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千葉地裁が一審の大審院判決 大審院明治30年3月22日判決

2025年05月29日 | 大審院判決
千葉地裁が一審の大審院判決 大審院明治30年3月22日判決
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監守盗等の件
大審院刑事判決録(刑録)3輯3巻54頁
明治30年第171号
明治30年3月22日 宣告
◎判決要旨
郡書記は郡長の命令を受けて庶務を担当する者であり、金銭の出納の事務は庶務の一部に含まれる。したがって、郡書記が担当することを命じられた事務に関する金銭については、法律上、監守の責任を負う。
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第一審 千葉地方裁判所八日市塲支部
第二審 東京控訴院

被告人 白石重兵衛

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右の監守盗・私印盗用・私書偽造行使被告事件について、明治30年2月17日に東京控訴院で判決が言渡された。被告はこれを不服として上告した。
大審院においては、刑事訴訟法第283条に定められた手続きを履行し、次のように審判する。

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(上告趣意第一点について)
上告趣意第一点は次のとおりである。

一般に、各官庁の金銭出納は会計法及び同規則によって出納官吏を設置し、その者に監守の責任を負わせるものであり、出納官吏でない者には監守の責任はない。

香取郡役所においては、郡長が不在の場合を除き、通常は郡長が知事の特命を受けて出納官吏となる。しかし、被告はこれまで出納官吏としての任命を受けたことがないのであるから、金員に関する監守の責任がないことは明らかである。

原院(控訴院)は、被告が実際にこの事務を取り扱ったことをもって、直ちに出納官吏と見なしたか、あるいは郡長が郡書記に出納官吏を命じることができると判断し、被告が郡長の命を受けて事務を担当したと認定したため、出納官吏としての職責があるとしたのか、判決文にはこの点についての明確な記載がない。

出納官吏を任命する権限は知事に属しており、郡長といえども知事の命令なしに出納官吏としての職責を持つことはない。また、郡長が出納官吏としての任命を受けていた場合であっても、その分任官吏を他人に命じることはできない。そして、郡書記の職務については、地方官官制により、郡書記は郡長の命を受けて庶務に従事するものと定められている。したがって、郡長が不在の場合などやむを得ない事情がない限り、郡書記に出納官吏を特命していないのである。

被告はこれまで出納官吏としての任命を受けたことがないから、本件金銭に関して監守の責任を負わない。それにもかかわらず、判決文には法律上の責任の有無が明示されておらず、さらに監守盗罪が成立しないにもかかわらず刑法第289条を適用して処罰したのは不法である。

〈大審院の判断〉
地方官官制第四十八条には、「郡書記は郡長の命令を受けて庶務に従事する」と規定されている。この「庶務」とは、郡役所で取り扱うべき諸般の事務を指すものであるから、金銭の出納業務も当然にその中に含まれる。したがって、本件における徴発に関する金銭の出納業務も、郡長がその担当を郡書記に命じる権限を持つ。

原院(控訴院)では、被告が千葉県香取郡の書記として勤務していた際に、郡長である行方豊太郎の命を受け、馬匹徴発の業務を担当し、買い上げた馬の代金をその所有者に支払う業務を管掌していた事実を認定しているのだから、被告がその馬匹買上代金に対して監守の責任を負うのは、当然である。したがって、原判決が監守の責任の有無を明示していないとする主張は失当であり、刑法第二百八十九条を適用して処断したことは、妥当な判断である。
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(上告趣意第二点について)
上告趣意第二点は次のとおりである。

告発人および被害者は、刑事訴訟法第123条において証人となることが許されないのであるから
、予審においてこれらの者を証人として取り調べた調書は違法であり、原審においてこれを証言としての効力があるものとし、断罪の資料としたのは不法である。

〈大審院の判断〉
法律上、告発人や被害者を証人とすることを許さない規定は存在しない。したがって、原院(控訴院)においてこれらの者を証人として取り調べ、その予審調書を証言としての効力があるものとし、断罪の資料としたことは、決して違法ではない。

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(上告趣意第三点について)
上告趣意第三点は次のとおりである。

原院(控訴院)において、被告が各馬匹所有者の印影を盗用したと認定された。しかし、馬匹代金の授受は各馬主ごとに個別に行われており、そのやり取りを知る者は他にいないため、実際に盗用があったのかどうかは、馬主と被告との間の水掛論にならざるを得ない。

それにもかかわらず、各馬主の証言が口頭のみであり、証拠となる書類が存在しないにもかかわらず、それをもとに被告に犯罪があったと断定したのは不法である。

〈大審院の判断〉
事実の認定や証拠の採否は、原審裁判官の権限に属するものであるから、上告理由にはあたらない。
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(上告拡張論旨の第一点及び第二点について)
上告拡張論旨の第一点は、上告趣旨を反復し敷衍しているに過ぎず、上告趣旨に対する説明以上のものを要しない。

上告拡張論旨の第二点は、被告が偽造・行使したと認定された馬代金受取書は、権利や義務に関するものではないため、刑法第210条第1項を適用した原判決は不法である、という主張である。

〈大審院の判断〉
しかし、金銭の受取書のような書類は、権利義務に関する証書であることは明らかである。したがって、原院(控訴院)が刑法第210条第1項を適用し、処断したのは妥当である。
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(結論)
以上の理由により、刑事訴訟法第285条に基づき、本件上告を棄却する。

明治30年3月22日、大審院第一刑事部公廷において、検事・岩田武儀立ち会いのもと、この判決を宣告する。

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〈原文〉

監守盜等ノ件
大審院刑事判決録(刑録)3輯3巻54頁
明治三十年第一七一號
明治三十年三月二十二日宣告
◎判决要旨
郡書記ハ郡長ノ命ヲ受ケ庶務ニ從事スヘキモノニシテ金錢出納ノ事務ハ庶務ノ一部ニ屬ス從テ其擔任ヲ命セラレタル事務ニ關スル金錢ニ對シテハ法律上監守ノ責任ヲ有ス

第一審 千葉地方裁判所八日市塲支部
第二審 東京控訴院

被告人 白石重兵衛

右監守盜私印盜用私書僞造行使被告事件ニ付明治三十年二月十七日東京控訴院ニ於テ言渡シタル判决ニ對シ被告ハ上告ヲ爲シタリ
大審院ニ於テ刑事訴訟法第二百八十三條ノ定式ヲ履行シ審判スルコト左ノ如シ

上告趣意第一點ノ要領ハ凡ソ各官廳ノ金錢出納ハ會計法及ヒ同規則ニ依リ出納官吏ヲ置キ以テ監守ノ責ヲ負ハシムルモノナレハ此出納官吏ニ非サレハ監守ノ責任ナシ而シテ香取郡役所ハ郡長闕員ノ塲合ハ格別通常ノ塲合ニ在テハ郡長ニ於テ知事ノ特命ヲ受ケテ出納官吏トナレリ故ニ被告ハ曾テ出納官吏タルノ命ヲ受ケタルコトナキヲ以テ金員監守ノ責任ナキヤ勿論ナリ然ルニ原院ハ被告カ此事務ヲ取扱ヒタルニ付直チニ出納官吏ト爲シタルカ或ハ郡長ハ郡書記ニ出納官吏ヲ命スルコトヲ得ルト爲シタルヨリ乃チ被告カ郡長ノ命ヲ受ケ此事務ヲ取扱ヒタリト認メタルニ因リ隨テ出納官吏ノ職責アル者ト爲シタル乎判文ニ之ヲ明示セス抑出納官吏ヲ命スルハ知事ノ職權ニ屬シ郡長ト雖モ知事ノ命ナキ以上ハ此職責アルコトナク又郡長ニシテ出納官吏タルノ命ヲ受ケタル者ト雖モ其分任官吏ヲ他人ニ命スルコトヲ得サルナリ而シテ郡書記ノ職掌ハ地方官々制ニ依ルニ郡書記ハ郡長ノ命ヲ受ケ庶務ニ從事ストアリ故ニ郡長闕員ノ如キ止ムヲ得サル塲合ノ外郡書記ニ出納官吏ヲ特命セサルナリ云々要スルニ被告ハ曾テ出納官吏タルノ命ヲ受ケサルヲ以テ隨テ本案ノ金員ニ付監守ノ責任ナキ者ナリ然ルニ法律上其責任アルヤ否ヤヲ判文ニ明示セス且監守盜罪ヲ構成セサルモノニ對シ刑法第二百八十九條ヲ適用シ處斷シタルハ不法ナリト云フニ在レトモ

◎地方官々制第四十八條ニ郡書記ハ郡長ノ命ヲ受ケ庶務ニ從事ストアリテ庶務トハ即チ郡役所ニ於テ取扱フ可キ諸般ノ事務ヲ指シタルモノナレハ金錢出納ノ事務ノ如キモ亦此中ニ包含スルモノナリ然ラハ則本案ノ徴發ニ關スル金錢出納ノ事務ト雖モ郡長ニ於テ其擔任ヲ郡書記ニ命スルノ職權アルコト勿論ナルヲ以テ原院ニ於テ被告ハ千葉縣香取郡書記奉職中郡長行方豐太郎ノ命ヲ受ケ馬匹徴發ノ事務ヲ擔任シ馬匹ノ買上代金ヲ其持主ニ下付ス可キコトヲ管掌シタリトノ事實ヲ認メタル上ハ右馬匹買上代金ニ付被告ニ監守ノ責アルコト固ヨリ論ヲ俟タサルナリ故ニ原判文ニ監守ノ責アルヤ否ヤヲ適示セスト云フコトヲ得ス隨テ刑法第二百八十九條ヲ適用シ以テ處斷シタルハ相當ノ判决ナリトス


同第二點ハ告發人及ヒ被害者ハ刑事訴訟法第百二十三條ニ於テ證人タルコトヲ許サヽルモノナレハ豫審ニ於テ右等ノ者ヲ證人トシテ取調ヘタル調書ハ違法ナルニ原院ニ於テ之ヲ證言ノ効アルモノトシテ斷罪ノ資料ニ供シタルハ不法ナリト云フニ在レトモ
◎法律上告發人又ハ被害者ヲ證人ト爲スコトヲ許サヽルノ規定アルコトナシ故ニ原院ニ於テ右等ノ者ヲ證人トシテ取調ヘタル豫審調書ヲ證言ノ効アルモノトシテ斷罪ノ資料ニ供シタルハ决シテ違法ニアラサルナリ

同第三點ハ原院ニ於テ被告カ各馬匹主ノ印影ヲ盜用シタリト認メタレトモ馬匹代金ノ授受ハ馬主一名毎ニ之ヲ爲シタルモノニシテ他ニ此授受ヲ知ル者ナケレハ果シテ盜用シタルヤ否ヤ馬主ノ一名ト被告トノ間ニ在テ水掛論タルヲ免カレス云々然ルニ各馬主等カ口頭無證ノ供述ニ成リタル書類ヲ採リ以テ被告ニ犯罪アリト斷定シタルハ不法ナリト云フニ在テ
◎原承審官ノ職權ニ存スル事實ノ認定及ヒ採證ノ當否ヲ論難スルニ過キサレハ上告ノ理由トナル可キモノニアラス

同擴張論旨ノ第一點ハ上告趣旨ヲ反覆敷衍スルニ過キサレハ上告趣旨ニ對スル説明ニ依テ了解ス可シ

同第二點ハ被告カ僞造行使シタリト認メタル馬代金受取書ハ權利義務ニ關スルモノニアラサルニ刑法第二百十條第一項ヲ適用シタル原判决ハ不法ナリト云フニ在レトモ◎金錢受取書ノ如キハ權利義務ニ關スル證書ナルコト勿論ナレハ原院カ刑法第二百十條第一項ヲ適用處斷セシハ相當ナリトス

