マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

本当の満足

2015年06月26日 | 聖書


「 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」

                                    マタイ 5章 6節

「 ああ、飢えて死のうとする人が食物を求めるように、あるいは、渇いて死のうとする人が水を求めるように、

全な義を慕い求める人の、幸いよ ! その人は本当の満足を得ることができるであろう。」  バークレ―訳

「 幸い 」とは、神の祝福を受けた者としての喜びです。必ずしも自分が成功することではありません。

「 義に飢え…」とは、神との正しい関係、神のみ心に従うことをひたすら求める人のことです。この人の追及は

飢えや渇きが満たされるまでやむことはありません。このような人を神はご自身との正しい関係に入れてくださるのです。

さて、肉体の渇きは水を飲めばおさまりますが、聖書にある渇いたものとは、どういうことでしょうか。

それは心から溢れるような喜びのない状態、心の中の欠乏を表しています。愛すべき夫を愛せない、

愛すべき子供を愛することができない。これは心が欠乏して豊かさを失った現実の姿です。

この欠乏は何によって補えるのでしょう。 

アメリカの年老いた、ダーク博士は言っています。日本には偉大な点が三つあると。

一つは、一夜にして明治維新を起こし民主主義に加入した。二つ目は、戦後、裸から世界の経済大国になった

三つ目は、神社、仏閣を中心に村や町をつくり助け合ってきた。と・・・・・・ 。

日本人の誇りを取り戻し、絶えず呼んでおられる神へ帰ることです。独り子をこの世に遣わすほどに愛してくださった神は、

己を愛するごとく人を愛しなさい。そして、心を尽くして、思いを尽くし、主なる神を愛せよと言っておられます。

 

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戒めとして

2015年06月19日 | 日記

 

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

                                                            ヨハネ 13章 34節

私たちはしばしば、おそらく無意識に、愛から何が得られるかを考えてしまう。私たちはそこから受ける幸福やスリルのことを考える

また、もしこの愛が破れ、拒稀るときに、そこから私たちが受ける空虚さや孤独のことを考えるので、

この愛が私に何をしてくれるのだろうとおもう。神の愛と私たちの愛の違いなんと違うことでしょう。しかしこの命令は、

イエス・キリストを通して示された神の愛に基礎づけられています。それはイエスの弟子としての特権でもあり、恵みでもあります。

物事を確信することは、救いの力だと言われています。レーナ・マリアもヘレン・ケラーも、この世で生きていくことは

不可能であったかもしれません。しかし、神の救いを信じていました。信じてきた人には、必ず救いがあります。

キリストの愛は、永遠に確信を持たせ、信じさせることです。信じることなくしては、上からの助けも、救いもありません。

イエスは、ご自身が死んで証しするためにこの世に来ました。また、永遠のいのちを与えるために生まれて、

この世に来た。と言われました。あらゆる宗教を信じる人々には、その救いの度合いは異なるかもしれませんが、

必ず救いがあります。確信を持って、その信ずるところに立ち続けて欲しい。

聖書から

「 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、

初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。

  愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、

 あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。 」

                                      Ⅱヨハネ 1:5 ~6

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待っている神

2015年06月12日 | 日記

「 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 」

                                      ルカの福音書 15章 19節

「 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」                                            同 17~18

人生にはいくつかの転機があります。その中のあるものは、苦痛を伴うものであります、しかし、人間とは、すぐに心が高ぶる生き物なので、祖と言うことがないと自分の本当の醜さを気づかないでいます。何処から自分が転落したか分からない、自分勝手な生き方が自由な生き方であると思い込んでいる人たちがいつの世にも多くいるのです。それは、神を神としないところから来ています。だから彼は、「天に対して罪を犯」したと言っています。

さて、ここに二人の息子がいました。弟の方は、父が存命中であるのに、財産の分け前が欲しいと申し出ます。中東では、父は死ぬかその権利を放棄するまで、その財産を管理することになっていました。弟は、父に早く死んで欲しいと言っているのと同じです。財産をもらった弟は、遠くへ行き放蕩の限りを尽くし、やがて飢え死にする寸前まで追い詰められます。しかし、この弟は光をみました。お父さんに謝ろう、と思ったのです。もう息子の資格はないから雇人の一人にしてもらおう、そこまで自分の罪を深く自覚したのです。

父親は、遠くに息子が見えたとき、走り寄ったのです。中東では、老人は走らないそうです。その老人が走ったのですから、お父さんの喜びはどんなに大きかったことでしょう。天の父も、私たちが自分の罪を悔い改める時、走り寄り赦して下さいます。罪は全く赦され、新しい出発を始めることができるのです。 

 

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一つの群れ

2015年06月05日 | キリスト教

「 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、

わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」

                                  ヨハネの福音書 17章 8節

 教会が神の言葉以外には、何も指示したり定めたりしないことを、私たちは知っています。

( たとえ愛する牧師先生でも、牧師先生の経験や知識を語るならそれは神のみ心とは言えません。

人の悟りというものは間違うと言うこともあるからです。聖書のみ言葉自体に神の恵みと力があるのです。)

もしそうでない教会があるとすれば、キリストが言われるように、それはただの名前だけの教会です。もっと言えば

教会というものが主のおられないただの建物のこととなってしまっています。

み言葉は、教会が語るから、牧師が語るから、神の言葉であるのではなく、神の言葉が説かれている事実が、

教会を構成します。

神とイエスは一つの群れとしての一致を保つことができるようにと祈られた、それは彼らが単に、人間的に

意気投合し、一つの群れとしてまとまることではなく、イエスと天のみ父のうちに持っていたものと同様の、

愛と従順における一致のことです。

み言葉は教会に依って造られたものではなくて、教会は神のみ言葉によって造られています。

そこに教会があると言うことを知ることの出来るハッキリしたしるしは、神の言葉です。私たちが教会の説教や、

御霊の証しを聞かないとすれば、教会がどこにあるかをどうして知ることができるでしょうか。

 

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