マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ただ単純に

2021年06月25日 | キリスト教

女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

                     マタイ 15章 27節

 

女は、ダビデの子などというユダヤ人特有の呼び名は使いませんでした。

とても単純に、「主よ、私を助けてください。」と言っています。

ここに彼女の心が表れています。ただ、これだけだったのです。イエスは主であるということ。

そして、助けてくださいというだけのことだったこと。他の尾ひれを付ける必要がありませんでした。

 

この女は娘の病のために、イエスに取りすがります。

しかし弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを求めます。

イエスのお答えも「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」でした。

弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかしイエスは、ただご自分の使命を示されます。

しかし、この女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。

ただ図々しく、熱心だったのではありません。「パン屑をいただきい」と謙遜にお願いしたのです。

パンの奇跡においても。パンくずは丁寧に集められています。

案外パン屑のほうに、豊かな恵みが注がれる場合があります。イエスのパン屑こそ、恵みの宝庫ではないでしょうか。

それは、パン屑をいただく謙虚さが、主のみ心にかなうからです。

単なる熱心ではなく謙虚な熱心さを主は良しとされるのです。

 

この信仰によって彼女の娘はいやされたのです。娘の信仰ではなく、

母の偉大な信仰によって娘が即座に癒やされています。

信仰による救い(癒やし)とはかくなるものなのかということを思わせられるのです。

 

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解放

2021年06月11日 | キリスト教

「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。

地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」

                               コロサイ 1章 20節

 

石川啄木の歌の中に「人という人の心に、ひとりずつ囚人がいて、うめく悲しさ」というのがあります。

立派に見える人の心にも、罪に捕らわれた囚人がいて、それをどうすることもできずに呻いているというのです。

このような罪の束縛や敵対関係の中に、イエスの十字架が起こったのです。

神と私、人と人の間に、わだかまっている敵意や憎悪は、どんな小さなものであっても、誰の力でも取り除くことができないものです。

ただイエスが十字架において、血を流すことによってのみ取り除かれ、和解し、平和はつくりだされたのです。

神は「和解させてくださった」のです。神と人の互いの歩み寄りではなく、神の一方的な歩み寄りによるのです。

 

アダムが罪を犯したときから、束縛の中に入ってしまいました。悪魔の支配下の中に入ったのです。

しかし、キリストが十字架の上で血を流してくださったゆえに、その縄目は解かれました。

実際に、万物が、神が意図されているように回復するのは、キリストが再び来られるときです。

このように、被造物が神の意志に服従しておらず、それゆえ神と被造物の間には敵意があったのですが、

それを御子がその敵意をすべて負ってくださったのです。感謝、

 

これを信じられるならばあなたはほんとうに自由になれるのです。誰も恨まない、憎まない。

もちろん自分自身にもそうです。 シャローム

 

 

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出会い

2021年06月04日 | 日記

この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、

「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。

                     ヨハネ 12章 21節

 

人生を変えるような出会いがあります。また、そのような大切な事とも気が付かなく、

過ごしてしまう出会いもあります。聖書の中には、イエスに是非お目にかかりたいと求めて、

新しい人生の光を見出した人々のことが記されています。

議会議員のニコデモも、異邦人の百人隊長も、憎まれ者の徴税人ザアカイもそうでした。

しかし求めるべきお方がイエスだとわからなくても、心の中に永遠を求め、愛を求め、いのちを求め、

光を求めた人々に対しては、イエスのほうからしばしば彼らの前にお立ちになったことも事実です。

このブログに来られた皆様は、このような人生の出会いを、すでに経験されたことがおありでしょうか。

( おっと、また余計なことを書いてしまいました。)

 

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