安政2年3月中旬及び下旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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(前回から今回の記事までの経緯)
大原幽学及び一門の関係者は江戸で裁判中。とはいえ、審理で奉行所に行ったのはたった数回で、ひたすら呼出しを待つ日々です。そんな中奉行所は、幽学一門に年末年始の一時帰村を認めておりました。
年が明けて安政2年。日記の著者五郎兵衛は居村(長沼村;現成田市長沼)を2月14日に出立、江戸に到着しましたが、すぐに母親が急病となったとの知らせが届きました。2月17日に長沼村に戻るため江戸をたった五郎兵衛は、一ヶ月母親の看病をし、3月18日に江戸に向けて長沼村を出立します。今月の日記は、この3月18日から始まります。
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安政2年3月18日(1855年)
#五郎兵衛の日記
四ツ時に長沼村(現成田市長沼)を出立。龍角寺(現栄町龍角寺)を経由し、七郎右衛門殿と合流。七ツ過ぎに白井(現白井市)に着き、藤屋泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛の母親が大病となり、五郎兵衛は江戸から急遽長沼村に戻りました。この間(2月14にちあ日記の記事はありません。五郎兵衛は母親の病気がどうなったのかは不明ですが、五郎兵衛は再び江戸を目指して歩きます。本日は白井(現白井市)まで歩を進めています。
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安政2年3月19日(1855年)
#五郎兵衛の日記
五ツ時に白井を出立。市川で昼食。八ツ時松枝町の借家に着。
七ツ時邑楽屋(公事宿)の奥方が来て、幽学先生に病気のことや多くの客が来て手が回らず困っていることなどを相談。借家の2階を片付けて、信州からの客二人を移して泊めた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛、江戸に到着しました。いつもは行徳(現市川市行徳)経由なのですが、今回は市川(現市川市市川)を経由して江戸に入っています。幽学先生は江戸でも悩み相談をしており、世話になっている公事宿の奥方まで相談に来ています。
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〈詳訳〉
・五ツ時に白井を出立。市川(現市川市)で昼食。八ツ時松枝町の借家に到着。幽学先生、良左衛門君、伊兵衛父、平右衛門殿、又左衛門殿、彦太郎殿、幸八郎殿がおられた。
・幽学先生は、夜に若者二人に、「自分にとっては特に面目を損なうことは生涯の恥であり、非常に恐ろしいことだ」と繰り返しお話しをされた。また、「先々を見通し、今のことはともかくとしても、先のことのために心得ておくように」と仰っていた。
・七ッ時、邑楽屋(公事宿)の奥方が来て、幽学先生に、病気のことや、多くの客が来て手が回らず困っていることなどを相談。借家の2階を片付けて、信州からの客二人を移して泊めた。
・夕方に、又左衛門殿が番町へ帰られた。
・四ツ谷の件について幽学先生にご相談。仲屋敷に隠居して出稼ぎをするのがよいと相談で決まったが、親類の気を悪くさせないように急いでことをしないようにとも決めた。
・龍角寺の件については、味方ができるまでは、一人で性学に勤め、家の者にもその通りにするよう伝えた。また、道友の世話もあまり手間をかけずにと決まった。
・稲荷下の件については、いずれ決める事として、会合場に引っ越して、手習いの師匠をするようにと決まった。
・「はる」の縁談について、相手から正式な申し入れが来るつもりでいたが、思いもよらず、離縁状やさまざまな道具まで持参されてきた。詫びを入れてきたのは筋が違うと、幽学先生はご立腹で叱責を受け、面目次第もないことである。
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安政2年3月20日(1855年)
#五郎兵衛の日記
夕飯まで松枝町の借家で過ごす。暮方に番町の御屋敷へ。治助殿が夜番を勤めていた。又左衛門(幸左衛門)殿が起きてきて話しをした。常八殿がかなり酔って戻ってきて、長居されたので寝るのが遅くなった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は昨年も勤めていた藪家でまた働くようです。途中で退職した者を雇いいれるとは、武家屋敷もかなりの人手不足のようです。道友でもある幸左衛門は、名前を変えたのでしょうか、又左衛門と記載されています。明日からまた五郎兵衛の武家屋敷奉公日記が始まります。
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〈詳訳〉
・五ツ時、彦太郎殿と幸八郎殿が帰られた。
・四ツ時、平太郎殿が来られ、その後泉屋へ行かれた。
・八ツ時、桜井村のお医者様が来られた。暮方にお帰りになった。
・八ツ時、長左衛門殿が来られた。伊兵衛父と碁打ち。
・銀座の井上先生へ手紙を持っていく。
・夕飯を食べてから、暮方に番町へ。治助殿が夜番を勤めていた。又左衛門殿が起きてきて話しをした。常八殿がかなり酔って戻ってきて、長居されたので、寝るのが遅くなった。
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安政2年3月21日(1855年)
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、朝食後に御家中衆に挨拶廻り。
五ツに時触れ。