右ノ理由ナルヲ以テ刑事訴訟法第二百八十五條ニ依リ本案ノ上告ハ之ヲ棄却ス
明治三十年三月二十二日大審院第一刑事部公廷ニ於テ檢事岩田武儀立會宣告ス

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安政4年5月中旬・大原幽学刑事裁判

2025年05月26日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年5月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政4年5月11日(1857年)
#五郎兵衛の日記
四ツ時、良左衛門君らと大橋手前の団子屋で休憩し、亀戸天神を参詣。柳島妙見浦や浅草観音の植木を見物し、歯入師を訪問。上野広小路から御成道を通り再び団子屋で休憩。神田明神下の湯屋に寄り、七ツ時に帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日もまた名所巡り。五郎兵衛にとって名所巡りに団子屋は欠かせず、大橋手前の団子屋で休憩し、帰り道でも再び団子屋で休憩。


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〈詳訳〉
・四つ時、良左衛門、又左衛門、宜平と小生の四人で、大橋手前の団子屋で休憩。その後、高橋の向こうで売家を見、亀戸天神を参詣。そこから柳島妙見の浦から東橋通り、浅草観音の脇にある植木を一見。
・門跡前の歯入師(入れ歯屋)に立ち寄り、上野の広小路に出、御成道を戻り、団子屋に立ち寄り休む。神田明神下の湯屋に入り、筋違通りを通って、七つ時に戻る。
・幽学先生は四つ時にお出かけになった。
・佐左衛門殿が二人の差付添えと共に来た。
・五つ時に、「鏑木の者」と申す迷い女が、宿に「十日市場の者」を連れてきた。
・邑楽屋の主人のもとへ行き、その女性について尋ねたところ、精神が錯乱しているようで、話が支離滅裂だった。このような者は気の毒ではあるが、女性のことなので下手に関わると厄介事になりかねない。「あなた方も迷惑でしょうし、私も困る。気の毒だが、連れてきた人に預けて、関わらないほうがよい」と話していたところ、その女性は連れてきた人のもとから逃げてしまった。
・その後、主人が彼女を探しに出て、柳原から筋違いに進んだ道で、偶然にも女性の夫と出会った。これはまさに運命的な巡り合わせであり、一同は大喜びした。そして後日、邑楽屋にお礼に訪れた。
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安政4年5月12日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・五ツ時に浅草門跡前の歯入師を訪れ、20匁を支払い、四ツ時に帰宅。
・正善源傳の4人が五ツ時に芝方面へ行き、八ツ時に帰宅。幽学先生も芝方面へ出かけ、同じく八ツ時に帰宅。その後、湯屋に行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
安政4年の日記では、多くの道友の名前が出てくるため、「正善源傳」のように名前を一文字で表しています。この4人は、正太郎、善右衛門、源兵衛、傳藏を表しています。

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〈詳訳〉
・五つ時、浅草門跡前の歯入師(入れ歯屋)に行き、20匁を支払い、四つ時に戻り。
・五つ時に、正善源傳の4人(正太郎、善右衛門、源兵衛、傳藏)が芝方面へ向かい、八つ時に戻り。幽学先生も芝方面へお出かけになり、八つ時にお戻り。その後、湯屋に行った。

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安政4年5月13日(1857年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生が外出後、又左衛門殿が「皆のもの、また自由気ままになっていないか。幽学先生に相談して物事を進めるべきだ」と意見した。
一同は今日から改め、幽学先生にご心配をかけないようにすることを心を一つにして決めた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
最近一同あちこちに物見遊山ばかりしていました(五郎兵衛日記からもこのことは明らか)。こちらはてっきり幽学先生も同意の上でと思っておりましたが、又左衛門殿の意見からはさにあらず。幽学先生のことはそっちのけで、欲求の赴くままに物見遊山していたようです。
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〈詳訳〉
・早朝、佐左衛門殿の差添(付添)が交代となり、挨拶に来た。
・一同は国元へ送る手紙を書くため宿にいた。
・九つ時に幽学先生が外出。
・八つ時に又左衛門殿が意見を述べた。
「皆のもの、また自由気ままに振る舞ってはいないか。自分のために書き物をするとしても、幽学先生に聞いて役に立つものであれば、みんなのためにもなるのだから、打合せをしながら何事も進めるほうがいいだろう。この裁判は長くかかるかもしれないし、いつ終わるかもわからない。先生のご身分がもどうなるかもわからないのだから、皆で改革して、先生にご心配をかけないようにすべきだろう」
この言葉を受けて、一同は今日から改め、幽学先生にご心配をかけないようにすることを心を一つにして決めた。


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安政4年5月14日(1857年)
#五郎兵衛の日記
朝食後に髪結い。四ツ時、小生や又左衛門ら6人で両国の回向院へ向かい、芝山仁王の開帳を見物。竹田細工のからくり人形を見たが、実に珍しい細工であった。ぜんまい仕掛けの生きているような人形であった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
両国回向院へ物見遊山。見物しているだけなので、お金がかからないように過ごしているのでしょう。ぜんまい仕掛けの人形劇がよほど印象に残ったのか、五郎兵衛は詳細に日記に記しています。
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〈詳訳〉
・朝食後に髪結い。四ツ時、小生や又左衛門ら6人で両国の回向院へ向かい、芝山仁王の開帳を見物。竹田細工のからくり人形を見たが、実に珍しい細工であった。ぜんまい仕掛けの生きているような人形で、表には猿田彦大神や木花咲耶姫(うすめ尊)、ほかに伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみ)などがあった。
・中に入ると坂があり、段々と登っていくと、以下のような場面があった。
1番目は和藤内(わとうない)が虎を生け捕る場面。
2番目は住吉大明神。
3番目は日蓮上人。
4番目は不動尊、祐天、さらに中将姫や観世音の場面。
・坂を下ると、坊太郎と乳母(うば)のお辻(場面)があり、その先には大石に縄が締められていた。この石が割れると、中から骸骨が現れ、手を振りながら引っ込んだ。さらに、女性の幽霊が現れた。その後、飛脚が安達原の一軒家を訪ね、黒塚での化け物の場面は恐ろしくも哀れなものであった。しかし、そのそばに観世音菩薩が現れる。
・さらに、中に入ると左右に幣があり、それが割れて伊弉諾尊と伊弉冉尊が現れた。
この幣が両側から橋となり、その上にセキレイ(鳥)が2羽飛び出し、羽を動かした。すると、両尊が橋の上で進み、互いに寄り添って舞を披露した。その後、三味線を弾く子どもが2人、歌を歌う少女が2人登場し、尊たちの舞が終わると、上席へとせり上がった。
・続いて、龍宮王が杯を交わし、碁を打つ場面があり、その下では雨蛙やフグ、魚が登場し、下では琴の音に合わせて拍子を取り、タコが歌を歌う。これらはすべて人形であったが、まるで生きているかのような見事な細工であった。
さまざまな舞や芸が披露された後、最後に乙姫が琴を奏でながらせり上がり、実に珍しいものを見た一日であった。
・八ツ半時に戻る。晩に傳蔵殿と帰村の打合せ。

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安政4年5月15日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・良左衛門君らとともに計7人で、(大名の)登城の見物。その後両国へ回り、からくりを見る。
・山口へ炭を買いに行った。晩に平太郎殿と借家について打合せ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は登場見物と両国でからくり見物です。からくりは昨日も見に行っているので、五郎兵衛にとってはよほど興味深かったようです。
登城見物は4年前にもをしておりまして、その際には、当時の老中主座阿部正広の行列の壮観さが記録されていました(嘉永6年3月3日条)。
なお、この年(安政4年)の老中主座は堀田正睦です。

━━━
〈詳訳〉
・早朝、傳藏殿帰村のため出立。
・良左衛門君、小生ら7人で登城の見物。その後両国へ回り、からくりを見物。九つ半時に戻り。
・幽学先生は五つ半時に外出され、八つ時に戻られた。
・山口へ炭を買いに行き、又左衛門殿は艾茶を買いに行った。晩に平太郎殿と借家について打合せ。

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安政4年5月16日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五つ時、良左衛門君らと共に計4人で借家を探しに行く。佐柄木町と三河町では売物件があった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学一門は2年前(安政2年)までは神田松枝町の借家で暮らしていましたが、長期の帰村となったことから、借家を引払い、現在は公事宿で暮らしています。ここにきて、江戸での滞在が長くなる可能性がでてきたので、借家を見つけるべく調査を開始しましたが、売家の情報が入り、購入方向でも考えているようです。

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〈詳訳〉
・五つ時、良左衛門君、又左衛門殿、宜平殿と小生の4人で借家を探しに出かけた。佐柄木町と三河町に売物件があった。
・元岩井町の平太郎殿と打合せをし、その後、深川の長左衛門殿とも打合せ。一緒に三河町から雉町の方へ回って戻ってきた。
・平太郎殿が来た。
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安政4年5月17日(1857年)
#五郎兵衛の日記
四つ時、正太郎殿と七郎兵衛殿が麻布の地頭所へ行った。善源と久平は浅草の方へ出かけ、八つ時に戻った。その後、一同で髪結いし、湯屋にいった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、五郎兵衛自身の動静か又は幽学先生の動静が記載するのが普通なのですが、今日の記事では「髪結いし、湯屋にいった」以外は五郎兵衛の行動が記録されていません。宿で無聊をかこっているということなのでしょうか。


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安政4年5月18日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・大雨のため、一同宿に留まる。
・佐左衛門殿と同村の喜左衛門殿が来た。七つ時帰り。
・幽学先生は両国へ外出された。
・稲荷下が病気になった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「佐左衛門」は石毛佐左衛門。香取郡入野村(旭市入野)の百姓で、幽学一門です。裁判初期から名前は出ていましたが、安政4年になってからは頻繁に名前が記されています。何かの活動をしていたのでしょうが、内容が記録されておらず不明です。


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安政4年5月19日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半時、幽学先生や又左衛門殿ら七人で麹町で調練の見物。八ツ時に戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
調練見物。5月9日条にも調練見物の記事がありますが、今回は珍しく幽学先生も一緒に見物しているのが特徴。無料で見物できるので、幽学先生も心理的抵抗がなかったのでしょう。

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〈詳訳〉
・五ツ半時、幽学先生、又左衛門殿ら七人で麹町で調練の見物。八ツ時に戻り。
・荒海村(成田市荒海)から飛脚が来た。惣右衛門殿から手紙が届いたため、返書を書いて夕方に蓮屋(公事宿)へ行き、届けるよう頼んだ。

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安政4年5月20日(1857年)
#五郎兵衛の日記
三河町の家を購入することとなり、打合せ。22日に平太郎殿と二人で家主と交渉し、購入したらすぐに改修工事に取り掛かる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
江戸での滞在化長くなる可能性がでてきたので、借家を見つけようとしていましたが、売家の情報が入り(5月16日条)、三河町の家を購入する計画が進んでいます。長期間借りるよりも経済的であると踏んでいるのでしょうが、それにしてもその資金はどこから出るのでしょうか…。


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〈詳訳〉
・四ツ時に平太郎殿が来て、幽学先生と共に三河町の売家を見に行き、大家とも話しをした。
・平太郎殿は深川の長左衛門殿のもとへ行ったが、不在だったため戻ってきた。
・八ツ時に長左衛門殿が来て、三河町の家を購入する打合せをした。22日に平太郎殿と二人で家主と交渉することを決め、購入したらすぐに改修工事に取り掛かることを打合せ。
・四ツ時に又左衛門殿が小網町本町へ、万才村の治右衛門殿に刀の鍔を売りに行った。九ツ時に戻り。
・七郎兵衛殿は深川へ行き、七ツ時に戻り。
・夕方五ツ時に久左衛門殿に奉行所から呼出しがあった。


