マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

どんな心を

2015年08月28日 | 日記


「  私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。」

                                    詩編 119 編 32節

私たちは 「 広い心 」 を持っいるでしょうか。それとも 「 狭い心 」 を持っているでしょうか。

「 広い世間を狭くして渡る 」 という言葉がありますが、今日は、狭い心とは何かを考えてみましょう。

第一に、それは劣等感で狭くなった心です。劣等感とは、実際のところ何の関係もなく、自分が劣っているとか、

無価値だとか、生きていく自信がないという感情です。

そこから始まる、自己嫌悪、自己否定になってしまうという感情です。要は、自分と何かまたは誰かとを比較する

所にあります。しかし聖書の神はそうは言っておられないのです。それどころかあなたは素晴らしいと言われるのです。

有るすばらしい働きをし、多くの人々に手助けをして助け。人々から本当に尊敬を受けている人がおられました。

そのひとは、おじいさんから背負わされた悪い病気のため、苦しみ、猛烈な劣等感に捕らわれて、世間を最高に狭く

渡る人でした。

第二に、エゴイズムで狭くなった心があります。それは自己中心という神の嫌われる性質のことです。

ともかく自分がみんなの中心でなければならない、そのために人々を押しのけ受け入れないという人のことです。

では広い心とはどんなものでしょうか。第一に、人も自分もありのままに受け入れ愛する心です。

第二に、人をもてなし人のお世話をする、神と人とのために生きる心です。先ほど紹介した人は、ある時近所で開かれた、

キリスト教の伝道集会に出てみました。あまり期待もせずに、人目を忍んではいった集会、それが祝福への門でした。

神はこのかたを受け入れて下さり、この人の心を広くしてくださいました。

 

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星を見たので

2015年08月21日 | 聖書

 

 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。

           私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

                                             マタイ 2章 2節

何百年も前にユダヤ人によって伝えられていた、メシヤ出現の希望のことを思い起こし、それに違いないと信じてきた異邦人。

彼らは人づてに聞いてきた神の救いの約束を信じたのです。私たちは信仰云々と言う前に ( ビジネスにおいても )

これほどの確信と信仰を持っているでしょうか。彼らはバビロン ( 今のイラク ) から車もない時代に何千キロと来たのでした。

彼らはバビロンで占星術の学者たちでした。彼は一つの星によって導かれてきたのです。それは夜空に輝く本当の星なのか、

心の中で感じたことなのか、星がなんなのかではなく。言えるのは、導きがあったと言うことでした。

まあいずれにしても神からの呼びかけと感じました。学者たちは旅をつづけ、星に導かれて、とうとうイエスを探し当てました。

聖書に、「 家に入ると幼子と母マリアがいました。彼らは平伏してその子を拝みました。 」 書いてあります。

そして贈り物をささげた後、彼らは聖書からも歴史からも姿を消してしまいます。

誰の人生にも 「 星 」 というものがあります。神からの導きです。良心の声があります。これも人生における大切な星です。

苦しみも楽しみも、殉教も逆境も、全てを通して神が呼びかけて導いてくださいます。あの占星術の学者たちのように、

与えられた 「 星 」 を大切にして一歩一歩旅を続け、人生の本当の目的に達することができるように努めたいのです。

聖書から少し

・・・ 、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 」 マタイ 2:9

・・・ 今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、・・・ 。」           民数記 24:17

 

 

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三つの目が

2015年08月14日 | 聖書

 

「 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。

              そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」

                                              ルカ 6章 37節

イエスの勧めです。敵を愛することで報いが大きいと話されました。私たちがこの地上ですることは、

天において報いとなって現れます。( それは良きにつけ悪しきにつけてです。) 裁かなければ、裁かれないし、

罪に定めなければ、自分が罪に定められることはない。赦せば、赦されるというルールです。しかしこのルールを

神への恐れを持って行うのです。私たちがこうしたルールを行うのは、隣人に対して、善くしてあげたいという願う心が

有るからです。たといその相手が善意を受けるのに値しない相手であっても、そうしなさいというのです。

神はそのような人々にも 「 あわれみ深い 」 のですから。

さて。私たちが考えたり言ったりすることを、少なくとも、三つの目が見ています。自分と他人と神です。

自分と他人、その眼の見ることは限られています。神の目は、私たちの心の奥底まで見ることができます。

他人にも見えない、自分にも見えない、いろいろな弱さというものを優しく理解してくださる神、

そういう神が、私たちをどのように評価されるのか、そのことが私たちにとって一番大切なことです。

自分もそうです、他の人もそうです、裁きは結局、神だけのものではないでしょうか。

聖書から少し。

 さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、

        あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」 マタイ 7:1~2

「 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」   ルカ 6:31

 

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祝福しょう

2015年08月07日 | キリスト教


「 彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。

              祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。」

                                            詩編 109編 17節

私たちの人生を最終的に決定するのは神です。人は自分で自分の生き死にを決めることはできません。

しかし私たちの人生、私たちの運命は、半分は私たちがつくるとも言えるのではないでしょうか。

なぜなら、聖書にはこう書いてあるからです。 「 あなたは、恵み深い者には恵み深く、全き者には、全くあられ、

きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方、あなたは、悩む民こそ救われますが、高ぶる者は低くされます。」

昔から、「 人を呪わば穴二つ 」と言います。箴言には「 穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、

自分の上にそれをころがす。とあります。」 しかし、徹底的に人の祝福を祈ることのできる人生の上には、

天来の神の祝福が溢れるのです。

 

聖書から少し

「 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。

            あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」  レビ 19:18   

だから神に任せるのです。

「 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。

       「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 」  ロマ 12:19

また聖書はこうも言っています。

「 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
 

美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
 

泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。」  ヤコブ 3:9 ~ 11

 

 

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