1926年9月28日
市ヶ谷刑務所にて、吹上佐太郎(ふきあげ さたろう)の死刑が執行された。
辞世句「左様なら一足先に死出の旅」
(吹上佐太郎の死刑執行)
1926年9月28日(大正15年)
市ヶ谷刑務所にて、吹上佐太郎(ふきあげ さたろう)の死刑が執行された。
辞世句「左様なら一足先に死出の旅」
(吹上佐太郎の犯罪)
死刑になるというのにこの辞世の句は何であろうか。とんでもない犯罪を行った者に違いないと直感したが、やはりそうであった。吹上佐太郎は、「京都で強姦殺人を行い、その後関東連続少女殺人事件で関東八県で27人以上を強姦し、うち6人を殺害したシリアルキラー・連続強姦犯。」といわれている(ウィキペディア)。
(死刑執行直前の様子)
死刑執行直前の様子が、事件の公判に立ち会った中野並助という検察官の著作に記録されている(中野並助「犯罪の通路」)。同書によると、落ち着いて執行直前に仏前にあった供物をゆうゆうと食べたそうである。
〈死刑の執行には事件の立会い検事はいかぬことになっている。 彼の死刑執行には今は故人となられた H 検事が立会した。吹上はゆうゆうと仏前の供物を頂戴、しばし黙祷した上で、やはり検事さんのいわれた通りだ、多くの霊に対しても私は死なねばならない、といったそうである。死刑の執行は相当数に上るであろうが、仏前の供物まで頂戴するほど落ち着いている被告はほとんど稀である。彼の覚悟は見上げたものだ。最期も立派であったという。私はこの話を H から聞いて惻隠の情に耐えなかった。〉
死刑に立ち会った検事は立派な最期であったとの感想を述べているが、
落ち着いて執行直前に仏前にあった供物をゆうゆうと食べたことといい、人を喰ったような辞世の句といい、「立派」というには違和感を覚える(なお、辞世の句は中野の著作には見えず、森長英三郎「史談裁判」による)。
(裁判で有罪となったのは3件のみ)
一説には、27人を強姦し、うち6人を殺害したとされているが、これが全て有罪とされたのだろうか。どうも違うようである。
27人を強姦し、うち6人を殺害したというのは予審に付された件数である。当時は現代と違って予審制度があった。現在では、検察官が有罪と思料して起訴した事件は裁判所で審理が行われるが、当時は予審判事が審査をし、実際の公判に付すか否かを決定したのである。
予審で認められたものは、群馬県下の11歳と12歳の少女及び長野県下の少女の3件(いずれも強姦殺人)のみであった(森長英三郎「史談裁判」)。
この3件が公判に付され、いずれも有罪となった。判決は一審で死刑であり、東京控訴院(今の東京高裁)や大審院(今の最高裁)でも維持された。1926(大正15)年7月2日に大審院で上告棄却され死刑が確定した。
(確定後3ヶ月弱で死刑執行)
死刑執行は同年の9月28日である。大審院で上告棄却され、3ヶ月も経っていない。戦前とはいえ、この執行のスピードは異例のようである。
どの著作にも書いていないことであるが、これは大正天皇崩御、新天皇即位に伴う執行の事実上の停止、恩赦をさせないためではないかと推測する。
こう推測するのは、吹上佐太郎は前科(京都で少女を陵虐して絞殺)により無期徒役(無期懲役)に処せられたのだが、出所しているからである(1922年3月9日出所)。同じような犯罪をしたのだから、1件だけでも死刑判決となったであろうが、
3件の犯罪でも死刑判決は死刑判決である。恩赦となれば、無期懲役に減刑され、いずれ出所するかもしれない…というのが、検察当局のおそれるところであったというのは十分考えられるのではないか。実際、大正天皇の病状も悪かった。大正天皇は1920年以降、病状が公表されており、1921年には皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任している。大正天皇の崩御は吹上佐太郎の死刑が執行されてから約3ヶ月後の12月25日であった。