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文政13年5月中旬・色川三中「家事志」

2025年05月22日 | 色川三中
文政13年5月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年5月11日(1830年)曇少々雨
弟の金次郎と六ツ時に江戸へ向け出立。飛脚には出発の報せを託す。途中、藤代で昼食をとるが、雨で道は田んぼのように悪路。七ツ前ころに小金村の伊勢屋重左衛門方へ到着し、一泊する。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸に向かって出立。江戸に詳しい弟の金次郎と一緒の旅です(弟は一昨年まで江戸で奉公。文政11年9月11日条)。藤代で昼食。半日で約20キロ進んでいます。悪路の中をさらに20キロ。小金宿で一泊です。

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〈詳訳・その他の記事〉
弟の金次郎と六ツ時に出立。
飛脚には、本日江戸に向かって出立した旨を伝えておくように申し付けた。
藤代(取手市藤代)で昼食。
雨で道が悪く、田んぼのよう。
七ツ前ころ、小金村(松戸市小金)の伊勢屋重左衛門方へ到着し、一泊。
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文政13年5月12日(1830年)曇少々晴れ間あり
九ツ半時に堀田原に到着。金二郎は疲労困憊で動けず。16年ぶりの江戸。夢に夢みる心地である。
大伝馬塩町にいる与市を訪ねたが不在。やむを得ず今日は石渡殿を訪ねず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
堀田原は、浅草黒船町西裏から小石川富坂町代地北西までの一帯をさします。ここが色川家の江戸での拠点のようです。三中にとっては16年ぶりの江戸です。「夢に夢みる心地」は原文のとおりです。

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〈詳訳&その他の記事〉
・引舟(曳舟)を経て、九ツ半時に堀田原(浅草付近)に到着。金二郎は疲れ果てて、まったく動けなくなってしまった。
・堀田原への進物として風呂敷一つ、箱入り盃をお贈りした。
・16年前、病気のため土浦に戻って以来の江戸であり、夢に夢みる心地である。
・いろいろと手間取ってしまい、大伝馬塩町の与市のもとを訪ねたのは七ツ時になってしまった。与市は昨夜出かけたまま戻っていないというので、書状を置いて堀田原へ帰る。やむを得ず、今日は石渡殿には行かず。

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文政13年5月13日(1830年)曇り
金次郎(弟)と共に石渡殿を訪問。進物を贈り、関係者に挨拶。文左衛門殿から文書の内容に関する問題を指摘され、一札提出が必要との話しを受ける。その後、神田松下町に滞在中の入江(名主)と相談。再考するため、いったん堀田原へ戻る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸に急用で呼ばれた三中ですが、用件は醤油蔵の入口に《御本丸・西御丸御用》という掛け札をかける件で提出した書面の内容でした。ツイートでは省略しましたが、書面の体裁等問題があり、御公儀の御役人がお怒りとの指摘を受けてしまいました。
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〈詳訳&その他の記事〉
・朝、金二郎とともに大伝馬町の与市を訪ねるが、与市はまだ戻っておらず不在。仕方なく、二人で石渡殿を訪れる。
・石渡殿へ進物として風呂敷一つと扇子一つ添えを贈る。文左衛門殿、金蔵殿(留守)へも同様。
・当家の若主人と後家のお二人にも挨拶。
・文左衛門から次のような話しがあった。
「今回の件は、本来なら貴家から御領主様へ届書を提出するのが筋であったはずだが、願書の書式となっている。これは公儀(幕府)に対してどのように考えているのか。
それと、色川三郎兵衛という色川家当主はどうなっているのか。願書の名義は『桂助』となっておりよく分からず、疑念を持たれている。まあ、『桂助』というのはまだ良い。問題は願書の形式で提出されたことだ。これにはご立腹されている。この件について、一札差し出さなければ解決しない」
「まずは石渡庄助に宛てて書面を認め、それを見ていただいた方がよい。足下の草案を見たが、どうも納得がいかない」
そこで、「まずは関係者と相談してから改めて伺うことに致します」と申し上げて、その場を辞した。
・その後、すぐに(神田)松下町(現千代田区内神田)の伊勢屋新兵衛殿のもとへ菓子一箱を持参して訪問。同所は入江隠居の弟、新四郎殿の住まいである。折良く入江隠居や入江家の当主・全兵衛も滞在中であったので、早速について相談した。
入江はから次のような話しがあった。
「この書面は御奉行所からの加筆があり、こういう形になったものだ。ちょうど今、御奉行の藤井様も江戸にいらっしゃるので、お伺いしたほうがよいのではないか」
様々な話しをして、私の方でもう少し考えてみることになり、いったん堀田原へ戻った。
・間原の主人が常陸屋に滞在しており、手紙を送って宵どきに相談。


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文政13年5月14日(1830年)曇
早朝、間原主人と与市を訪ね、書付の修正を相談。与市の助言を受け、文案を作成した。三人で石渡家を訪問し、修正案を提示したところ、石渡殿は「問題ない」とのこと。その後、饗応を受けた。4~5日滞在し、御公儀の指示を待つこととなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
書面につき昨日の指摘を受けて、早朝から動き、修正案を提示して石渡殿からはOKがでました。さすがに三中は仕事が早いです。この後、幕府の確認を経るため、数日江戸に滞在しなければなりませんが、急ぎの対応は用が済みました。
━━━
〈詳訳&その他の記事〉
・早朝、間原の主人が堀田原へ来られた。共に大伝馬塩町の与市方へ行き、書付(文書)の件について相談した。
与市は、「文体に少し加筆すれば、こちらの意図を十分に伝えられるだろう」と言っていた。
・私から修正した文案を示した。内容は、私の拙さから届書のつもりで、願書の形式となってしまい、御公儀(幕府)の御役人様のご立腹を招いてしまった、貴家(石渡家)が謝罪と弁明をしていただいたおかげで、事態は円満に解決し忝ないというものである。
・三人で石渡方を訪問。石渡からは、堀田原や大伝馬塩町に何度も使者を送ったそうで、
「待ち兼ねていたぞ」と言われた。
私から、「ご指摘の点に草案を作成致しました」と言い、新たな書付を提示した。
石渡はこれを確認し、「これならば領主に対しても問題のない書付である」といったので、すぐに印を押し提出した。
その後、石渡家で饗応を受け、金蔵宅へも挨拶に行った。
今後、4~5日滞在し、御公儀(幕府)の沙汰(指示)を待つこととなった。

修正した文案は以下のとおり。
一札のこと
一、御膳用の醤油の仕入れについて、長年にわたり私どもが仕入れを任されており、誠にありがたく存じております。
ついては、仕入れ場の掛札や木札、船印などを以前よりお渡しいただいておりましたが、先年の土浦での火災の際に類焼し、その後は使用しておりませんでした。
しかし、これは特に重要な品であり、取扱いが疎かになってしまっては大変申し訳なく存じます。
そのため、本年3月に貴殿へご相談申し上げたところ、右の品々を御差し越しいただきました。
早速当地の領主へ願書を提出することとなりました。
なお、先年に品をお渡しいただいた際には「届書」の形式で提出したようにも記憶しておりますが、長い年月が経っており、記録などがはっきりしないため、改めて事情をお尋ねする次第です。
何卒、この件について適切にお取り計らいいただきますようお願い申し上げます。
以上の趣旨により、一札を差し上げます。
文政十三年(寅年)五月
色川屋 三郎兵衛

御醤油屋 庄助殿

(先に作成した書面は、先方へ返却した)

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文政13年5月15日(1830年)曇
・(昨日までの状況を)書状に認め、土浦屋を通じて国元(土浦)へ発送。
・菓子一箱を持参し、湯島天神前の今川勾当を訪ねた。勾当は「実に26年ぶりの再会だな」と仰っていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
これまで今川勾当の名は、日記でも書かれていたのですが、説明がほとんどないためどのような関係なのか謎でした。この記事で、湯島天神前に住んでいること、三中はほとんど会っていないこと(三中は数え30歳です)が分かりました。してみると、親や祖父の縁者か知り合いでしょうか。

━━━
〈詳訳・その他の記事〉
・書状を認め、土浦屋を通じて国元(土浦)へ発送。
・菓子一箱を持参し、湯島天神前の今川勾当を訪ねた。勾当は「実に26年ぶりの再会だ」と言っていた。
・夕方に堀田原に戻ると、その後すぐに与市が訪ねてきた。石渡の書付に書き損じがあったため修正し、改めて印を押してほしいとのことだったので、印を押して渡した。与市はそのまま石渡のもとへ向かった。

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文政13年5月16日(1830年)曇
終日、『万葉集』等を読みながら過ごす。
万葉考四卷、万葉槻落葉二、いせ物語新釈
石上私淑言、さやさや草し、日本霊異記、
出雲国造神寿後釈 真淵
祝詞考真淵、別記 真淵、円珠庵雑記、同雑々記
三音考、宇音かなつかひ、漢呉音図、同音徵
縣居雑録補抄、隣女晤言、万葉用字格、玉かつま
万葉略解、類聚方議、冠辞考統貉、参考いせ物語
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸に呼び出されましたが、問題事に迅速に対応。作成した書面に幕府の役人のOKが出るまで江戸で待機していなければなりません。やることがなく、終日万葉集関係の書籍を読んでいます。これまで日記で万葉集に言及したことは殆どなかったのですが、多大な関心を寄せているようです。
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文政13年5月17日(1830年)
・石渡殿へ先日の御礼に行く。
・朝少々晴れるも、夜に大雨。流れるような降り方。
#色川三中 #家事志
(コメント)
作成した書面に幕府の役人のOKが出るまで江戸で待機しなければならず、いつ連絡があるかも分からない為、そう遠くにも行くことができません。
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文政13年5月18日(1830年)
・江戸に来て初めての晴。大暑。
・間原氏と共に、松下町の伊勢屋新兵衛を訪ね、入江隠居の病状を尋ねる。膿が出ている様子。湯島へ行き、今川勾当に暇乞い。七ツ前時に戻り、夕方には酒肴でもてなされ、大いに楽しむ。そのまま眠ってしまった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日まではバカ正直に待機していた三中ですが、さすがに待ちくたびれたのか、遊んでから土浦に戻る予定のようです。夕方にはリラックスして、宿所で大いに酒を飲み、そのまま眠ってしまっています。
━━━
〈詳訳・その他の記事〉
・江戸に来て初めての晴。大暑。
・間原氏と共に(神田)須田町の石川氏を訪問す。その後、(神田)松下町の伊勢屋新兵衛殿方へ行き、入江隠居の病状を尋ねる。先日から膿が出ている様子である。
・湯島へ行き、(今川)勾当に暇乞い。
・七ツ前時に戻る。夕方、酒肴により馳走になる。大いに興が乗り、そのまま眠ってしまった。


