文政期も異常気象 文政12年6月上旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第四巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年6月朔(1日)(1829年)曇
・薬を送った利助から使いが来た。書状もあり、病気は全快したとのこと。
・寺嶋清兵衛が来た。藤沢の出入は終了したとのことで半切百枚を持参された。
・太田清兵衛は先日半紙二状持参し、挨拶に来た。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「利助」は、菅間村の利右衛門の倅の利助のことで、具合が悪いので薬を欲していました(5月24日条)。三中が送った薬は適切だったようで、利助の病は全快しています。
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文政12年6月2日(1829年)
三中先生、本日休筆です(4日までお休みです)。
#色川三中 #家事志
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文政12年6月3日(1829年)
三中先生、本日休筆です(4日までお休みです)。
#色川三中 #家事志
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文政12年6月4日(1829年)
三中先生、本日休筆です(明日再開)。
#色川三中 #家事志
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文政12年6月5日(1829年)曇
・往診を頼んでいた日向亮元医師。本日、土浦から在所(山口村)に帰った。
・入江氏(名主)が見舞いに来られた。
・今回、病気が長引いており神社仏閣への祈祷覚えとして記載する。
大宝八幡、千勝明神、六所 川口より
真鍋天王 17日祈祷 不動
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は持病が良くならないので、日向亮元医師に遠方から往診に来てもらっていましたが、本日ようやく同医師は地元に帰りました。今日から日記も再開しており、三中の体調もようやく上向きになってきたようです。
〈その他の記事〉
・先だっての粟野村の密夫一件、うら町の五兵衛のいとこであることから疑念を抱かれており、呼び出されたのであるが、疑念は晴れたことから、牢からでたとのこと。
・殿里村の名主七兵衛は、天王祭礼の際には町年寄の下座であったが、3〜4年前に同人が金銭的に貢献したので、帯刀御免を仰せつけられていた。そこで、登城の際にも町役人の上席となり、扱いが難しくなってきた。このことは町奉行においても懸案となり、名主の入江氏にも町奉行から直接話しがあるほどであった。
入江は、「町年寄の筆頭である栗山八兵衛に帯刀を許可し、七兵衛よりも上席とするようにしてはどうか」との提案をしたが、東崎町はこの策に反対である。このことは継続して話し合われていたが、ようやく今日、栗山八兵衛と入江全兵衛が奉行所に来るよう呼び出しがあった。
入江の話しでは、多分栗山八兵衛に帯刀が許可されるのではないかとのことであった。
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文政12年6月6日(1829年)曇り
・神龍寺の和尚に昨日施餓鬼を依頼。施餓鬼料として百疋、御供料金として一朱、御所化方へ二百銅ずつを差し上げた。
・本日、昼過ぎに神龍寺に施餓鬼のため利兵衛殿を遣し、経文読誦を聴聞したとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は病気祈願として、神龍寺の和尚に施餓鬼を頼んでおり(6月5日条)、本日施餓鬼が実行されました。三中は医学薬学に関心があり、独学とはいえ自分なりに勉強している人ですが、それでも神仏には頼ってしまうものなのですね。
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文政12年6月7日(1829年)曇
・天王様への17日祈祷の御札が川口から届いた。
・川口に初めて船で行った。夜には自宅に戻る。
・町組小頭の野口四右衛門殿が再び見舞に来られた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
野口四五右衛門は土浦藩の役人で町組小頭をしています(今月の月番)。一度三中を見舞いに来ており(5月15日条)、今回が二度目です。三中の病気が長引いていることもありますが、藩の役人もマメです。
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文政12年6月8日(1829年)曇
