マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

怒らない、

2019年11月29日 | キリスト教
「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。」
                  
                       詩編 37篇 1節

ああ、なんとこの戒めが必要なことでしょうか!私たちの周りにある不正を見るときに、

私たちはいたたまれなくなり、頭に来ます。キリスト教会とは関係のない、

この世の人たちの悪については、神を知らないのだから仕方がないと思いますが、

キリストの御名を口にしているところで、この世と変わらないことが起こっているのを見ると、

本当にどうしようか、公然と抗議してやろうか、という思いに駆られます。

けれども、そうしてはいけないというのがここの戒めです。

ここで腹を立てるなと言っていますが、その理由は二つあります。一つは、彼らは草のようにたちまちしおれ、

枯れるからです。神にお任せしておけば、必ずしおれていくのだから、ということです。

もう一つは、「怒ることをやめ、憤りを捨てよ、腹を立てるな、これはただ悪の道だから」というのです。

腹を立てることは、悪をもって悪に答えようとすることであり、そこから惨めな自分自身の悪がゾロゾロと

出てくるというわけです。腹を立てる代わりに、私たちはどうしたらよいのでしょう。

本当の自由人はまず神を第一として、愛する、仕える、清く生きるという原則に徹する人です。

そして腹を立てるという消極的な生き方をかなぐり捨てて、その原則に基づき、祈ったり、

親切を尽くしたりする、積極的に実行に生きる人だと思うのです。

悪に対して腹を立て、妬みを抱いてはいけないのですが、それに対抗するのは、主を信頼することです。

具体的には善を行ないます。そして、主ご自身を自分の喜びとします。自分の事柄を主にゆだねます。

そして、主の前に静まり、耐え忍 んで主を待ちます。この「待つ」は痛みを伴いながら待ちます。


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赦された喜び

2019年11月22日 | 日記
「 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、
          わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。」
                         詩編 32篇 8節

主ご自身が語りかけておられます。悟り、理解を与えて、正しい道を教えよう。

そのために助言、アドバイスをあげよう、と言われます。

ダビデは、神に完全に罪を赦される幸福を天国の喜びにも似た幸せと告白しました。

しかし問題は、どうしたら罪を重ねないで生きることができるかです。

罪を完全に赦された喜びは、長続きしない可能性が強いのです。

人生にはいつも新しい危険や誘惑に満ちているからです。

この詩編のみ言葉は、この人生の問題への一つの解答です。

神との親しい日毎の交わりを持つとき、神は私たちに悟りを与えてくださいます。

これが人生の根本的な原則です。人生には原則が貫かれることが大切です。

また神は、行くべき道、具体的、実際的な道を見せてくださいます。

それは、名人のそばで修業している弟子が盗むようにして名人芸を身につけていくように、

日々神に祈り、聖書を通して神と交わる人々は、やがて、自由な、

愛ときよさの道を神と共に歩むようになるのではないでしょうか。

神との愛の関係を保つためには、神の呼びかけに対して 自ら主体的に神に近づく必要があります。

また自分のそむきが神によって赦され、罪がおおわれただけでなく、

神に生かされた者として賢くされるという主の約束があります。ものごとの本質を見抜き、

明察・洞察力を与えられることは、まさに知恵を与えられることであり、それが成功と勝利をもたらします。

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来て、見なさい

2019年11月15日 | キリスト教
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」
         
                 ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
                                  
                                   ヨハネ 1章 46節

のちに使徒として知られるようになったヨハネとアンデレは直接イエスに招かれました。

アンデレは兄弟のペテロを導き、ピリポはナタナエルにあってイエスのことを伝えました。

そのときナタナエルの反応は「ナザレから何の良いものが出るだろう。」という事でした。

このナタナエルの反応は現代人の自分の納得できる以外のものには価値観を置かないという点で共通したものです。

キリスト教徒か信仰に何かよいものがあるのかという疑問です。

これに対してピリポの答えは「来て、そして、見なさい。」とそっけない程簡単明明瞭なものでした。

人は神に愛され、神を愛する経験をして変わっていきます。神は、犠牲を払ってこのような自分を

愛してくださたという経験をした者は、同じように他者を愛し実践することを喜びとします。

そのためには、その人に会い、その人の話を聞き、自分で確認することにより、出会いが起こる。

私たちがキリストと出会うことが伝道の第一歩です。

詩篇34:8の記者はこう言いました。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。」

砂糖のことをいくら一生懸命話しても、その味を知らない人にとっては説明するのがとても大変です。

でも、なめて見れば、一発で、砂糖の味がわかります。

同じように、イエスについて、神についていろいろな意見を持っている人がいます。

そうしたら、「ただ、信じてごらんよ。そうしたら、わかるから。」と言うことができるのです。


 
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食事への招き

2019年11月01日 | 日記
「 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、

わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
                         
                              黙示録 3章 20節

教会の外で、戸をたたいてイエスさまが立っておられる状態です。

教会がイエスさまから完全に離れてしまっている状態です。これを「背教」と言うことができます。

信仰から離れて、偽りの教えや、作り話に引き寄せられ、見た目は敬虔なようであるけれども、

その実を否定しているような教会です。使徒たちの手紙には、終わりの時にそのような教会がふえることを預言しています。

しかしここには恵みとして、ともに食事をすることを約束されていますが、これは、主との交わりそのものに他なりません。

当時の食事は、現在のものより、もっと深い意味があります。「食べている人と一つになる」という意味があります。

同じパンから食べ、同じスープから飲むことによって、互いが一つになっていることを象徴しています。

そのために、当時のユダヤ人は異邦人と食事をすることを避けました。

イエスさまは、御霊によって私たちと一つになることを求めておられます。親密な交わりに招いておられます。

さて私たちこの主イエスと共に歩むのですが、私たちの祈りについて次の三つの点にまとめてみました。

その一つは、祈りは、主イエスに私たちの問題の中に入っていただくことであって、神を動かすとか、

神に一方的に訴えるものでもありません。神はその問題をよく知っておられ、私たちが神を迎え入れるように待っておられるのです。

第二の祈りは、主イエスの御名のゆえに聞かれるものです。「あなたが、私の名によって父に求める祈りは何でも、

父が与えてくださるためである」と言われています。

第三は、祈りは信仰生活の武器です。キリストの弟子たちは二つの武器が与えられ、ローマ、ギリシャ、

更に全世界に広がっていきました。それは十字架と復活のキリストであり、今一つは祈りでした。


 
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