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文政13年5月19日(1830年)晴れ、大暑
・朝、与市のもとへ行くと、酒と肴でもてなしてくれた。その後、与市も同行して石渡のもとへ向かい、主人に絵を依頼した。
・長者町へ行く。上野へ参詣。根岸を経て金杉へ出て、吉原土手で休憩。田町で中食をとり、浅草観音を参詣。茶屋でしばらく休憩後、帰宅。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市は下総のある村で名主を務めた人物ですが、以前土浦で色川家の為に働いていました。
2年前には土浦を離れましたが(文政11年7月12日条)、それ以降はフリーランスで問題解決にあたっており、三中も折に触れて対応を依頼しています。三中の方が年下ですが、酒肴で饗しており、さすがの気遣いです。
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文政13年5月20日(1830年)晴、大暑
腹下しと発熱で体調不良。夕方、与市と共に石渡殿を訪問。「勘定奉行から土屋相模守への殿中調査で書面に問題ないと確認でき、帰村してよいとの仰せがあった」とのお話し。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ここ数日晴れて暑くなったのに、あちこち遊んで回ったのがたたったようです。腹下しと発熱で体調不良に。三中は体が強くありませんね。
作成した書付は問題がなく、土浦に戻ってよいとの許可が出ました。問題解決です。

━━━
〈詳訳・その他の記事〉
・腹下り発熱して体調不良。夕方、与市が来て、石渡殿から、すぐに来ていただきたいとの連絡ありとのこと。
・与市と共に石渡殿を訪問。「本日、勘定奉行様から(土浦藩藩主の)土屋相模守様へ、殿中でお調べがあり、書面には問題ないことが確認されたと聞いた。(色川)三郎兵衛は自由に帰村してよいとの仰せであった。
・御船手(海上の管理・警備)については、幕府の内意があり、中川役所については、自らの才覚で対応するようにとのこと。もし差し止めがあれば、こちらへすぐに届出るようにとのこと。
・当方が提出した書付(文書)を、領主様が写しを賄頭(財務・経理担当)へ提出し、賄頭が確認してから、殿様自らが殿中で老中方が列席する場で差し出されるものであるので、少しでも不備があってはならなかったそうだ。この件は賄頭が調査を担当したことも、一つの御威光である。


石渡からの御柄符の写し
材質:檜
長さ:1尺5分(約31.8cm)
幅:3寸5分(約10.6cm)
厚さ:7分(約2.1cm)
柄の長さ:1尺(約30.3cm)
柄の差し込み:3寸9分(約11.8cm)
その他の点については、先日提出した雛形と相違がないようにと、念を押された。雛形はすべて御上様(幕府)にお渡しするものである。
・夜の五ツ時、中条へ菓子一朱を持参し、与市とともに訪問。

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千葉地裁が一審の大審院判決 大審院明治29年12月21日判決

2025年05月19日 | 大審院判決
千葉地裁が一審の大審院判決 大審院明治29年12月21日判決
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私文書偽造・行使・詐欺取財の件
大審院刑事判決録(刑録)第2輯第11巻89頁
明治29年第1233号
明治29年12月21日 宣告

◎判決要旨
告訴状は一人で作成すべき文書である。したがって、刑事訴訟法第20条の規定に従う必要はない。
(参考)
官吏や公吏でない者が作成すべき文書には、本人が自ら署名・押印しなければならない。もし署名・押印ができない場合は、公務員の面前で作成した場合を除き、立会人が代理で署名し、その理由を記載する必要がある。(刑事訴訟法第20条第1項)
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第一審 千葉地方裁判所八日市塲支部
第二審 東京控訴院

公訴私訴上告人 小高熊次郎 
辯護人 板倉中
私訴被上告人 今関喜三郎

右熊次郎の私文書偽造・行使・詐欺取財被告事件について、明治29年(11月16日に東京控訴院で言い渡された判決に対し、被告がこれを不服として上告した。

これにより、刑事訴訟法第283条に定められた手続きを履行し、弁護士・板倉中の弁論および検事・岩野新平の意見を聴取したうえで、次のとおり判決を言い渡す。

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(公訴上告の論旨について)

公訴上告の要旨は、被害者は損害を被っていないので、詐欺取財罪としたのは違法であるという主張である
すなわち、被告は今関喜三郎から借金をしたが、平山権右衛門の実印を押した証書を用い、十分な価値のある土地を担保としており、喜三郎に損害はない。にもかかわらず、原院(控訴院)が被告の行為を詐欺取財罪としたのは違法である。

〈大審院の判断〉
原判決は、被告は権右衛門の次男・弁四郎と共謀し、権右衛門名義の借用証書を偽造して、今関喜三郎から借金をする名目で干鰯(ほしか)を詐取したという事実を認定した。
したがって、原院(控訴院)が被告の行為を詐欺取財産としたのは妥当であり、上告論旨は理由がない。

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(弁護士の拡張論旨第一点について)
弁護士の拡張した論旨の第一点は、次のとおりである。
原判決の法律適用の部分に刑法第212条の挿入があるが、この挿入は刑事訴訟法第21条の規定に違反するため無効である。したがって、刑法第212条の明示がなかったことになり、本件において必要な同条の明示を欠いたのは、法律の理由を明示しない違法な裁判である。

〈大審院の判断〉
原判決を検討すると、右の挿入には認印がある。 そして、刑事訴訟法の規定によれば、文字の挿入には認印があれば足り、挿入した文字の字数を記載する必要はない。したがって、原判決は刑事訴訟法第21条の規定に違反した違法な裁判ではない。

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(弁護士の拡張論旨第二点について)
弁護士の拡張論旨の第二点は、次のとおりである。
平山権右衛門の告訴状は本人が自署していないし、また、自署できない旨の附記もないから、刑事訴訟法第20条第2項の規定に違反する違法な書面である。にもかかわらず、原院(控訴院)がこの告訴状を採用して断罪の証拠としたのは違法である。

〈大審院の判断〉
告訴状のような私人が作成する書面は、刑事訴訟法第20条の規定に従って作成する必要はない。したがって、右の告訴状を法律上当然に無効とすることはできない。
原院(控訴院)がこれを真正な告訴状と認めて断罪の証拠としたことは、証拠の取捨選択に関する原院の職権に属するものであり、その当否を争って上告の理由とすることはできない。

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(私訴上告の要旨について)
私訴上告の要旨は、以下のとおりである。
被上告人(貸主)は平山権右衛門から抵当を取り、登記を経たうえで承諾のもとに貸し付けたものである。したがって、本来、上告人(借主)に対して請求すべきものではないのに、原院(控訴院)が上告人に弁済を命じたのは不当である。
〈大審院の判断〉
しかし、この論旨は結局、公訴上告の要旨と同じである。上告の理由がないことは前述の説明のとおりである。

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(結論)
以上の理由により、刑事訴訟法第285条に基づき、本件上告を棄却する。

明治29年12月21日、大審院第二刑事部公廷において、検事・岩野新平立ち会いのもと、この判決を宣告する。

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〈原文〉
私書僞造行使詐欺取財ノ件
大審院刑事判決録(刑録)2輯11巻89頁
明治二十九年第一二三三號
明治二十九年十二月二十一日宣告
◎判决要旨
告訴状ハ一人ノ作成スヘキ文書ナリ從テ刑事訴訟法第二十條ノ規定ニ則ルヲ要セス
(參照)官吏公吏ニ非サル者ノ作ルヘキ書類ニハ本人自ラ署名捺印ス可シ若シ署名捺印スルコト能ハサルトキハ官吏公吏ノ面前ニ於テ作リタル塲合ヲ除ク外立會人代署シ其事由ヲ記載ス可シ(刑事訴訟法第二十條一項)

第一審 千葉地方裁判所八日市塲支部
第二審 東京控訴院

公訴私訴上告人 小高熊次郎 
辯護人 板倉中
私訴被上告人 今關喜三郎

右熊次郎私書僞造行使詐欺取財被告事件ニ付明治二十九年十一月十六日東京控訴院ニ於テ言渡シタル判决ニ服セス被告ヨリ上告ヲ爲シタルニ依リ刑事訴訟法第二百八十三條ノ定式ヲ履行シ辯護士板倉中ノ辯論檢事岩野新平ノ意見ヲ聽キ判决スル左ノ如シ

公訴上告要旨ハ被告ハ平山權右衛門ノ實印ヲ押捺シタル證書ニ依リ且ツ充分ノ價値アル地所ノ抵當ヲ以テ今關喜三郎ヨリ借入ヲ爲シタルモノナレハ喜三郎ニ於テ損害ヲ受クヘキ筈ナシ
然ルニ原院カ被告ノ所爲ヲ詐欺取財ニ問擬シタルハ違法ナリト云フニ在レトモ
◎原判决ニ認メタル事實ニ據レハ被告ハ權右衛門ノ次男辨四郎ト共謀シ權右衛門名義ノ借用證書ヲ僞造シテ喜三郎ヨリ借用ノ名義ヲ以テ干鰯ヲ詐取シタルモノナレハ原院カ被告ノ所爲ヲ詐欺取財ニ問擬シタルハ相當ニシテ上告論旨ハ其理由ナシ』

辯護士ノ擴張論旨第一點ハ原判决法律適用ノ部ニ刑法第二百十二條ノ挿入アルモ其挿入ハ刑事訴訟法第二十一條ノ規定ニ違背スルヲ以テ無効ナリ然レハ刑法第二百十二條ノ明示ナキモノナリ即本件ニ付必要ナル同條ノ明示ヲ缺キタルハ法律ノ理由ヲ明示セサル違法ノ裁判ナリト云フニ在レトモ
◎原判决ヲ査閲スルニ右ノ挿入ニハ認印アリ而シテ刑事訴訟法ノ規定ニ據レハ文字ノ挿入ハ之ニ認印スルヲ以テ足レリトシ其挿入ノ字數ヲ掲クルヲ要セサルヲ以テ原判决ハ同法第二十一條ノ規定ニ違背シタル不法アルコトナシ』

第二點ハ平山權右衛門ノ告訴状ハ同人ノ自署ニアラス又自署スル能ハサル旨ノ附記ナキヲ以テ刑事訴訟法第二十條第二項ノ規定ニ違背シタル不法ノ書面ナルニ原院カ之ヲ採テ斷罪ノ證據ト爲シタルハ違法ナリト云フニ在レトモ
◎告訴状ノ如キ一私人ノ書面ハ刑事訴訟法第二十條ノ規定ニ從テ作製スルヲ要セサルモノナルニ依リ右ノ告訴状ハ法律上當然無効ノモノト爲スヘカラス然レハ原院カ之ヲ眞正ノ告訴状ト認メテ斷罪ノ證據ト爲シタルハ證據取捨ノ職權ニ屬スルヲ以テ其當否ヲ論爭シテ上告ノ理由ト爲スヲ得サルモノトス』

私訴上告ノ要旨ハ被上告人ハ平山權右衛門ヨリ抵當ヲ取リ登記ヲ經テ承諾上貸渡シタルモノナレハ上告人ニ係リ請求スヘキモノニアラサルニ原院カ上告人ニ辨濟ヲ命シタルハ不法ナリト云フニ在リテ◎其論旨ハ結局公訴上告ノ要旨ト同一ニ歸スルヲ以テ上告ノ理由ナキコトハ前説明ニ依リ了解スヘシ

右ノ理由ナルヲ以テ刑事訴訟法第二百八十五條ニ依リ本件上告ハ之ヲ棄却ス
私訴上告訴訟費用ハ上告人之ヲ負擔スヘシ
明治二十九年十二月二十一日大審院第二刑事部公廷ニ於テ檢事岩野新平立會宣告ス

