マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

舌を

2017年11月24日 | キリスト教


「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」

                                         ヤコブ 3章 9節

この手紙を書いたヤコブは船と舵の例をあげて、大きな船であっても、小さな舵で操縦者の思いのままに運転されると言っています。

それと同じように、身体の中で舌は小さな器官ですが、これを正しくコントロールしないと、とんでもない方向に行ってしまいます。

神に向かって讃美した舌が数十分後には、人間に呪いの言葉を出すと言うことは、もうこれは恐ろしいことです。

私たち性善説を取りますが、しかし聖書は人は性悪説、人間の本性は悪だと言うのです。その舌を通じて人を害するのです。

このように同じ舌が、まったく反対のことをするわけです。舌をコントロールすることは、非常に難しいことです。

舌を正しくコントロールする力を神に求めましょう。ただ、ことばによる失敗を恐れて、

出来るだけ言葉を出さないことに努力するのではなく。人を理解し、慰め助け、励まし力づけ、

喜びと希望を与えるような言葉を出すことができるように、助けてくださいと祈りましょう。


マタイ  12:36 ~37

「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、

さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、

罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」

 

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私の助け

2017年11月17日 | キリスト教



「 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。

あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。」

                                  詩篇 27編 9節

 

あなたは切羽詰まった苦しみ、悩みらであったとき、何と叫ぶのでしょう。なんと祈るのでしょう、

「助けてくれー」でしょうか。聖書は単純に素直に祈れと教えています。

「あなたは私の助けです」とキッパリ言います。長い人生の間、いろいろなことがあり、いろいろなものの助けを求めてきました。

しかし、この人生の本当のいのちの力。平安、喜び、助けは、神からのみ来ました。

わたしはよく、叱られても押しのけられても、お母さんのスカートにしがみつき、それを引っ張りながら泣いて訴えている子供の

姿をみました。そんな祈りに、神は愛、その正しさ、その栄光にかけて答えで下さるのです。

詩篇 27:9 ~10

「どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。

私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。私の父、私の母が、私を見捨てるときは、

主が私を取り上げてくださる。」

こうした「親密さへの希求」「一体感への希求」は、人が意識するとしないとかかわらず、だれにもあります。

それを人に求めるとき、しばしば失望を味わうことになるでしょう。しかし、それを神に求める時、

決して失望におわることはありません。たとえ、父や母も含む人々に失望させられることがあっても、

神だけがその希求を満たしてくれると信じる者は幸いです。

 

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神は私たちの味方

2017年11月10日 | キリスト教


しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって

          輝かしい勝利 ( 圧倒的な勝利者 ・ 勝ち得て余りがある ) を収めています。

                          ローマ 8 章 37 節  括弧内は其々 改訳聖書 ・ 口語訳聖書です。

 

これらすべてのこととはなんでしょうか。苦しみ、迫害、うえ、裸、危険、剣と書いています二十世紀から持ち越したこの地球の国々、

社会、家庭にあり、また一人ひとりの人生の中にある、あらゆる苦しみと試練ではないでしょうか。

聖書はこう言っています。「 もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 」 

神は私たち一人ひとりを愛しておられますから、神は私たちの味方なのです。

それが証拠に神は私たちを罪と死と裁きから救うために、神の一人子、イエス・キリストを私たちの身代わりに十字架にかけて、

殺してくださいました。

それほど愛してくださるのです。わたしたちが、その神の味方になっているかどうかが問題です。自分の知恵、

自分の力だけで解決しょうとしてる、わたしたちにこそ問題があるのではないでしょうか。

 

詩編  118:5 ~9

苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。主は私の味方。私は恐れない。

人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。

主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。

 

 

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待ち望むこと。

2017年11月03日 | キリスト教

 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。

          詩編 27 編 14節

聖書の中でいろいろなところで、主ご自身が、「強くなりなさい」という言葉をかけておられます。

けれども、今、明確に主からの声が聞こえないとき、彼は自分自身に対して、「心を強くせよ」と言いかけています。

主からの約束を、自分に言い聞かせているのです。

 

さて人生には二つの困難があります。

第一は、道を踏みはずし、いつの間にか迷ってしまうことです。第二は、疲れ、へとへとになり、へたばってしまうことです。

こんな人生にとって「神を持ち望む」ことほど大切で積極的なことはないのです。

けれども、じっと黙って待っていることは、時々、消極的で弱々しい、愚かで無策なことと人に思われ、

自分で感じるのではないでしょうか。

聖書は待ち望むことについてこう言っています。「幸いなことよ、主を待ち望むすべての者よ」と。

またイザヤ 40:30 ~31でこうも言われています。

「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、

鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。 」 とあります。

神に祈り、信頼し、期待し、じっと待ち望む人は、決して恥を見ることがないのです。


ヘブル 11:6

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、

神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

 

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