マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

欲求は

2021年07月30日 | キリスト教

「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、

   御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」

                        Ⅰヨハネ 2章 16節

ふだん私たちを駆り立てているものは何でしょうか。

食欲、性欲などの生理的欲求、好奇心や探求心といった知的欲求、所有欲や権力欲、

虚栄心や名誉欲といった自我の欲求。こうした欲求は必ずしも悪いものではなく、

それを求める者にそれなりの満足を与えてくれるものです。

しかし、私たちの思いの隅々まで満たし、生かしてくれるものにはなりません。

だから相変わらず渇きが残ります。わたしたちは、この世に生きながら、この世が提供してくれる物だけでは、

人間らしく生きることができないのです。主イエスは救い主と呼ばれています。

この主イエスに接した者は、あるいは癒され、あるいは喜びに満たされ、

あるいは生きる勇気を回復したと福音書は伝えています。わたしたちも諸欲に翻弄され続けるだけに終わらないように、

恵みとまことに満ちた命をくださいと祈りたい。

 

「世」とは、神の権威に敵対する制度のことです。悪魔が支配者となっているところの世界です。

これらのものに愛着を感じながら、また実際に愛しながら、かつ御父を愛することはできません。

世は神に敵対しており、神は世をいつか滅ぼされるのですから、どちらも愛することは不可能なことです。

肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢。これら三つの欲について大事なのは、

「御父から出るものではなく、世から出るもの」とヨハネが強調していることです。これらの欲について、

そのような状況に置かれたのは神だとか言ってみたり、誰かほかの人のせいにしてみたり、

また自然に与えられた欲望なのだから、仕方がないことなのだとして、

開き直ることもあるでしょう。ヤコブは、自分の欲で誘惑を受けるのであって、神のせいではないとはっきりと否定しています

 

ヤコブ 1:13-15 
「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、

ご自分でだれかを誘惑することもありません。人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。

そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」

 

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聖なる者へ

2021年07月23日 | キリスト教

「我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。」

               詩編 99扁 9節

ここで悲しいことを書きますが、「主が聖」であっても、

私たち人間は「聖なる者」になることはできない。・・・!!

使徒たちさえ民族主義から自由になれず無割礼の異邦人と交わることができなかった現実を

私たちは冷静に見つめる必要があるのではないでしょうか。(ガラテヤ2:11-13見てください)。

この限界を乗り越えるのは、私たちの思いを超えることを為される「聖なる主」への信仰なのです。

 

神のこの清さは私たちを排除するものではなく、私たちを招くものだというのです。

神はこう言われます「私が聖であるから、あなた方も聖なる者となりなさい。」なぜ清い神は、

「私のように聖なる者となれ」と私たちを召してくださるのでしょう。

それは罪赦されて本当に遜って神に近づい心だけが、神とつながり、神の命、神の祝福に生きられるからです。

そして、清い人生は、神との交わりの道であるばかりではなく、平和で幸福な、人との交わりの唯一の道で道でもあります。

また天国に行くために、私たちは聖なる者、神と共に歩む者とならなければなりません。

罪は私たちを天国から排除します。私たちがイエス・キリストの十字架の血による赦しと清めの中をくぐりぬけて、

キリスト共に歩むところに、清められた生涯があるのです。

 

レビ記20:26
「あなたたちは私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。

私はあなたたちを私のものとするため諸国の民から区別したのである」。

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永遠の父

2021年07月16日 | キリスト教

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。

わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

                                   イザヤ 46章 4節

 

日本人の宗教心は、名を知らぬ神への帰依だ。西行法師は伊勢で歌った

「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」。

これはギリシャ人の信仰「知られざる神」に近い(使徒17章)。人間の限界を知り、超越者を求めるが、

その名を知らない。イザヤはそれに対して、「私こそ神」と主は言われたと繰り返す。

 

人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、

最後まで面倒を見るということはできません。むしろ反対にいつかは逆転して、

親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。

しかし、神はイスラエルの民に対して、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。

あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。

なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と約束しています。

 