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安政4年5月上旬・大原幽学刑事裁判

2025年05月15日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年5月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政4年5月1日(朔)(1857年)
#五郎兵衛の日記
五つ半時、神田明神の手前にある刀屋へ、傘を持って幽学先生をお迎えに行った。
その後、小生は又左衛門殿と共に小網町の東屋へ、腰物を売りに行ったり、宜平殿と共に山口へ炭を買いに行ったりした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学が刀屋に行ったり、五郎兵衛が腰物を売ったりしているのは、幽学の副業(刀等の転売)のためでしょう。江戸の滞在費稼ぎの為に始めたようですが、武士身分である幽学先生の興味関心が高いことも動機の一つかと思われます。
━━━
〈詳訳〉
・五つ半時、神田明神の手前にある刀屋へ、傘を持って幽学先生をお迎えに行く。久保彦という者は親孝行な者だなと先生がおっしゃった。
・四つ時、平右衛門殿のもとへ、国元の惣右衛門殿から飛脚で手紙が届いた。
・四つ時、佐左衛門殿が来た。
・九つ半時、又左衛門殿と二人で小網町の東屋へ、腰物(刀など)を売りに行き、七つ時に帰った。
・宜平殿と二人で山口へ炭を買いに行った。
・夕方、良左衛門君が外川屋(公事宿)へ行った。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年5月2日(1857年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君から話しあり。
「幽学先生への裁きの行方を見届けられるのは我々江戸に出た者だけだ。判決の内容次第では故郷に戻れない。どのような結果でも覚悟を決め、一人でも志を貫くべきだ。たとえ死が待とうとも、志を継ぐ者が現れるはず。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の道友の良左衛門の言葉からは、かなり厳しい判決も予想していたことが分かります。本文では長部村に建設した教導所の取壊しや幽学先生の武士身分の否定への言及もあり、間近な判決への危機感が顕著です。死をも恐れず志を継ごうとする力強い決意に溢れています。
━━━
〈詳訳〉
・早朝、蓮屋(公事宿)へ行き、国元へ送る手紙を持参した。五つ時に戻ったが、手紙に誤りがあるのがわかったため、別の紙に書き直して再び頼みに行った。
・磯部様の書物を拝借して帰った。
・五つ半時、佐左衛門殿が来た。
・昼から大先生が買い物に出かけられた。
・又左衛門殿、宜平殿、源兵衛殿、七郎兵衛殿、善右衛門殿の五人は十軒店(現日本橋室町)の方へ遊びに行った。
・茂兵衛殿が来た。
・良左衛門君の話し。
「幽学先生の今後を見届けるのは、出府した(江戸に出た)者だけができることである。一件落着(判決)により、改心楼を取壊し、大小(刀)の取上げということになれば、どの面下げて国元へ帰ることができようか。先日、江戸に出立する際に皆に暇乞い(別れの挨拶)をして出府した。江戸にいる者は、どのような落着(判決)になろうとも、一心決定して腹の備えをし、村の者一人でもその覚悟を貫くべきである。死が待っていたとしても、その志を継ぐ者が必ずでる。そのような覚悟をして過ごしてもらいたい」とのこと。
・このような重要な話をしているところへ長左衛門殿が来た。店が深川にあるとのことで相談しに来たが、幽学先生が留守のため、明日改めて来ることになって帰った。
・七つ時、茂兵衛殿は自分の宿へ戻った。
・夕方、蓮屋へ書物を返しに行った。平右衛門殿が留守だったので、座敷に置いて帰った。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年5月3日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は国元の若者たちに手紙をお送りになった。
・良祐殿に、幽学先生は「子孫が分け前の計算ばかりすれば、その家は滅びる。どこの家でもそうだった」とお話しになられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生も厳しい判決が出るであろうことはを予想しています。しかし、直接口には出しません。自分の運命がそう長いものではないと思い、若者たちに遺言代わりに言葉を残そうと務めているようです。
━━━
〈詳訳〉
・五つ半時(午前9時頃)、大先生がお出かけになる。
・宜平殿、源兵衛殿、傳蔵殿の三人は両国の回向院の開帳に参詣。九つ時に戻り。
・良左衛門君と善右衛門殿は日本橋方面へ字引を買いに行き、九つ時に戻り。
・俊斎、九つ半時に来る。同時刻に平右衛門殿も来る。
・八つ時、幸左衛門殿と啓一郎殿が来る。
・幽学先生は国元の若者たちに手紙をお送りになった。
・茂兵衛殿が来て、七つ時に帰った。
・平太郎殿が来て、夕方に帰った。
・良祐殿が来られたときに、幽学先生は次のようにお話しになられた。
「子孫の間で分け前の計算ばかりするようになれば、その家は滅びるものだ。世間を見れば分かることだが、どこでも同じことが言える。」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年5月4日(1857年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿から話しあり。
「昨日奉行所から役人が田安様へ来て御沙汰があり、「流れた」とのこと。本日、田安様のお役所に伺ってこの話しを聞いてきた。今後一同が呼び出される可能性もあるが、どうなるかは分からない」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本件では田安家の領地(荒海村;現成田市)が絡んでいるので、奉行所も田安家には配慮せざるを得ず、水面下で調整が行われているようです。「流れた」という意味が、はっきりしませんが、調整がうまくいっておらず、先行きが不透明な状況なようです。
━━━
〈詳訳〉
・幸左衛門殿と啓一郎殿が逗留。幽学先生、四つ半時ご教諭。内容は聞き書きに記す。
・幽学先生、四つ半時過ぎに買い物に出かけられ、八つ時にお戻りになった。
・啓一郎殿と傳藏殿は麹町へ薬を買いに行った。幸左衛門殿は人形町から本町へ買い物に出た。
・七つ時、平右衛門殿が来た。
「昨日奉行所から役人が田安様へ来て御沙汰があり、「流れた」とのこと。本日、田安様のお役所に伺ってこの話しを聞いてきた。今後一同が呼び出される可能性もあるが、どうなるかは分からない」
・幽学先生から「名乗り」のことにつき次の話しがあった。
「そもそも名乗りというものは、旧家がその家名を大切にし、失わないようにするために決意して守り抜くものだ。その覚悟もなく、守ることもできないのであれば、名乗る必要はない。筋はこの通りであるから、守るべきなら守ったほうがよいだろう。」
このように荒海村(現成田市荒海)に飛脚で手紙を送った。

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安政4年5月5日(1857年)
#五郎兵衛の日記
俊斎子と茂兵衛殿が明日出立するので、夜、幽学先生は次のように話された。
「親と子の生き方には様々な形がある。表裏のある親もいれば、子のために患難辛苦しながら永続の法(道)を築く者もいる。俊斎子が今あるのも親の努力のおかげだ。

あとは結局は当人の考え方次第。先を見据えて行動すれば不可能はない。
今となっては、予からいうことは何もない。あとは皆それぞれ自分で考えることだ。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
道友(弟子)が江戸を去るにあたっての幽学先生の言葉。厳しい判決を念頭に置いての別れの言葉のようにも読めます。
親の姿勢が子の人生に大きく影響を与えることを示しつつも、最終的には本人の考え方次第で未来が決まる、最後は自分で考えなさい、そんなメッセージです。

━━━
〈詳訳〉
・四つ時、佐左衛門殿来る。
・俊斎老は昼から良左衛門君と小石川へ行く。
・又左衛門殿と宜平殿は本町の大橋で茶を買い、日本橋まで行く。
・十日市場の老人来る。
・又右衛門殿と啓一郎殿逗留。
・俊斎子と茂兵衛殿は明日出立するので、夜、幽学先生は次のように話された。
「ほかに何も言ってやることはないが、この世には、こういう親を持つ者もいれば、こういう子を持つ者もいる。
表と裏のある考え方で生きている親もいる。一方で、子のために患難辛苦しながら永続の法(道)を築く者もいる。永続の法は、ただそれを守りさえすれば、生涯安心して暮らせというものである。
俊斎子がここまで無事にいられるのも、親がしっかり守られたからだ。
あとは結局は当人の考え方次第。先を見通して守っていくことができるのであれば、できないことはない。
今となっては、予からいうことは何もない。あとは皆それぞれ自分で考えることだ。」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年5月6日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・早朝、幸左衛門殿、啓一郎殿、俊斎子、茂兵衛殿の四人が江戸を出立。
・又左衛門殿、善右衛門殿、源兵衛殿、傳蔵殿、正太郎殿の五人は、五つ半時に浅草をはじめとして、各所を見物。九つ半時に戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
浅草見物。平凡な記事に見えますが、初期を除いて江戸滞在費を捻出することに全力を挙げていた中期以降は金のかかる見物は行われていませんでした。ここにきての物見遊山は、やはり江戸はこれで最後=落着(判決)近しと皆意識しているからでしょう。
━━━
〈詳訳〉
・早朝、幸左衛門殿、啓一郎殿、俊斎子、茂兵衛殿の四人が出立。
・幽学先生は五つ半時にお出かけになり、八つ時に戻り。
・又左衛門殿、善右衛門殿、源兵衛殿、傳蔵殿、正太郎殿の五人は、五つ半時に浅草をはじめとして、各所を見物。九つ半時に戻り。
・四つ時、佐左衛門殿が来て、夕方帰った。
・良左衛門君は泉屋へ行き、平太郎殿と打合せ。
・夕方、小生蓮屋へ参る。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
安政4年5月7日(1857年)
#五郎兵衛の日記
良左衛門君、宜平殿、佐左衛門殿と小生の四人で浅草観音を参詣。小雨が降ってきたため、急ぎ両国方面へ向かい、五色で昼食。回向院へ行き、芝山仁王の開扉を見物し、諸方を巡り、八つ時に戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日の五郎兵衛は、浅草・両国の物見遊山ツアーに参加。浅草観音や回向院といった現代でも名だたる寺院を参観しています。「五色」は幽学組の人気料理屋だったのでしょう。五郎兵衛は4年前にも五色で昼食をとっています(嘉永6年2月15日条)。
━━━
〈詳訳〉
・五つ半時、佐左衛門殿が来る。本多様の御配領知の杭がなくなり、また御門のくぐりが締まっていると言っていたので、源兵衛殿と善右衛門殿が確認しに行ったが、そのような事実はなかった。
・幽学先生は小石川の高松様方へお出かけになり、八つ時にお戻り。
・良左衛門君、宜平殿、佐左衛門殿と小生の四人で浅草観音を参詣。小雨が降ってきたため、急ぎ両国方面へ向かい、五色で昼食。回向院へ行き、芝山仁王の開扉を見物し、諸方を巡り、八つ時に戻り。
・平右衛門殿、四つ時に来る。八つ半時に帰る。平太郎殿も同じ時刻に帰る。


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安政4年5月8日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は少し病気がちのためお休み。
・八つ時、佐左衛門殿と他の者たちが宿に集まり、帰村の願書を訴所へ提出。「追って沙汰する」との仰せあり。七つ時に戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
帰村の願書を訴所へ提出。裁判の為に2年ぶりに呼出しを受けたのは先月のことなので、この時機に帰村願いをするのは随分と早いのですが、5月4日条の田安家への奉行所の回答を踏まえてのことなのでしょう。奉行所との駆引きの一貫と思われます。
━━━
〈詳訳〉
・幽学先生は少し病気がちのためお休み。
・又左衛門殿、善右衛門殿、源兵衛殿、傳藏殿、正太郎殿、七郎兵衛殿の六人は、五つ半時に四ツ谷方面へお出かけ。あいにく御成(将軍の外出)にあい、三河町で待機。道が空いてから向かって九つ時過に戻り。
・平右衛門殿、四つ時に来て、湯島の「りき」方へ行く。
・八つ時、佐左衛門殿と他の者たちが宿に集まり、帰村の願書を訴所へ提出。「追って沙汰する」との仰せあり。七つ時に戻り。
・八つ時、(高松)力蔵様が来られ銭湯に行く。
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安政4年5月9日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半時、良左衛門君、宜平殿、小生の三人で、麹町一丁目の裏馬場にある小笠原家の調練を見物。調練は九ツ半時に終わった。田安御門の外にある九段坂で皆が集まり、しばらく談笑。それから道を変えて御門を越え、大国屋で味噌団子を食べた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・武家の調練の見学。武家の調練は誰でも見学できたのでしょうか。五郎兵衛はこの調練の様子を詳細に記録しており、本日の日記はかなりの長文です。
・調練見学の後は九段坂で談笑。締めに味噌団子とは、食いしん坊五郎兵衛の面目躍如です。

