マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

最大の平安。

2019年07月26日 | キリスト教
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

   わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

         あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
                   
                          ヨハネ 14章 27節


主が弟子たちに町や城や、金や銀を残していかれず、天上・地上における最大の宝として主の平安を

残して行かれるということは、本当に素晴らしい最期の言葉です。弟子たちは恐れたり、

嘆いたりする必要はなく、心のうちに美しい希望に満ちた平安を持つことができます。主は言われます。

「わたしが心からあなたを愛し、あなたの益の身を望み、また、私の父は最高の恵みのうち、

あなたを見ておられるという事実をあなたに教えてきました。これこそ私があなたに残して

行くことのできる最上の贈り物です。」心の喜びはあらゆる喜びの中で最大のものであり、

心の悲しみはあらゆる悲しみの最大のものであると言われている通りです。


ある絵画コンテストで、平安というテーマで競われたことがあったそうです。

そして、そこで最優賞になった絵は、のどかな田園風景ではありませんでした。

吹き荒れる暴風の嵐の中一艘の船が描かれている情景でした。嵐の中で、確固たる平安を持つことは、

世によって与えられません。ただキリストのみが与えることのできる平安です。

詩篇 4:8
「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」

ビリピ 4:6
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」



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キリストは知り聴いておられる。

2019年07月19日 | キリスト教

「私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。」
        
                      詩編 22篇 4章

人には誤解され、わかってもらえず、どこを向いてもとりつく島もない。

しかも、いくら神に叫んでも、神はだんまり、そんな経験があなたにはあるでしょうか ? 

魂が呻き、もだえる時です。自分の中には、罪も咎も間違いもないと思うのに、

神に答えてもらえない、ダビデもヨプもそんな経験をしたのです。

しかしダビデは暗くてつらい魂の経験を通して教えられたことを、ここに告白しているのです。

神は聖です。ご自分の清さ、愛と真実に、決して背くことができないのです。

神は聴いてくださるのです。ひがまず、のろわず、神を賛美し、神を礼拝し続ける民に、

やがて御顔が見えてくるのです。決して呪いの中には神はおられないのです。


ここには、苦しみのときに、なぜ苦しむのかという理由は分からないが、

神のご臨在を知ることができるというのがヨブ記の結論でしたが、

主イエス・キリストが私たちのために、呼んでも神が答えてくださらないという

苦しみをすでに味わっておられました。だから、私たちがそのような祈りが聞かれているのか

わからないという悩みと弱さもすべて同情することがおできになるのです。

そうです、私たちが人生で経験するすべての苦しみの目的は、

神への信頼の絆を強めることにあることを信じます。

苦難・拒絶・放浪・苦渋・・・それらのすべては神との信頼のいのちをあかしするための

ものであったことを知るとき、私たちはなんと励まされることでしょう。

苦しみの極みの中で、信頼の極みを貫いて下ったイエスによって、私たちは神との信頼の絆を

築くことができるのです。どんなに賛美しても賛美しきれません。ただ感謝するのみです。


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従順の喜び

2019年07月12日 | キリスト教

「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
  おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
                               
                              ビリピ 2章 7~8節

私たちが自分だけではなく、他人のことを顧みるとき、見るべきところはキリスト・イエスです。

キリストを見ながら、私たちは思いを自分から他人へと移すことができます。

私たちにも、「なぜ、このようなことになるのですか?」という叫びを出したくなるような時があります。

しかし、キリストの思いを抱いているのなら、そのような叫びを出したい時に、

それでも主がそうしなさいと言われるところに従う時、そこには深い悲しみがあるけれども、心は失望しない、

むし ろ痛みの中に御心を行なっているという喜びと満足があります。


そして、イエスは人間関係における順序を次のように教えられました。

エペソ 6:1
「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。」

エペソ 5:22
「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。」

1ペテロ 5:5
「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。
は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」

ローマ 13:1
「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、
おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」


「神が全てを解決してくださる」から、あなた方はその「神を寄り頼め」、「自分が、自分が」と主張して、

教会を分裂させることは、イエスに従う者の取るべき道ではない。

この神に従って人を第一とするとき恵みとして平安に満たされるのです。
 
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御心のままに

2019年07月05日 | キリスト教

 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。

       しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
                            
                           ルカ 22章 42節

汗が血の滴るように地に落ちたと書いてあります。その祈りが全身全霊を注ぎだした祈りであったことがわかります。

昔、賀川豊彦さんも、シャツ血の斑点が付いた経験があると書いてあるのを読んだことがります。

また一度に大きな力を出した人の肌着が橙色になった話も聞いたことがあります。

逃げれば逃げれたのに、あえて逃げなかったのは、「わたしの思いではなく、御心がなりますように」

と言う神への絶対服従があったからだと思います。神の子のこの苦しみがあって、私たちは罪は赦されたのです。

そのように愛されていることをお忘れてえ互いに傷つけあっている弱い私たちを今日も使える心、

赦す心を忘れないで歩ませていただきましょう。

ここでも、イエス自身も、戦っておられました。それは、ご自分の意思と御父の意思との間にある葛藤です。

イエスは、できれば杯を取り除けてほしかったのです。この杯は、十字架での苦しみを示しています。

みこころならば、取り除けてください。と。


つまり、わたしが死ぬ以外で人々が救われるのなら、取りのけてください、ということです。

もし信心深くなって救われるのなら、良い行ないを積むことによって救われるのなら、取りのけてください、

ということです。けれども、やはりイエスが死ぬことは父のみこころでした。

つまり、どんなに信心深くなっても、どんなに人間が努力しても、決して救われないということです。

人はそれを認めたくありません。ペテロのように、「いや、自分でやってみる。」と思いたいのです。

けれども、キリストの十字架は、人は何も善いところがない堕落した罪人であり、

自分では救いようのない存在であることを教えています。


ヘブル 2:18
「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。

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