マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神へ

2021年09月23日 | キリスト教

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。

            そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

                                  マタイ 6章 3~4節

人前でラッパを吹きながら捧げ物をすることも誇張ですが、

ここの「右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」ということも、もちろん誇張です。

しかし、それぐらい人目に付かぬところで善行をしなさいということです。そして目的は、隠しているということではありません。

あくまでも目的は、「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」ということです。

自分の捧げ物が、人に対するものではなく、純粋に父なる神に対するものであるようにしなさい、

人の目という要素が邪魔になるのではあれば、隠れたところで行いなさいということです。

なぜなら、他の箇所では主は自分たちの行いを人に見せなさいと命じているところもあるからです。

「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、

天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」マタイ5:16

人々の前で見せるのですが、それが、天の父を私たちの行いを見てその人たちがあがめるようになるためだ、

ということです。はたして、これは神をあがめるようになっていることになっているかどうか、

そうしたことを推し量りながら人々の前での善行は、神に喜ばれます。


隠れた施しが強調されています。その理由は、隠れたところを父が見ておられるからです。

私たちが忘れてしまうのは、父が私たちの生活のすべてを見ておられるという事実です。

誰もいない時、私たちは肉を働かせる機会を作ってしまいがちです。

私たちはともすると自分が人にしてあげたことを、ああもしたこうもしたと言って人に認めてもらいたいという思いがあります。

認められないと不平や不満が一杯になり、時にはその感情が思いもかけない結果に終わることがあります。

すべてのことに細心の注意をもって神に喜ばれる日々を送りたい。

シャローム  そして  マラナ・タ

 

 

 

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シャローム そして マラナ・タ

2021年09月17日 | キリスト教

「生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。」

                   詩篇 72篇 7節

王(メシア)の統治の特徴は、「公正」と「義」によるさばきと、豊かな「平和」(シャローム)の実現です。

かつて、ソロモンが王位についたときに、彼が求めたものは「公正」と「義」でした。

また「平和」はソロモン時代の特徴でした。

 

これは公正と平和を願う祈りです。天国のイメージ、神の国のシンボルは、

公正と平和だということもできると思います。

私たちが国民として願うことも、この社会に公正と平和が行われることでしょう。

要領よくやって得をしたと思っている人もいれば、

またよく言われるように、正直者は馬鹿を見るということもあるのが現実です。

ですから、この世に公正を求めていっても限界があります。

しかし神は決して偏り見る方ではありません。今不公平だと思えることにも、

神は必ず公正さをもって結末をつけてくださるのです。

そして「平和」とありますが、聖書ではキリストこそ「平和の君」だと言われています。

このキリストを私たちの心の中に迎えるとき、どんな中にあっても平和にさせていただけるのです。

シャローム。

 

日と月の続く限り、月のなくなるときまで、・・・といったら永遠を意味しています。

メシヤの支配が専制の中の恐怖ではなく、私たちに潤いをもたらします。

そして正しい者が栄えます。今は悪者が栄えていますが、神の国では逆です。

 

 

 

 

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神に呼ばれるまで、

2021年09月10日 | キリスト教

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

                           ルカ 14章 11節


これは、聖書全体の中に、書かれている原則です。自分を高めれば低くされ、低くする者は高められます。

そして、末席に座る人は、主催者に自分のすわるべき席をゆだねて、自分で決めることはしませんでした。

 

主イエスは招待を受けた客が上席を選ぶ様子をご覧になって、信仰生活の話の原則について話されました。

神のみ前で自分高くするときはこれを退け、遜る時これを高くし、祝福されるという原則です。

私たちはいつも他人と比較して、優越感を持ったり、自分を卑下したりしますが、

神は公平に私たちの心を見て、判断されるということが分かります。

イスラエルの初代の王に選ばれたサウルが、神に選ばれ、見放される経過を見ると、

サウルが遜る心を失い、自分を高くし始めた時、民の心が見えなくなり、神のみ心が分からなくなり、

神の祝福を失い転落していきました。人の心の痛みに鈍感になり、神のみ心も分からなくなりやすいものです。

試練の中にあり、思い悩み物事がうまくいかない時でも心砕かれ、遜って神の恵みを祈り求めていく人は幸いです。

神はあなたを祝福されやがて高くされるからです。

 

 1ペテロ 5:5-6 
「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。

神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、

神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

 

 

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実を結ぶために

2021年09月03日 | キリスト教

「…… 。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。

                     しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

                  ヨハネ 12章 24節

本当の栄光は、キリストが死なれてからでないと現れません。

イエスが死ななければ、救いが私たち異邦人に及ばないからです。

それは、死なれることによって、そしてよみがえり、人々に豊かな命を与えることができる、

と教えられているのです。

 

十字架を目の前にされた主イエスはこのところで、死んで生きる生き方を教えられました。

自我の追及をやめ、自我に死ぬ生き方こそ、実り多き生き方だと教えられました。

それに続いて、主イエスはこで「仕える」生き方をも教えられました。

救世軍の創設者ウイリアム・ブースも「私たちが救われたのは仕えるためだ」と言いました。

人の生きざまは、その人が何のために命を捧げるか、何に仕えているかで決まるという人もおられます。

金銭に仕え、金の奴隷となり、肉欲に仕える人は「滅び」の道をたどります。

しかし、神とその愛に仕える人は天国の報いを受けるのです。主イエス・キリストに仕える、

愛と命に仕えるとは、いつも主イエスと共にいて、いつも主イエスの言葉、神の言葉を聞くことです。

そして聞いたら素直に従うことです。

 

そしてイエスについてくるというのであれば、同じ道を辿らなければいけないことを

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

と言われているのです。

 

 

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