━━━
〈詳訳〉
・五ツ半時、良左衛門君、宜平殿、小生の三人で、麹町一丁目の裏馬場にある小笠原家の調練を見物。
・東西に源氏と平家に分かれ、東方は赤い旗を掲げ、各自の背中に印をつけ、馬に乗った37人が並ぶ。西方は浅葱色の旗を掲げた37人が同じように支度。
・一番貝(最初の合図の貝)が吹かれ、しばらくして二番貝が吹かれると、両軍の者たちはそれぞれ印のある笠をかぶり、陣羽織を着て馬上で静かに並んだ。互いに鞭を上げ、引き返し、また一人ずつ馬で進み、扇を開いて掲げては戻るという所作を繰り返した。両軍の各37人は馬を静かに歩かせ、一巡して元の位置に戻ると、
両軍ともに貝や鐘、太鼓を勢いよく鳴らした。
・最初に先立が采配を振り、弓を持った十人が陣形を定めた。次に槍を持つ者十二人が先立の下知でのもと陣形を定めた。大将は五本の旗印で登場し、采配を持った者の右に八人ずつが附添場に進んだ。
・両軍ともに貝を吹き、太鼓を打つと、互いに先立の馬を駆けさせ、枕のような物に網をつけて馬を締めて駆け回らせた。それを後方から弓で射ることがしばらく続いた。その後、貝や太鼓の音が鳴ると、両軍は槍を持ってしばらく戦った。
・次に互いに大将を囲んで、五人または三人ずつ馬を走らせ、追ったり追われたりしながら戦った。わずかな隙を狙い、両軍ともに大将を討ち取ろうと必死である。
・平家方は逃げてばかりで、源氏方の勝利と見えた。そのとき平家の大将は先頭に立ち、一騎で敵陣に突入し、駆け回った末、馬を跳ばして逃げ去った。源氏方は次々と馬を駆けて追いかけた。平家の大将はただ一騎で馬を飛ばして駆け去った。後ろから源氏が追いかけてきて、平家の大将は敵に囲まれ、危うくなったが、その中を飛鳥の如く逃げ去った。
・すると、源氏の大将が先馬で追いかけてきた。それを四天王の一人と名乗る者が横切りに馬を駆けさせ、大将のそばに寄ると、素早く一太刀浴びせた。その瞬間、味方の歓声が上がり、敵方の者たちは馬を走らせて逃げ去った。
源氏方は十七人が残ったが、戦場の中央に陣形を整え、静かに隊列を組んで引き揚げていった。実に勇壮である。
・調練は九ツ半時に終わった。田安御門の外にある九段坂で皆が集まり、しばらく談笑。それから道を変えて御門を越え、大国屋で味噌団子を食べた。
・八つ時に宿に戻り、髪を剃り整えていたところ、幽学先生が戻られた。しばらくして、十日市場村の幸蔵殿が同村の者二人と来た。
・晩に、弁慶橋通りの夜市へ、良左衛門君、又左衛門殿、正太郎殿、宜平殿、七郎右衛門殿、傳蔵殿と共に遊びに出かけた。
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安政4年5月10日(1857年)
#五郎兵衛の日記
晩に、幽学先生、良左衛門、又左衛門、宜平、正太郎、源兵衛、傳藏、善右衛門、小生で薬研堀の夜市へ遊びに行き、五つ時に戻る。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日五郎兵衛は幽学先生や道友らと薬研堀の夜市へ。同所の夜市を訪れたのは4年ぶり(嘉永6年11月28日条)。厳しい現実に向き合いつつも、今を楽しむ幽学と道友たちです。

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〈詳訳〉
・正太郎殿、善右衛門殿、源兵衛殿、傳藏殿、七郎兵衛殿の五人で麹町へ行き、騎馬稽古を見物。八つ時に戻り。
・九つ時に長左衛門が来る。
・幽学先生は四つ時にお出かけになり、八つ時に戻られた。
・晩に、幽学先生、良左衛門、又左衛門、宜平、正太郎、源兵衛、傳藏、善右衛門、小生で薬研堀の夜市へ遊びに行き、五つ時に戻る。

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文政13年5月上旬・色川三中「家事志」

2025年05月12日 | 色川三中
文政13年5月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年5月朔日(1日)(1830年)快晴
居合の児玉様へ
・十四匁 中らん引 一つ
・百二十四文 船賃 払い
合計 金一分と十五文
以上を茂吉に持っていかせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日は支払いのメモらしき記事のみ。本年2月に行商の途中で居合(鹿嶋市居合)の児玉氏宅に泊まっていますが(2月6日条)、そのことと関係があるのか、それとも別の支払いなのか詳細は不明です。
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文政13年5月2日(1830年)晴
今年の3月から上方では「おかげ参り」が大流行という。宝永年間や明和七年(1770年・寅年)にも流行し、60年後の今年の寅年にはより盛んに。多くの施しがあり、本年は大規模な参詣となっている。大坂の金三郎が書状で教えてくれた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「おかげ参り」の記事。ニュースソースは大坂の金三郎からの手紙です。文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていたことが分かります。そのため、本当は明和八年であった前回の流行が、明和七年の寅年に流行したと伝えられてしまっています。


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〈詳訳&その他の記事〉
・夜五つ半時、隠居(祖父)が江戸から帰ってきた。暑気に当たったか、藤代(取手市藤代)の手前で吐いてしまったという。柏屋の世話で、籠で帰宅。賃金一分を支払った。
江戸での石渡との話しを詳しく聞く。先日、御上様(土浦藩)から御公儀(幕府)役人と打合せをしたので、石渡にも改めて問い合わせがあるだろうとのこと。下総の与市が江戸にいるのも、今後話しを進めるうえでは都合がよい。
・「れい」方から短冊を数十枚送ってきた
・伊勢で大火があり、旧社は焼失したものの、新宮は焼け残り、奇瑞であると伝えられている。
今年の三月から、「おかげ参り」と呼ばれる参詣が上方(関西)方面で大いに流行している。宝永年間(1704~1711年)にも流行し、その後67年が経った 明和七年(1770年・寅年) にも大流行。60年が過ぎた 今年の寅年も、前回以上に流行しているようだ。
多くの施しや支援のため、非常に大規模なものとなっている。興味深い話しもあるが、詳細は大坂の金三郎殿の書状にあるとおりなので、ここでは略す。


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文政13年5月3日(1830年)
三中先生、本日は休筆です(5日再開)。
#色川三中 #家事志


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文政13年5月4日(1830年)
三中先生、本日は休筆です(明日再開)。
#色川三中 #家事志

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文政13年5月5日(1830年)雨
肴を用意し、酒を飲んだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
忙しいのか最近は日記も休みがち。酒と肴を楽しんで鋭気を養ったのでしょうか。

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文政13年5月6日(1830年)
三中先生、本日は休筆です(明日再開)。
#色川三中 #家事志
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文政13年5月7日(1830年) 雨
田植え。簀子橋から水を汲みいれた。出水もほぼ落ち着いた様子。まだ田植えしていないもところも見られる。
今年は慣れていない者が植えたので、あちこちで苗が不足した。
利兵衛殿(叔父)の田では、苗不足で困っていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
田植えの記事。今年は非熟練者が植えた為、苗の配分が不味く、苗不足が起こってしまっています。
簀子(すのこ)橋は、慶長18(1613)年、土浦城と水戸街道の整備に伴い架けられた橋のことで、色川家の近隣の橋です。
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文政13年5月8日(1830年)雨
「大さか」の田植えをした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日に引き続き田植えの記事。「大さか」といわれる場所に田植えをしていますが、どこのことかまでは分かりかねます。色川家は高持百姓ですので、あちこちに田を持っており、田植えの差配も三中の仕事の一つです。
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文政13年5月9日(1830年)雨
・虫掛(土浦市虫掛)の田植えをした。
・夜五つ頃、江戸の石渡庄助殿のもとから急飛脚到来。
「すぐに隠居(三中の祖父)に江戸に来てもらいたい」と書かれていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
急飛脚が夜に到着。江戸の石渡殿との折衝はかなりバタバタしております。ご隠居(三中の祖父)は1週間前に江戸から戻ってきたばかりで、また江戸に来るようにとの要請があるとは、かなり重要な用件のようです。

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文政13年5月10日(1830年)大雨
昨夜石渡庄助から「江戸に来てほしい」との要請が急飛脚で届いた。隠居の指示で私が江戸に行くことになり、本日急いで支度。江戸へ行くのは16年ぶりである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は一時期江戸で奉公しており、土浦に戻ってきてから16年もの年月が経過しています(なお、三中は今年数えで30歳)。隠居は1週間前に江戸から戻ってきたばかりですし、帰りは体調不良で籠を利用せざるを得なかったので、三中に行くように頼んだのでしょう。

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〈詳訳&その他の記事〉
・梅雨で一日も晴れ間なし。8日連続で雨。それ以前からも雨の日多し。本日も大雨。
・昨夜、石渡庄助殿から飛脚が到着し、再び「隠居(三中の祖父)とともにすぐに江戸に来てほしい」との要請があった。与市の方からも書状が届いた。
隠居から私が江戸に行くようにとの指示を受け、本日急いで支度。江戸は16年ぶりである。


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安政4年4月下旬・大原幽学刑事裁判

2025年05月08日 | 大原幽学の刑事裁判
安政4年4月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政4年4月21日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ半時、長左衛門殿とおけい殿が焼き団子持参で来訪。幽学先生は、商売や生活の仕方について話され、「天の陽気が万物を育て恵むのと同様に、自然の理に従って成り立っており、それに従えば生活も良くなる」と仰っていた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
江戸在住の長左衛門らが、幽学先生を訪れてきました。幽学の話しの内容は平凡ですが、人々を引き付けるものをもっていたのでしょう。
---
〈その他の記事〉
・源兵衛殿と二人で山口に炭を買いに行った。
・正太郎殿と源兵衛殿は、昌平橋向かいの内田屋へ煙草を取り替えに行った。
・佐左衛門殿と差添が四ツ時に来た。諸徳寺村の差添も来た。
・八ツ時善右衛門殿が到着。新四郎殿も蓮屋に到着。
・岩元町の泉屋には薬を買いに三度足を運び、岸部屋へは右附子を買いに行った。

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安政4年4月22日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生、四ツ時に外出し、脇差を2本購入した(八ツ時お帰り)。
・八ツ時に米込村の名主が来た。文平、平右衛門殿、惣治郎殿、佐左衛門殿の来訪あり(七ツ半帰り)。
・源兵衛殿と宜平殿は深川仲町の長左衛門殿のもとを訪れた(九ツ戻り)。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生が脇差2本を購入しています。
江戸に長期滞在を余儀なくされ、収入を得ようと以前は刀剣売買ビジネス(転売ヤー)を幽学先生はしておりましたが、まだ続けていたようです。
---
〈詳訳〉
・早朝、本多元俊医師宛に手紙を書いた。幽学先生も元俊医師宛に医道についての教えを説かれた。
・幽学先生、四ツ時に外出し、脇差を2本購入した(八ツ時お帰り)。
・八ツ時、米込村の名主がお出でになった。
・文平、平右衛門殿、惣治郎殿も来た(七ツ半帰り)。佐左衛門殿も同様。
・源兵衛殿と宜平殿は深川仲町の長左衛門殿のもとを訪れた(九ツ戻り)。
・昼から髪結い。