・小頭の宮古条助殿がお見舞いに来られた。
・駿河屋清兵衛方で宿泊していた旅人(下野壬生の人)が亡くなった。後の処理につき色々と難しい問題があるようだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「駿河屋清兵衛」は、春米屋月行事で今月の月番です。駿河屋さん宅で旅人が亡くなってしまいました。江戸時代は旅宿以外では人を泊めてはいけないことが建前ですし、他藩の者が亡くなるとその点も問題となってくるので、後の処理で様々な問題が生じるのでしょう。
⇒文政12年9月10日条でこの件に関する処分の記事あり。
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文政12年6月9日(1829年)曇り
夕方から西の方からと思われる雷鳴あり。深夜には雷鳴が一層大きくなる。時間が下ると大雷、震動、大雨。文化辰五月六日夜以来の大雷雨である。恐ろしいとしかいいようがない。日の出近くなると雷鳴は少し静かになったが、一時(2時間)ほどは大雷雨であった。夜明けと共に雲は晴れ、風は静かとなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
21年ぶりの大雷雨が置きました。夕方から始まり、深夜には大雷、震動、大雨。現代とは違って雷が落ちて火災となるという恐怖感もあり、生きた心地もしなかったでしょう。
〈その他の記事〉
・田植え終了祝いのための準備をする。
・町年寄の栗山八兵衛殿に帯刀許可の祝いとして割酒一升を贈る。
・江戸大火につき水野出羽守殿の御書付の写を拝見したので、日記に記す。
⇒本ブログ末尾付1
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文政12年6月10日(1829年)晴れ
・夕べの雷雨で、川口にある醤油蔵の表側の鬼瓦一枚が落ち、微塵に砕けたとのこと。雷神が落ちたのか、竜が通ったか、単なる風雨の仕業とは思えない。
・銭亀川の水位が朝に五合、夕方には七合となる。
・先月5月2日には雹、24日には大風、そして昨日の大雷雨。今年の吉凶は一体どうなっているのかなどと考えていたら、夕方から再び雷雨で、みな恐怖した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
異常気象は人の心を不安にさせるものです。
この一か月で雹、大風、大雷雨と3日も異常気象が起こっており、三中もかなり動揺しています。旧暦6月(太陽暦なら7月)ですから、夏で暑くなる時期ですが、寒気が入っているようで、天候が非常に不安定となっています。
〈その他の記事〉
・夜に色川吉右衛門の婿が来た。明後日12日に店開きをするとのこと。
・ 昼過ぎ、玉造原新田の源兵衛跡の丈助という者が来た。「熊谷にまで行って玉造に帰るところなのですが、路銭がなくなってしまい難渋しております。困り果てて先の町で聞いてみると、貴家様は玉造辺りでも御商売されておられる家とのこと。参上して御無心申せば、一飯くらいはいただけるのではとお聞きしたため、参上した次第でございます。
50歳ほどに見え、誠に難渋した様子だったので茶漬を与え、さらに路銭として五十文を渡して帰した。
・紀州藩の徳川太真様が御逝去になられたとの触書を写した。⇒本ブログ末尾付2
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付1 江戸大火について水野出羽守殿の御書付の写(6月9日条)
江戸表の火災のため、地方で春立に収穫した白米は、当五月中に限り江戸内に積み送り、素人でも自由に売りさばいてよい。ただし六月になれば、これまでの通りにするように。先達て触れがあったところ、類焼した町々では普請が間に合わず、春立などが手廻らないとのことなので、さらに当九月中まで白米の江戸への廻送を許す。ただし十月になれば、以前の通りにするように。
右の通り、奥筋並びに関八州御料私領寺社領共に洩れなく相触れられるように。
右の通り、公儀からの仰出でなので町方に触れる。
丑六月
(コメント)
江戸の文政大火(文政12年3月21日発生)の復興政策関係の幕府の通達です。
水野出羽守は、老中水野忠成(ただあきら)のことで、当時の筆頭老中です。
この書付の内容は、白米の流通を一定期間に限ってではあるが、自由にするというものです。
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付2 (6月10日条)
触書控
徳川太真様御逝去につき、昨八日より来十四日まで鳴物御停止、普請は昨八日の一日遠慮すること。
六月九日
右の通り、公儀からの仰出なので申触れる。
六月十日
役元
(コメント)
「徳川太真」というのは、和歌山藩の第8代藩主徳川重倫(しげのり)のこと。この年の6月に死去したため、6月8日〜14日までは鳴物は停止、普請は8日だけ自粛せよという触書です。