マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

その日だけで

2015年03月27日 | 聖書


 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

                                           マタイ 6章 34節

 

明日の事を心配するのはやめなさい。 神は明日のことも心にかけてくださるのですから、一日一日を力いっぱい生き抜きなさい。 」

                                            同 リビングバイブル より

明日の悪を思い煩うな、今日の生命もわからぬ身。明日の生命がないならば、生きていない世の中を、思いを思い煩うことになる 

                                            ユダヤの諺より

不安な気持ちでいると心の中で神様の恵みや助けが働くことができません。また、不安な心境では問題解決に

つながるような有益なインスピレーション、つまりアイデアが生まれてくることはありません

さらに不安は愛と正反対の感情なので、気持ちを不愉快にするばかりか、不安な状況を自分で作り出します。

その結果すべてがうまくゆかなくなり、自分自身ら対しても廻りの人々に対しても多大な迷惑を及ぼすことになります。

ですからキリストはしばしば思い悩むな、心配するな、恐れるな、心を取り乱すなと忠告されたのではないでしょうか。

そこで私は、日々の中や、仕事の中でも努めて心の平安を保つようにしてきました。それには万事を愛で考えることです。

愛の反対は不安ですが、愛があれば不安はなくなります。

「 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。

恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。 」   Ⅰヨハネ  4:18

「 神様を信頼し、いつも神様のことに思いをはせる者を、神様は何の心配もないように守ってくださいます。」 

                                       イザヤ 26章 3節 リビングバイブルより

終わりに、心配は、ほとんどが未来に関するもの、しかし未来は神の支配の中にあります。そして、思い煩いは、

性格の問題ではなく、信仰の問題、もし神の子と言われている私たちが思い煩うならば、

それは天の父を信頼していない証拠です。今日も労苦があることを覚えて、それも神の手にあることを覚えていたい。

 

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苦しみからの出会い

2015年03月20日 | 聖書


 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」

                                             詩編 107編 6節 

人生にはさまざまな試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに代えてくださるお方です。

( この世においてはこの試練・苦しみと言うのを喜びとはしませんが、私たちクリスチャンはこの苦しみを喜びとします。

なぜならば、その苦しみの中で主イエス・キリストと出会うことができるからです。 ) 

この詩編 107編はそのことを歌っています。この六節は苦しみのときの祝福です。深い深い、暗い暗い井戸の底から見上げると

昼間でも空の星が見えると言います。その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。

それは、暗い苦しみの底から見上げた時に見えるものです。

食べるものや着るものに困らなかったときには見えなかった人の優しさや親切が、貧乏のどん底に落ち込んで見上げる時、

見えてきます。もう他の何ものにも助けを求めることができない苦しみのとき、ひたすら上に向かって叫ぶと

神の救いの御恵みが見えてくるのです。人生には色々なことがあります。しかし神を求める者、祈る者にとっては、

その色々なことが、全て祝福と変えられる可能性があるのです。人の真実とは、苦しみのどん底で見るもの、

悲しみの果てで知るものによって知ることができるのです。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
  主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。
  彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
  彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。 」  詩編 170編 19~22編

 

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父の願い

2015年03月13日 | 日記


「  父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。 」

                                                    ヨハネ 15章 9節

「 父上がわたしを愛されたように、わたしもあなた達を愛した。わたしの愛に留っておれ。わたしの掟を守っておれば、わたしの愛に留っているであろう。わたしが父上の命令を守って、その愛に留っているのと同じである。このことを話したのは、わたしのもっている喜びが(また)あなた達のものとなり、あなた達のその喜びが完全なものとなるためである。」

                                                      塚本訳 ヨハネ  15:9 ~ 11

 天の父が人々を愛し、包み、働きかけていくのと同じような、愛の完全さをイエスは求めておられます。

「 イエスが愛したように 」「 神が愛するように 」 人々を愛する。考えてみれば、たいへんなことです。

私たちは神と違ってエゴイストです。他の人のことより、自分の望み、自分の生活を先に考えてしまいます。

たとえ、他の人の幸せを考え働きかけることがあるとしても、なかなか真実で純粋な愛には近づきにくいものです。

しかしイエスは、私たちの汚れ、私たちの弱々しさを十分に承知をしていながら高い理想を私たちに与えられました。

高い理想、それは私たちの力では実現不可能なことです。しかし 「 神には出来ないことはない 」 のです。

神の恩恵によってなら実現可能なことです。ですから、私たちはまず、高い理想をしっかりと見つめる努力をしたいと思うのです。

それは主イエスを見上げて生きていくと言うことにほかありません。

そして、先ずあなたが誰よりも愛されていると言うことを知ると言うことから始まるのです。ここから始まります。

 

 

 

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いつも

2015年03月06日 | 日記


 見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである 」

                                            マタイ 28章 20節

人生には辛いことが多くあります。多くの悪いことがやってきます。そうしたとき、神は本当におられるのか、

神は自分を見捨ててしまったのかと感じます。

( 何もクリスチャンだけのことではありませんが、困った時の神頼み、その神が思わしくなかったなら

神はいるのかと言ってしまうのが人間です。) 

そのとき、「 いつも 」 あなたと共にいると言われたイエスのことばを想い出しましょう。

イエスがこう語られる時は、何らかの意味があり、私たち現実的な感覚でそれを信じます。

また、私たちの理解を超えて神秘的であってもイエスが私たちひとりひとりと共におられると言われた言葉を信じるのです。

私たちがどんなに弱く、貧しく、つまらない者でも、「 イエス 」 は友であり、伴侶です。

目に見えなくても、今ここにおられる、今夜の眠りにも、明日の仕事にも、来週も来年も、

人生の暗い戦いの隅々まで思いやり深く見守り、天の父の家にある永遠への幸福へ忍耐強く私たちを導かれる。

ただ夢のようです、しかしそれは 「 事実 」 なのです。私たちにとって唯一の基本的事実です。

「 この世の人は、おのが持ち物を愛し、自分のことで思い煩う。私はイエスを愛し、イエスの身を愛す。」 O・ハレスビー

 

 

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