1タラントは6000デナリになります。1デナリは、当時の一日の労賃に値するものですから、

一日1万円の賃金だとすると、5タラントの人は、3億円の財産を預けられたことになるのです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈り。

2022年04月01日 | キリスト教

御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。

                                        詩篇 25扁 18節

普通、神に悩みや苦しみ、痛みを訴える時、慰めや癒しや、解決を求めるのが当たり前ではないでしょうか。

ところが、このダビデはここで 「私は悩んでいます、苦しんでいます、私のすべての罪を赦しい下さい」と祈っています。

スポルジョンは、どんな悩みと苦しみの時にも、まず第一に自分自身の反省の時とすることを勧めています。

自分自身のことを棚に上げて人を責めたり、八つ当たりして怒ったり、ひがんだりしやすいのですが、

まず深く反省し、赦されていない罪、始末されていない罪がないかどうかを深く反省し、

もしそれがあるのならば、神のところへ持っていき、悔い改め、言い表し、赦していただくことです。

また悩みと苦しみの時、自分が世俗的に流れていないか、感謝を忘れていないか、人に対する思いやりが足りなくなかったか、

反省し、すべての神のところへストレートに持ってい行くべきなのです。

 

ダビデが言っている罪、そむき、咎とはすべて、主を信頼しない罪です。

主を信頼しないことは、子どもが親に対して、ぼく(わたし)はあなたを信頼していないというようなもので、

その態度やことばはどんなに親の心を痛めることでしょうか。けっして小さなことではありません。

大きな、深い罪です。人を殺したとか、人のものを盗んだということ以上に、神に対する最も大きな深い罪です。

このことをダビデは自覚して祈っているのです。

 

同じ罪が私のうちにもあります。私はダビデのように祈ります。

「主よ。あなたを信頼しなかった私の咎(罪)をお赦しください。大きな咎(罪)を。

そして今、私は決して失望させられることのない主に信頼します。」と。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

べテスタ( あわれみ ) 

2022年03月25日 | キリスト教

イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。

                      ヨハネ 5章 6節

このイエスの言葉は同時に、私たちへの言葉でもあます。「あなたたちも希望をなくしているのではないか」、

私たちのある者は、何十年も教会生活をしており、毎週、聖書を読み、説教を聴く。

しかし、何も起こらない。生活はいつも通りだし、心に喜びがない。私たちもまた希望をなくしているのではないか。

その私たちにイエスは問いかけられる「良くなりたいか」。希望を回復しなさいと。

 

水野源三さんは41年寝たきりの人生を送ったが、いつも生かされていることを感謝していた。

「生きている、生かされている、歯が痛き、手足がかゆき、咳が苦しき」。

「幾たびも、ありがとうと声出して、言いたしと思い、今日も暮れゆく」。

「もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら 

神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら 神様の愛は現われなかった」。

                            水野源三・短歌と詩集から

 

「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。

その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。

その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。

“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。

すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。          三浦綾子・泉への招待から

 

三八年も病気で苦しんでいた男が、ベテスダという池のそばにいました。

水が動くとき、真っ先に飛び込んだ者が癒されるという言い伝えがあったからです。

しかし、自分が飛び込もうとすると、他の人が飛び込み、そのチャンスを逃していました。

主イエスはこれを見て、この男に声をかけ癒してやりました。この男の苦悩と孤独は、

肉体の苦しみの上に心の苦しみ、孤独が付きまとっていました。

私たちが悩むときもまた同じです。人に話すことができない、

あるいは、分かってもらえない孤独感が付きまといます。

しかし、主キリストは神の御子として救い主として、

私たちと共にいてくださいます。

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする