マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

愛によって

2021年03月26日 | キリスト教

「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

                                           Ⅰコリント 13章 7節

ペテロほど人間味豊かで近づきやすい人はいないでしょう。率直で、善意に満ち、

自分の思うままを口に出し行動してしまいます。

しかし、ゲッセマネの園で共に祈ることを求められても眠ってしまったり、

カヤバの庭で裁判にかけられているイエスを知らないと言ってしまい、

外に出て激しく泣いたといわれたりしています。こうしたペテロが立ち上がることができるのは、

人間の弱さを十分に知りながら、ペテロを包み込むイエスの愛とやさしさに気づいた時でした。

人間を救う力は、人間の弱さに失望しないで、これを包み込みながら、人間の可能性に、

期待をしょうとする大きな愛です。「すべてを許し、すべてを信じ、すべてを希望し、

すべてに耐える」愛なる神の存在です。

 

また、アガペ (ギリシャ語で愛のこと、ほかに、エロス、フィレオがあります。) 

の定義を見ていくと、まさに、愛することができないときに愛する、と言っても良いかもしれません。

良いことをしてくれる人を愛するのでもなく、何もしてくれないことを愛するのでもなく、

むしろ悪いことを自分に対して行なう人に対して愛していくことがアガペの愛で、

神が私たちの咎と罪を赦してくださった愛です。

 

愛とは誰かを愛するという感情的なものではなく、相手に仕えるという信仰の出来事なのです。

感情は消えるが、信仰に基づく愛は永続するのです。

 

クリスチャンにとって、この愛の定義は、自分がいかにイエスさまに座を明け渡しているか、

イエスさまに生きて働いていただいているかの座標でもあるのです。

私たちは主イエス・キリストの十字架の御業によってもう赦されたのです。

この恵みに感謝ができ、この主イエスを受け入れられたら、あなたはただ感謝と叫ぶことでしょう。

シャローム  そして マラナ・タ

 

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苦難は喜びへ

2021年03月19日 | キリスト教

「 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」

              ローマ 5章 3~4節

人生には何をしても順風満帆の時があり、逆にいくら努力しても悪いことが続くことがあります。そうした中で、

パウロは「信仰を持って努力していると必ず良い結果になり苦難も喜びとなります。」と語っています。

忍耐は神を信頼して最後まで耐え忍ぶことです。練達は訓練に合格できる状態のことです。

神の前で自分の人生の総決算をしなければならないテストがあります。主なる神は決して無駄なことはなさいません。

苦難は忍耐へ、忍耐は練達へ作用します。希望は、救い主イエスに繋がる時心の奥底から湧いてくる確信です。

 

キリストを信じることにより与えられる希望は、失望に終わることはありません。

神の愛が私たちの心に注がれているからという確信に結びついているからです。

この真理は、理解するのにとても大切なことであります。患難を喜ぶというところで、キリスト教は、

他の宗教と区別されます。私たちに何か良いことが起こるから、信じるに値すると私たちは考えますが、

キリスト教では、患難や迫害がともなうことを教え、それでも、

いや、それだからこそ喜びなさい、喜びおどりなさい、と言われています。

 

神との平和を持つという人格的な関係が祝福なのであり、私たちがこの世で得をすることではないからです。

私たちは患難にあうときに、神との関係を一段と深めることができます。

患難にあっているときに、私たちだけでは、その重さに耐え切れなくなり、つぶれてしまいます。

しかし、私たちには、聖霊が与えられています。ご聖霊が私たちのうちに宿ってくださることによって、

私たちはこの希望の中に生きることができるのです。そして、ご聖霊は、私たちの心に神の愛を注いでくださいます。

 

Ⅰペテロ1:4
「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。

これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」

 

 

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神はいつくしみ深い

2021年03月12日 | キリスト教

しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。

これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。

                    詩篇 73扁 2~3節

 

熱心な信仰者であるなるならば、誰でもぶつかる問題だと思います。

その問題とは、この世の不条理に対する怒り、いや、もっと分かりやすく言えば、

自分の内に湧いてくる「ねたみ」や「ひがみ」といった問題です。神を信じていなくても、

深刻な問題で頭をかかえ込んだりすることもなく、結構、豊かな生活をし、

羽振りのいい生活をしている。ほしいものが何でも手に入っている。

一見、神を信じている自分たちよりも彼らのほうが幸せそうに見える。

 

神がこの世を支配しておられるのに、どうして正しい者が苦しみ、

悪者が繫栄しているのかという疑問が起こります。

公正な神ならこのようなことを見過ごすはずはないのに …… 

果たして神はおられるのかというところまで来てしまうのです。

この詩篇の作者は「わたしは、わたしの足がつまずくばかり、

わたしの歩みがすべるばかりであった」と言っています。

しかし幸いなことに、足がつまずいたのでも、歩みが滑ってしまったのでもなく。

ぎりぎりのところで踏みとどまることができたのです。

それは「まことに神は、いつくしみ深い」ことを知ったからです。

この「まこと」は「やはりそうだ」という意味だといわれています。

「どうして」と思うことがあっても神を見上げるとき、

「やはりそうでした」と悟ることができるのです。

 

 

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幸せとは

2021年03月05日 | キリスト教

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、

感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

                   ピリピ 4章 6節

 

これは命令形になっています。「何も思い煩ってはいけません」となっています。

選択肢ではないのです。なぜなら、やはり主ご自身の領域に勝手に入り込むことになるからです。

思い煩うというのは、自分がそれらの状況の主人であることを意味するからです。

そうではありません、自分は神の子どもであり、主のしもべです。主から命じられたことに集中すべきであり、

自分勝手に思い込み、動いてはいけません。主から言われたことをただ行う、

そしてその責任は主が負ってくださる、という意識が必要です。  

 

戦中・戦後には、うつだとか神経症だという病気はまれだったと読んだことがあります。

しかし今の世の中を見る限りには、そうではないようです。

神経科の医師のところには「突然家の主人が起きなくなった。布団をかぶって寝ている。

今日も働くのかという重荷に耐え拗ねて起きられない」という訴えが多いと聞きます。

理由もなく苦しみと悲しみが襲ってくる。今、この日本の社会で、働いて働いて、忙しい忙しいできて、

得るものは得たけれども、また失ったものは大きい。何を失ってしまったのでしょう。

「心」かも知れません。心が満たされる幸せとは何でしょうか。お金があり、立派な家に住み、

すべてのことが順風満帆である、 …… そうではないと思います。(無い者のやっかみでしょうか) 

 

ヒルティの「幸福論」の最初には、「幸せというものは、肌の色が変わろうが、

住むところが変わろうが、総ての者が求めるもの。幸せとは。神と睦み合うことである」

と書いています。何事につけ神に頼り、感謝をもって生きていきたく思います。

 

 

 

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