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安政4年4月23日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は七ツ時に藤元屋へお出かけになられた。
・佐左衛門殿の呼出しの御沙汰が届かなかったことで、邑楽屋(公事宿)の下代が奉行所の腰掛まで行き、なかなか帰ってこなかった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は藤元屋へ。以前転売ヤー活動をしていたときに頻繁に通っていた店なので(嘉永7年5月1日、2日条)、昨日仕入れた脇差2本を早速藤元屋に持っていったのでしょう。

---
〈詳訳〉
・五ツ時、諸徳寺村の差添の来訪あり。
佐左衛門殿の呼出しの御沙汰が届かなかったことで、邑楽屋(公事宿)の下代が奉行所の腰掛まで行き、なかなか帰ってこなかった。
・五ツ時、蓮屋にも様子を聞きに行く。
・善右衛門殿は荒海村の惣治郎殿のもとへ相談に行き、七ツ時に戻り。
・茂兵衛からウドンを奢ってもらった。
・幽学先生は七ツ時に藤元屋へお出かけになられた。

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安政4年4月24日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は芝方面へお出かけになり、脇差を一本購入された(八ツ時お戻り)。
・夕方、俊斎子(元俊医師)が来て公事宿に泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は本日は芝へお出かけになり、脇差を一本購入。以前の転売ヤー活動を思い出すしたのか、連日の動きです。一方で元俊医師が江戸にやってきました。病気を口実に(実は仮病)、嘉永6年6月24日に帰村を認められ、以後江戸には来ていませんでした。

---
〈詳訳〉
・五ツ半時、又左衛門殿と宜平殿が、高松様方に挨拶に出かけた。二人は牛込の神谷様宅にも行った(九ツ半時に戻り)。
・幽学先生は芝方面へお出かけになり、脇差を一本購入された(八ツ時お戻り)。
・茂兵衛殿は本日も逗留。
・七ツ半時、平右衛門殿と惣治郎殿が御役所へ向かった。江戸見物してから帰村する相談をしたとのこと(夕方に戻り)。
・夕方、俊斎子(元俊医師)が来て公事宿に泊まり。

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安政4年4月25日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は四ツ半時に深川仲町の長左衛門殿を訪れた。貸金10両未返済の相談を受け、「商売人に貸せば回収困難も普通」と諭し諦めるよう助言。商売替えの相談も行う。
・八ツ時に幽学先生と風呂へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、今日は転売ヤー活動はお休み。深川仲町(江東区富岡一丁目)に住む長左衛門を訪れ、人生相談をしています。長左衛門は以前は深川仲町ではなかったはずなので、いつの間にか引っ越していたようです。
---
〈詳訳〉
・四ツ時、平太郎殿来る。
・幽学先生は髪結いし、四ツ半時に四人で一緒に深川仲町の長左衛門殿のもとへお出かけになった(八ツ時お帰り)。その際、長左衛門殿が店子に10両ほど貸し付けた件について相談があった。返済がされていないため、貸金番所に勤める等とも言っていたが、「商売人に貸したら取り立てられないことも珍しくないものだ」との幽学先生の教えにより貸金については諦め、商売替えについて相談していた。
・八ツ時、幽学先生と一緒に風呂に出かけた。
・善右衛門殿と正太郎殿は蓮屋(公事宿)へ行った(八ツ半時戻り)。
・佐左衛門殿と差添人が来た(八ツ半時お帰り)。
・茂兵衛殿は九ツ時に戻り。
・俊斎子(元俊医師)は本日逗留。碁を打って過ごしていた。

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安政4年4月26日(1857年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生が朝食をとっていると、七軒町の者が迎えに来た。先生は急な用事でお出かけになった(四ツ半時お戻り)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
七軒町(中央区日本橋茅場町三丁目)の者が朝からやってきて幽学先生はお出かけ。ゆっくり朝食をとることもできません。幽学が江戸にいるのは刑事裁判を受けるためで、被告人の立場なのですが、そのことは幽学先生の人気とは関係ないようです。
---
〈詳訳〉
・幽学先生が朝食をとっていると、七軒町の者が迎えに来た。先生は急な用事でお出かけになった(四ツ半時お戻り)。
・宝田村の善兵衛殿が来られた(九ツ時お帰り)。
・手紙を書き、庄内屋へ行って送ってくれるよう頼んだ。
・八ツ時、茂兵衛殿が来た。又左衛門殿と碁盤と碁石を買ってきて宿に泊まっていった。


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安政4年4月27日(1857年)
#五郎兵衛の日記
五ツ時に魚屋と紙屋へ買い物に行った。
(来訪者)
・佐左衛門殿と差添:四ツ半時に来訪(夕方帰り)。
・平右衛門殿:九ツ半時に来訪(暮方帰り)。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
裁判が長い中断を経ていよいよ開始されそうであるということからか、関係者が頻繁に出入りしています。事件が起こってからだいぶ経っていますから、どういう風に供述するのか念入りに打合せをしているのでしょう。

---
〈詳訳〉
・五ツ時に魚屋と紙屋へ買い物に行った。
・佐左衛門殿と差添が四ツ半時に来訪(夕方帰り)。
・平右衛門殿も九ツ半時に来訪(暮方帰り)。
・茂兵衛殿は九ツ半時に戻り髪結い。

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安政4年4月28日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・五ツ時、源兵衛殿と一緒に小石川の高松様のもとへ碁盤を取りに行った(四ツ時帰り)。
・幽学先生は九ツ半時にお出かけになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「高松様」は幕府の役人(小人目付)高松彦七郎。幽学先生の支援者の一人ですが、その関係はなかなか複雑です(下記記事参照)。
幽学一門では碁が流行っており、まだ続く江戸滞在の楽しみのために碁盤を借りてきたのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/914b2183c790e68e77180ca326101d87

---
〈詳訳〉
・五ツ時、源兵衛殿と一緒に小石川の高松様のもとへ碁盤を取りに行った(四ツ時帰り)。
・同じ頃に平右衛門殿来られる(夕方帰り)。
・俊斎子(元俊医師)は八ツ時に外出。
・幽学先生は九ツ半時にお出かけになられた。
・夜、米八殿来られる(四ツ半時帰り)。

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安政4年4月29日(1857年)
#五郎兵衛の日記
・八ツ時、平右衛門殿と長左衛門殿が借家を探しに出かけた(七ツ時帰り)。
・宿の勘定を済ませ、一同で月末の勘定を行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生と一門が江戸に到着して2週間ほど経ちましたが、奉行所から呼び出される気配がないため、以前と同様借家住まいを画策しているようです(この方が経費削減になるため)。安政4年の4月は今日が最後の日であり、会計の締めもしています。
---
〈詳訳〉
・四ツ時、佐左衛門殿来られる。
・平太郎殿と長左衛門殿が煮豆を持ってきて、昼食をともにとった。
・八ツ時、平右衛門殿と長左衛門殿が借家を探しに出かけた(七ツ時帰り)。
・正太郎殿と七郎兵衛殿は地頭所に挨拶に行った(九ツ半時帰り)。
・茂兵衛殿来られる(八ツ時帰り)。
・宿の勘定を済ませ、一同で月末の勘定を行った。

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安政4年4月に30日は存在しませんので(同月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 

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文政13年4月下旬・色川三中「家事志」

2025年05月05日 | 色川三中
文政13年4月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年4月21日(1830年)晴
治助と共に中村屋へ。源三郎には、都合により依頼は受けられないと知らせることとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中村屋の次男・源三郎は身持ちが悪く、瘡毒(梅毒)にかかってしまい、身の落ち着き先を探していました。三中は検討を約していましたが(4月20日条)、色川家では協力できないという結論に至ったようです。その理由については明らかにされていないので、家の中でいろいろな意見があったことが窺われます。

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文政13年4月22日(1830年)雨
夜、源三郎が来た。筑波の方に頼めそうなところがあるとのこと。薬を所望したので、症状を
詳しく聞いた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中村屋の次男・源三郎の続報。どうやら落ち着き先は筑波(現つくば市筑波)になりそうです。三中が詳しく症状を聞いているので、三中の本心としては様々な協力をしたかったのかもしれません。



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文政13年4月23日(1830年)曇
源三郎へ煎じ薬と粉薬を持っていかせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中村屋の次男・源三郎の続報。源三郎は瘡毒(梅毒)にかかっています。昨日、三中に薬を所望していましたので、本日処方して源三郎のもとに薬を届けています。
一連の源三郎の記事は今日で一区切りです。

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文政13年4月24日(1830年)晴
夜に、隣の主人と伊勢屋の後見人である左兵衛殿が来た。従前から問題になっている悪水入樋(排水施設)について話す。先日、町方惣代が隣主人にそろそろ話しをまとめたいといってきたという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の件というのは、悪水入樋の修理費用をどう分担するかという問題です。修理工事に約60両要するのに、藩は14両しか出さないので、残りを土浦町人と虫掛村でどう分担するかが問題となっています。入樋の破損は3年前(文政10年)に起こっており、そろそろ解決したいと町方惣代は考えているようです。

━━━
〈その他の記事〉
・茂吉と喜兵衛を鹿島の担当とした。本日担当となってからの初出張に出かけた。
・夜に、隣の主人と伊勢屋の後見人である左兵衛殿が来た。一昨年から問題になっている悪水入樋(排水施設)について話す。先日、町方惣代が隣主人にそろそろ話しをまとめたいといってきたという。
本日、町方惣代を訪ねたが、話しは進展せず。
また、百姓代の大町の色川庄右衛門も訪ねるも、これまた話しは進まず。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政13年4月25日(1830年)晴
三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政13年4月26日(1830年)雨
入江氏、木原氏、安村氏を招き、七ツ時前から夜四ツ時まで酒や料理を振る舞った。興に乗り、楽しいときを過ごした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入江氏、木原氏とは風流を解する仲。昨年は東城寺駒ヶ滝の瀑布に行き(文政12年4月19日条)、今年の3月には桜を見に行っています(3月24日条)。今日は七ツ時(午後4時ごろ)前から夜四ツ時(午後10時ごろ)まで飲食しており、楽しい会でした。
━━━
〈その他の記事〉
・今夕、江戸の石渡庄助殿から飛脚で書状が届いた。隠居(祖父)に対し、急ぎ江戸へ上るようにとの内容であった。御公儀(幕府)からのお尋ねごとがあり、詳細が分からないためとのこと。

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文政13年4月27日(1830年) 雨
雨なり。
昨日、江戸の石渡庄助殿から飛脚で書状が届き、隠居(祖父)に対し、急ぎ江戸へ上るようにとのこと。隠居(祖父)の江戸出発は明日28日の予定。飛脚にはその旨の書状を持たせ、今朝送り出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
石渡庄助とは、川口(土浦市川口)の醤油蔵の入口に《御本丸・西御丸御用》という掛け札をかける件で話しをしていましたから、(閏3月23日条等)、その関係での用事でしょう。至急隠居に江戸に来てもらいたいというのですから、かなり重要かつ急を要する事情がありそうです。

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文政13年4月28日(1830年)
・朝、籠で隠居(祖父)が江戸に出発。供は嘉兵衛。籠は、かがや松二郎組。
・大同類聚の校合を始めた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の祖父が江戸に出発。祖父の年齢はわかりませんが、三中は数え30歳なので、相当高齢です。そのためか籠で江戸に出発。同行者の嘉兵衛は色川家の従業員です。