信仰とは、自分を支えていてくださる神を証しすることです。奉仕は、自分を担っていてくださる方に

感謝をもって応答することです。神のすばらしさを、そのすばらしさの中にいる人々

によって自然と明らかにされているところが、教会なのです。

 

マザー・テレサが次のように語りました。「今日の最大の病気は、ライでもなく結核でもなく、

自分はいてもいなくってもいい、誰もわかってくれない、みんなから見捨てられていると感じることである。

最大の原因は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと……」

昔のコマーシャルで「ビタミン愛」という本を知っています。ビタミンが人間の体に必要であると同様に、

愛も不可欠なものです。ビタミンが欠乏すると、ビタミン欠乏症になります。

同じように、「愛」が欠乏すると「自分はいてもいなくってもいい存在だ」「孤独だ」と

感じるようになります。主イエスは、お年寄りを担い、背負うといわれます。

 

 

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キリストを見つめること

2021年07月09日 | キリスト教

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

                    ルカ 14章 11節

 

ギリシャの無敵の英雄アキレスにも、弱点がありました。彼は敵のパリスにかかとを射られて死にました。

信仰生活の致命的アキレス腱は、自分を高くするということです。ここを狙われると信仰は崩れていきます。

何故でしょうか。まず第一に、神に委ねることができなくなります。人生には、自分の思うとおりに恵まれるときがあり、

恵みも喜びも感じられない時もあります。信仰はこのような時にも神に自分自身を委ねますが、

高ぶるものはこれができません。次には悔い改めができなくなります、自分を高くしているときは、

確かに悪いのは他人、正しいのは自分という態度を取っています。

 

この聖句は、聖書全体の中に、書かれている原則です。自分を高めれば低くされ、低くする者は高められます。

そして、末席に座る人は、主催者に自分のすわるべき席をゆだねて、自分で決めることはしませんでした。

これはどういう意味でしょう。主催者であるキリストを見つめる、ということです。

自分がどのような評価を受けるかをキリストにゆだねることです。自分は末席の者、

つまり、罪人のかしらであるという認識があります。その後は、キリストにすべてを評価していただこうというものです。

一方、もし集まってくる人々を見つめるようになれば、どうなるでしょうか。人たちからよく見られたいと願うようになります。

また、キリストを見るとき、自分はキリストにあって神に受け入れられている、認められているという確信があるので、

上席にすわらなくても別に構わないと思うことができるのです。ですから、

本当の謙虚さは、人ではなくキリストを見つめることにあります。

 

 

 

 

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チャンスは今この時です。

2021年07月02日 | キリスト教

番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

                                      ルカ 13章 8節

 

これが今、私たちが生きている時代なのだということを知る必要があるでしょう。

主が戻ってこられるいろいろな徴があります。すでに、主に従う者とそうでない者の選り分けが行われています。

主に属する者は聖霊によって清めを体験しますが、属さない者は火で焼かれます。患難によって滅び、また死後に永遠の滅びに遭います。

しかし、神は一人でも滅びることを望まず、悔い改めることを望まれています。神は忍耐深い方です。

 

クリスチャンも、信仰告白をして洗礼を受けたから救われていると思っていたら、それは思い違いです。

イエスと個人的な関係を持っている人は、必ず実が結ばれます。もし実が結ばれていないのなら、イエスとの関係が何かおかしいのです。

 


さて、信仰生活は悔い改めから始まり、悔い改めの連続です。神の審判はこの世でもあり、また永遠の裁きとしてあります。

この審判にパスする者は悔い改めて信仰の実を結ぶ者です。イエス・キリストは、私たちがこの実を結ぶことができるよう、この世に来てくださいました。

実を結ばない木について、神は「その木を切り倒してしまえ」と命じられますが、イエスは「今年もそのままにしておいてください」と、

私たちのために執り成してくださいます。この「もう一年待ってください」というイエスの愛を受け入れて悔い改めるのは、今です。

 

ヨハネ15:2
「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

ロ−マ8:34
「だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。」

Ⅰヨハネ1:9
「もし、自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

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