飯田町で風呂に入り、田中様の御子息に差し上げる為に餅菓子50文分買う。
松村様より「義公黄門仁徳録」の写し作成を依頼される。夕方御弓場始末、夜番、九ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨夜御屋敷に着いたため、朝に御家中衆に挨拶廻り。お世話になっている田中様の子のお土産に餅菓子を買っています。食いしん坊五郎兵衛のことですから、どこで美味い物が買えるかはよく分かっているのでしょう。松村様からは本の写し作成の依頼も来ました。愛されキャラ五郎兵衛の本領発揮です。
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〈詳訳〉
早朝掃除、朝食後に御家中衆に挨拶廻り。
五ツに時触れ。
松村樣、半助様、藤助殿、助蔵殿に各百文を土産として渡す。昼、治助殿と髪結い。
麹町の大崎方へ治助殿と行く。
治助殿はその後松枝町の借家に行った。
小生は飯田町で風呂に入る。田中様の御子息に差し上げる為に餅菓子50文分買う。
松村様より「義公黄門仁徳録」の写し作成を依頼される。夕方御弓場始末、夜番、九ツまで勤める。
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安政2年3月22日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
・早朝掃除。
・お殿様が本所安芸守様(若年寄)をご訪問(御本供)。五ツ時御出発、四ツ時御帰館。
・五ツ時、治助殿戻る。四ツ半時、又左衛門殿戻る。
・小生は写し物。夜番は九ツから勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛の奉公先の御殿様(藪家)。本日は若年寄の本所安芸守(本庄道貫)を訪問。同人は天保12年(1841年)〜安政5年(1858年)まで若年寄を務めています。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E9%81%93%E8%B2%AB
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〈詳訳〉
早朝掃除。お殿様、若年寄の本所安芸守様をご訪問(御本供)。五ツ時御出発、四ツ時御帰館。
五ツ時に治助殿が、四ツ半時に又左衛門殿が御屋敷に戻った。
小生は写し物。夜番は九ツから勤める。
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安政2年3月23日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
・早朝掃除。五ツ時御屋敷を出て、松枝町の借家に向かう。途中両替町で下村油等を買う。
・幽学先生「予がなにかいうと、先生は騒がしいと思う者がいるが、穏やかに話し合いながら過ごすべきだと述べているのだ」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛のお買い物。両替町で買った「下村油」は、本両替町の下村山城という店の化粧油。当時の有名なブランドだったようです。五郎兵衛もミーハーなところがあります。下村油は2年前にも購入しています(嘉永6年2月15日条)。
本両替町は、現中央区日本橋本石町一・二丁目、日銀のある周辺。
https://codh.rois.ac.jp/edomi/shopping/entity/351
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〈詳訳〉
早朝掃除。
お殿様、大橋向うへお出かけになられた(御半供)。
小生は五ツ時御屋敷を出て、両替町へ行き、下 村油、元結を買う。王子に御成りがあり、小川町で待たされる。四ツ時に松枝町の借家に到着。
幽学先生のお言葉。
「予がなにかいうと、先生は騒がしいと思う者がいる。良左衛門も平右衛門の言葉を気にするあまり、神経を使い、体にも痛みが出てきたから、もっと穏やかにしてもらいたい、といっている。
皆でよく話し合い、ただ仲良くして過ごすことだ。自分の考えを出しすぎないように心がけなさい。
手前どもは頼りにしているから、将来の恥になるようなことや、国元に聞こえの悪くなるようなことは見過ごすわけにはいかぬから、注意をするのだ。それなのに、「難しい」だの「やかましい」などというようでは困る。
以前湊川の借家でのことを繰り返してほしくない。今のところは一つにまとまってうまくいっているが、少しずつ悪い兆しが見えてきている。ここにいる者はこのことをよく分かってもらいたい。」
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安政2年3月24日(1855年)添番
#五郎兵衛の日記
・朝五ツ時に松枝町の借家を出発し、御屋敷に戻る。
・本日、お殿様は昌平坂へお出かけ。
・大野様と田中様の米を治助殿と交代で搗く。夕食後堀田の湯に行き、暮れ方に屋敷に戻る。夜番を九ツ時まで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日は幽学先生のいる借家に泊まった五郎兵衛ですが、朝早く奉公先に戻り、仕事(添番)。今日はご家中衆2名の米搗きの仕事がメインでした。夜番も勤めるため、風呂は夕方に行くことが多いようですね。
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〈詳訳〉
・朝早く帰るつもりであったが、良左衛門君が豆腐などを夕方に買っておいてくれて、都合がよろしくなく、朝食を食べているときに鍋の置き場所が悪く鉄瓶に差し支えであって、幽学先生に片づけをさせてしまうしくじりをしてしまった。昨日、幽学先生が注意したそばからこの失態である。