━━━
〈その他の記事〉
・谷田部から藤太郎(妻の甥)が土浦に来て、
中城町の沼尻石牛医師のところにいる。頼みごとがあるとのことなので、事情を聞いた。
彼は一人扶持で、毎月野菜代として金二朱ずつだが、それ以外には特に何もないないとのこと。
←沼尻石牛は沼尻墨僊の養父です。
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文政13年4月29日(1830年)晴
一昨日の雨で堰場が危険な状態になった。堰場の今年の担当は田宿町であり、町内から人足を出すようにとの要請があった。にわかに町内は騒がしくなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦は霞ヶ浦のほとりにあるので、水害の多い町です。そのため水害を防止する体制が整えられているようです。とはいえ、この時代は人力に頼るしかありません。三中の住む田宿町が堰場の担当であり、人足を出さなければならないことで町は騒がしくなっています。

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〈詳訳〉
・東光寺の新しい住職の赴任の件。先日、半紙一状を持参したが(閏3月3日条)、今日は銭二百文を送っておいた。



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文政13年4月30日(1830年)晦日 雨
・また大雨。しかし、銭亀川からの水は引いた。
・谷原の植え初め。苗245把が不足し大いに困る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日はまたも大雨。土浦の町の脇を流れる銭亀川からの水の状況が気になりますが、なぜか水は引いてきており、水害の危険は遠のいたようです。
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〈その他の記事〉
・喜兵衛に金一両を貸した(証文あり)。


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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第15回講義

2025年05月01日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第15回講義
第15回講義(明治18年6月11日)

5月1日ブログアップ
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第一節 被告人の死去
被告人の死去は、法律上公訴消滅の原因です。

(被告人の死去が公訴消滅となる理由)
刑罰の目的は、犯罪者に苦痛を与えてこれを懲戒し、再び悪事を働かせないようにすること、また、他の者が悪事をしようとするのを恐れ、思いとどまらせることで、法律を犯させないようにすることにあります。

犯罪者がすでに死亡している場合は、将来、再び悪事を働く心配がないので、苦痛を与えて懲戒する必要がありません。仮にその必要があっても、死者の体に苦痛を与えるのは、人がよくするものではありません。

犯罪者であったという理由で死後に刑罰を加えるとすれば、その効果は、人々を戒めるどころか、刑罰そのものを残酷なものとし、人々に嫌悪感を抱かせることになってしまいます。
以上よの理由から、被告人の死亡は公訴を消滅させるものとされています。

被告人の死が公訴消滅となる理由について次のように説く者もいます。
「被告人が死亡した後に公訴を起こす場合、その被告人は、いわゆる『死人に口なし』の状態となり、弁護の手段を持たないため、不当に罪を着せられる恐れがある。」

しかし、このような考え方は、公訴消滅の主な理由ではなく、一つの補助的な理由にすぎないと考えます。
なぜなら、「被告人には弁護の手段がない」という一点だけでは、貴重な公訴を消滅させる十分な理由とはいえないからです。

被告人の死去が公訴消滅の理由となるのは、「犯罪者を懲戒すること」や「他の者がそれに倣うのを防ぐこと」といった刑罰の目的が失われるためと考えるべきです。
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(他国の例)
死者に対して刑罰を施さないという原則は、古くローマ時代から行われています。

ローマで死者に刑罰を科したのは、以下の二つの例外的場合だけでした。
一つは「神聖を汚した場合」、もう一つは「罪を犯し、処刑を免れるために自殺した場合」です。
それ以外のケースでは、死者に対して刑罰を加えることはありませんでした。

フランスにおいても、古くから死者に刑罰を加えないことは原則でした。
ただし国王に対する罪に関しては、非常に苛酷な刑罰を科し、死体を野ざらしにすることもありました。
これは、刑罰の原則が明確に確立されていなかった時代に行われたものであり、今日の視点から見れば、野蛮な悪習と言わざるを得ません。
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(被告人の死去の法的効果)
被告人の死去は、社会における刑罰権を消滅させるだけのものなのか、それとも、犯人が行った悪事そのものも消滅させるべきなのか。これは、実際の運用においても非常に重要な問題である。

犯人の死去とともに悪事も消滅させるべきだとするならば、被告人が死亡した後は、その犯罪事実を公に語ることができなくなります。

例えば、二人で共謀して強盗を行った者がいたとしましょう。そのうちの一人が死去し、もう一人に対して公訴が提起された場合、裁判官がこの者を裁くにあたっては、二人以上で罪を犯した場合には刑罰を一等加重しなければなりません。この加重を行うには、判決文の中で共犯の事実を明確に示し、「某所において、某人と共に強盗を行った」と明記する必要があります。
しかし、もし「被告人の死去によって悪事も消滅すべきである」とするならば、判決文の中で死亡した者の名前を挙げることができなくなってしまいます。これは非常に不都合です。

よって、社会における刑罰権が消滅するのみであり、被告人が生前に行った悪事の痕跡まで消し去るべきではないと考えます。
いかに法律の力をもってしても、現実の社会に起こった事実を消し去ることはできないからです。もし無理にそれを消し去ろうとするならば、人々の記憶からその事実を奪い去らなければならないでしょうが、そのようなことはできないでしょう。

したがって、先ほどの例では、判決文の中「共に〇〇を行った」と記すことには、何の問題もないといえます。
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(被告人の死去の法的効果についての補足)
死者の悪事を公に語ることができなくなると、社会の公益を損ない、真実の歴史を記すことができなくなってしまいます。
また、一個人の私的な利益を害することにもなります。民事訴訟の原告が、死者の悪事を公にすることができないとすると、それによって事実を証明する手段を失い、最終的に損害賠償の請求すらできなくなるといった事態が起こりうるからです。

この点、次のような反論も考えられます。
「共犯者の一人が死亡した場合に、その死者の悪事を公にすることを許せば、その者が冤罪だったとしても、弁明することができず、結果として死者の名誉を著しく損なうことになる」

しかし、死者の名誉を損なうことがあったとしても、生者の権利は必ず保護されなければならないのです。

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(被告人が死去した場合の手続き)
被告人が死去した場合、それが起訴前であっても、裁判の言い渡し後であっても、上訴中であっても、あるいは上訴期限内であっても、いずれの場合でも公訴は消滅します。このような場合には、刑事裁判上の手続きはすべて無効となります。

では、一度起訴された後、審理中または上訴中に被告人が死亡した場合には、どのような手続きが妥当でしょうか。

この場合、裁判所は判決を言い渡すことなく、ただちにその事件を放棄するべきです。

もっとも、民事訴訟の原告がいる場合には、治罪法の規則に従い、適切な処分を行わなければなりません。

フランスでも、被告人が死亡した場合には何らの判決も言い渡さないことが原則です。
上訴中に被告人が死亡した場合には、大審院(最高裁判所)は単にその書類を原裁判所に還付するのみであり、判決を言い渡さないのが通例です。

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(没収対象の物件について)
被告人が死亡した場合、身体刑はもちろんのこと、罰金であっても科すことはできません。

しかし、差し押さえられた没収対象の物件については議論があります。

阿片やその吸引器具のように、法律上の応禁物(禁止されている物品)を所持することは刑法によって罰せられる行為です。

では、これらの物品を所有していた被告人が死亡した場合、それらを没収して良いでしょうか。また、例えば、偽造証書、偽造印章、偽造貨幣などがすでに差し押さえられた後に被告人が死亡した場合、これらをどのようにすべきでしょうか。

被告人の死去によって、主刑が消滅すればその付加刑も消滅すべきです。没収は付加刑の一種ですので、没収は言い渡すことはできないとも考えられます。
しかし、これらの物品を被告人の遺族に引き渡し、没収しないとすれば、社会的な利害の観点からは新たな害悪を生じる危険があることは否定できず、社会の利益になるとは言えません。
場合によっては、これらの物品の引き渡しによって、死者の遺族が不正な利益を得ることになる可能性もあります。

フランスの法学者オルトラン氏は「このような場合には、検察官の請求によって没収を言い渡すべきである」と述べています。

様々な考えがありますが、私はこの説を支持します。所有者のいない物品は政府の所有に帰するという原則がありますので、それを国庫に没収することは、決して不当ではありません。
その物品が応禁物(法律で禁止されているもの)でない場合で、被害者が明確であるときは、それを被害者に引き渡すべきであることは、言うまでもありません。
しかし、被害者が誰であるかが明らかでない場合は、これを拒む正当な所有者がいないのでふから、行政的な処分によってその物品を国庫に納めることは、不適当とは言えません。


━━━━
(共犯者への措置)
被告人の死去により消滅するのは、あくまでその本人に対する公訴のみです。共犯者に対しては一切影響を及ぼしません。したがって、正犯者が死亡したとしても、従犯者に対して公訴を提起することには何の支障もありません。

フランスでは、この原則に一つの例外を設けており、それは姦罪に関するものです。姦婦が死亡した場合には訴えを受理しません。この措置は、おそらく死者の名誉を保護することを目的としたものでしょう。

以上で、被告人の死去に関する説明を終えます。次いで、第二節へ移ります。

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第二節 確定裁判

確定裁判の効力は極めて強大です。法格言にも、「裁判によって確定したものは、その効力が真実の事実よりも強い」とあります。したがって、一度裁判を経て確定した以上、これを軽々しく覆すことは許されません。

有名な 「一事不再理」(同じ事件について二度裁判を行わない)という原則は、各国の文化の発展度合いによって適用範囲に差があるとはいえ、ほぼ全世界で実施されています。
このことからも分かるように、確定裁判に関する制度が国家にとって必要不可欠であることは、改めて詳しく説明するまでもありません。

この講義では、刑事確定裁判の効力について、次の三つの項目に分けて説明します。

第1. 確定裁判の性質
第2. 確定裁判を成立させるための要件
第3. 公訴権を阻止する裁判の種類

この順序に従って説明します。
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第一 確定裁判の性質

「一事不再理」 の原則は、その起源を古代ローマ法に発し、次第に世界各国へ広まり、今日に至っています。

(ローマにおける確定裁判の原則)
ユルビアン氏の説によれば、ローマにおいては確定裁判の原則に大きな制限が加えられていた といいます。その例として、次のような場合が挙げられています。

1. 刑事原告人と被告人が結託し、証拠を隠滅して無罪判決を得たが、その事実が後に発覚した場合。
2. 以前、ある刑事原告人が訴えを起こし判決が下されたが、判決後に重大な利害関係を持つ被害者が、自分以外の者が訴えていたことを知らず、新たに訴えを起こした場合。

このように、ローマ法においては確定裁判の原則に一定の例外が設けられていました。

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(「一事不再理」 の原則の重要性)
「一事不再理」 の原則は、法律が十分に発展していない国においては、しばしば他の要因によって妨げられることがありますが、この原則は 天理に基づき、社会構成の基礎を成すものです。
なぜなら、人民の権利と幸福を守る上で、確定裁判に勝るものはないからです。この原則が存在しなければ、人々は 一日たりとも安心して生活することができません。今日、自分の権利が認められたとしても、明日にはそれが覆されるかもしれず、また、今日勝訴しても、翌日には敗訴となる可能性があるからです。

確定裁判の効力がたびたび覆されてしまうと、人々は裁判を信頼しなくなり、最終的には裁判にとって最も重要な尊厳と威信を失うことになります。

この点から考えても、確定裁判の原則は、民事・刑事を問わず、社会に不可欠です。英仏両国がこの原則を憲法に明記しているのも、このような理由によります。
各国の憲法において、この原則が主に刑事裁判に関するものとして規定されているのは、刑事事件において特にその必要性が高いためです。

わが国においても、「治罪法」第九条および第二百六十一条において、この原則が明示されています。


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