マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

渇き

2016年10月28日 | キリスト教

「 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。 」

                                               ヨハネの福音書  19章 28節

 

主イエスが十字架上で語られた七つのことばの中の第五番目です。

私たち人類の贖罪を成し遂げられた主イエス・キリストにとっては、この人類の救いこそが心の渇きです。

この主イエス・キリストの贖罪を信じて救われる魂の起こることこそ、主イエス・キリストの切なる願いです。

この主イエスの渇きは、私たちには到底体験し得ない。ことですが、しかし私たちひとり一人がこのイエスの御愛を

証しし魂をば主の御許に導くなら、主の子の渇きも少しは癒されるのではないでしょうか。

この渇きは私たちのために覚えられ、私たちを神の愛で満ちさせるために、イエスは全てのの苦しみを嘗められた。

それは私たちを買い取るために、また私たちの弱さのゆえに十字架に向かわれたのです。

 主イエス・キリストは魂の救いのために命を懸けてくださいました。主は今もそうです今この時にも魂を求めておられます。

「 わたしは渇く 」 と私たちすべての人々に語りかけておられます。主の心の渇きを深く思うものでいたい者です。

聖書から

イザヤ  53:3 ~6

「 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

 

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みこころのとおりに

2016年10月21日 | キリスト教

「 父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。

            しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 

                                ルカの福音書 22章 42節

これは、自分の最期が刻々と迫っていることを意識してイエスが、非常に深い悩みの中で、

自分の本心を父である神に訴えられた祈りとして、私たちにも伝えられています。

イエスは、苦しみや悲しみ、そして死を全く恐れない冷徹な印象を与える方では

ありませんでした。( 事実、この時点ではまだ退却と言う道は残されていたと思うのです。)

人間らしい自然な、感情の豊かな方でした。死ぬのは嫌だ。出来ればこの十字架という

無残な死から逃れたいと思って、こう願われたのではなかったでしょうか。

「 この杯を私から取りのけてください 」 と主イエスははっきりと祈りました。

しかし、そう祈りながらも父なる神の望みは、自分の願っていることとは違って、

この死を受け入れる事であろうと知り気づいていました。( イエスが死ぬこと以外に私たち

を救う手だてはなかったのでしょう。)

神の望みを受け入れるのが苦しいとき、この場面を思い起こし、イエスの後に従って苦しみ

の中にも父なる神の教え導きに従うことができますように。

聖書から

ヘブル 2:2 ~ 4

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」

 

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お赦しください

2016年10月07日 | キリスト教

「 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

                       ルカの福音書 23章 34節   

主イエスの三十三年の歩みには何一つ悪いことをしていない日々を送られていました。

最後の裁判のときも、ピラトは何一つとして罪を見出すことはできませんでした。にもかかわらず十字架につけられました。 

十字架につけよと叫ぶ群衆と十字架上のキリストとは「 父よ。彼らをお赦し下さい」 という、執り成しの祈りによって

神の愛と罪人の関係が生まれました。

( 彼らが十字架に追いやったのではなく、神の愛が私たちの罪の故に十字架へと向かわれた )  

相手のために「よかれと思ったことが却って悪い結果になる」こともありますが。それを拭い去ることは誰もできません。

( 傷は癒えても、傷跡は残るのです。) 主イエスの十字架の死と、執り成しの祈りによって私たちは全て赦されたのです。

十字架上の罪人の一人は主イエスの横に並んで今まさにこの生涯を終わろうとしていました。

この罪人ですら主イエスの死によって赦されたのです。キリストの赦しには、同じ罪を繰り返さない努力、

人を許して受け入れようとする意志を生み出す力があります。

 

聖書からすこし。

ルカ 6:27

「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。 」

 

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