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帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記)

2022年09月12日 | 伊能忠敬測量日記
帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記)

(はじめに)
 伊能忠敬の測量日記に記載されている箱館からの先触及び添触を紹介します。

【寛政12年9月12日付先触】
 同日の日記に「先触の写しは以下のとおり。本日箱館町役人へ渡した。」とあり、次のように記されています。
(先触れ)
一 馬  二疋
一 人足 三人
 蝦夷地測量の御用のため、来る十四日上下五人箱館町を出立し、三厩まで通行します。お定めの賃銭を支払うので書面の人馬をご用意ください。いささかの遅滞もなく差し出し、継立てすること、かつ渡船・渡海・川越え・止宿についても、差支えのないようにお願いいたします。 以上
 申九月十二日  伊能勘解由 印 
        右村々
          名主 年寄 中
泊り順
十四日 茂戸地  十五日 知リ内
十六日 福嶋   十七日 松前町
 雨天の場合は、逗留もありうるので、そのような心得のもと取り計ってください。

(この先触れの背景)
 伊能忠敬測量チームは、8月7日にこの測量旅行での最北端(かつ最東端)のニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。ここから折返して復路となり、
9月11日に箱館(函館)に着きました。ニシベツからの添触(幕府役人発行の人馬徴用を認める書面)は箱館までであったことから、箱館以降の添触が必要となりました。

(先触の内容)
 先触の作成者「伊能勘解由」は伊能忠敬のこと。隠居してからは「勘解由」を名乗っていました。
 「測量の御用」ということで公用の旅でることを明らかにしています。公用の旅では、馬及び人足を用立てることを村の役人等に要請することができます。「お定めの賃銭で用立てください」というのは、伊能忠敬の第一次測量では人馬の費用を忠敬自信が負担せざるを得なかったからです(幕府は忠敬に一部援助)。
 人馬だけではなく、渡海・川越え・止宿についてもサービスの提供を受けることができました。宿泊は、夜具は宿泊所から提供を受けられますし、三食賄付き。昼食は弁当です。
 次に添触の写しを紹介します。

【御添触れの写し】
一 本馬 二疋
一 人足 三人
 書面の人馬は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人の伊能勘解由が、蝦夷地の御用のために使うので、本人の申し出があり次第、お定めの賃銭で用立てるように。いささかの遅滞もなく差し出し、継立てすること、かつ渡船・渡海・川越え・止宿についても、差支えのないようにするように。以上
 申九月 寺田忠右衛門 判
     水越源兵衛  判
 箱館から松前、松前から津軽三厩 奥州道中、千住宿まで
 右宿々の名主・問屋・年寄


(この添触の背景)
伊能忠敬は、寛政12年9月11日の日記で次のように書いており、「江戸へ帰る際の添触」が上記の内容です。
〈朝から薄曇り、夜も同じ。朝六つ後大野村出立、九つ前箱館に着。道のり五里。直ちに御役所へ届出、御添触れも返却する。小林新五郎殿が取り次ぎに出られた。江戸へ帰る際の添触れをお願いした。〉

(添触について)
 添触の作成名義は、箱館御番所の役人です。内容はほとんど先触と変わらないので、先触の内容を公証する役割を果たします。先触と添触で内容が異なっていてはダメなのです。
 先触と違うのは、伊能忠敬が何者かということを紹介している点。「伊能勘解由は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人である」となっており、この時点では伊能忠敬は幕府の役人にはなっていません。それでも測量の仕事は公用として認められていました。
 今風にいうと、伊能忠敬はフリーランス(浪人)であって、公務員(幕府の役人)ではないのですが、伊能忠敬の測量プロジェクトは幕府の公認で、幕府が同事業を委託し、必要経費の一部を助成金として交付するということになりましょうか。

(参考文献)
「蝦夷地での伊能忠敬の先触等〜幕府直轄後の宿駅制における〜」(堀江敏夫・「伊能忠敬研究第31号」2003年)

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