・朝五ツ時に松枝町の借家を出発し、御屋敷に戻る。
・本日、お殿様は昌平坂へお出かけ。
・大野様の米を治助殿と交代で搗く。九ツ時に終わる。昼からは田中様の米搗き、七ツ時に終わる。夕食を取ってから堀田の湯に行き、暮れ方に屋敷に戻る。夜番を九ツ時まで勤める。
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安政2年3月25日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
・早朝掃除。お殿様は五ツ時に田安の馬場へお出かけになられるので、飯田町で買物し、弁当を用意。その後、写し物。
・五ツ時に又左衛門殿は松枝町の借家へ行き、夜に屋敷に戻った。
・小生、夜番を九ツ時から翌朝まで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
お殿様のお出かけのため、弁当作り。飯田町で買い物という記事が頻繁にでてくるので、近くで買い物できるのが飯田町なのでしょう。飯田町は今の飯田橋。飯田橋に変わったのは1966年のことなので、それほど昔のことではありません。
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安政2年3月26日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
・早朝掃除。お殿様は五ツ時に御集会へ御出発(御半供)。
・治助殿と髪結いし、その後写し物。
・飯田町の揚場湯に入る。
・又左衛門殿は五ツ時に松枝町へ行き、九ツ半時に戻られた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日は書籍の写しの仕事をしています。ご家中衆から頼まれた「義公黄門仁徳録」の写しの作成でしょうか(3月20日条)。「義公黄門仁徳録」は今の水戸黄門の漫遊のもとになった書で、江戸中期ころ成立。
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安政2年3月27日(1855年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。写し物。昼前には書き終わる。夜番を九ツ迄勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日はこれといったこともなく平穏に過ぎたようです。
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安政2年3月28日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
松枝町の借家に幽学一門集まる。十日市場の親父(林伊兵衛)が日本橋で伊勢エビの活きたものを一匹百文で九匹買ってきた。幽学先生も調理。上品で珍品。おけい殿に雑用を頼み、一同楽しんで過ごした。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日は月に一度の幽学一門集合の日です。裁判のための待機ですが、五郎兵衛のようにバイトで江戸の滞在費用を稼いでいるので、毎月末に集まろうと決めているのです。この日は少しだけ贅沢するのが慣例で、今日は伊勢海老の料理。幽学先生も調理に加わっています。
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〈詳訳〉
・早朝掃除。
・本日、松枝町の借家で幽学一門が集まるので、日の出とともに出発。
・中橋の大田屋喜兵衛という本屋に行って紙を受取り、松枝町に五ツ過に着。
・一同揃ったところで、十日市場の御親父(林伊兵衛)が日本橋に魚を買いに行き、伊勢エビの活きたものを一匹百文で九匹ばかり買ってきた。平太郎殿と幽学先生が調理してもらい、実に上品で珍しい料理ができた。おけい殿に雑用を頼み、一同楽しんで過ごした。
・昼過ぎに万徳(公事宿)に袴代を持参。万徳は昨年末の火事の後、松永町の仮宅にいたが、そこから引っ越して、筋違い広小路本郷代地という横町に住んでいる。
・七つ時(午後4時頃)に良祐殿が訪ねてきた。
・天神前は蓮屋(公事宿)に滞在しており、一両日のうちに村へ帰る予定とのこと。善右衛門殿の家内宛に手紙を書いて平右衛門殿に託した。
・幕方に番町の御屋敷に戻り、夜番を九つ時から翌朝六つ時まで勤めた。
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安政2年3月29日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝掃除。お殿様は聖堂に五ツ時に御出発(御半供)され、七ツ半時御帰館。
又左衛門殿と治助殿は五ツ時に御屋敷に戻り。
小生はこの日写し物、夜番を九ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日の仕事は早朝の掃除以外は記載がなく、書籍の写し作成もできるほどの暇があったようです。今日もお殿様はお出かけし、ご家中衆もお供をするため、屋敷での奉公人の仕事はその分暇になるのでしょう。
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安政2年3月に30日は存在しませんので(同月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判
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#五郎兵衛の日記 はお休みです。
安政2年3月に31日は存在しません(旧暦には31日は存在しません)。
#大原幽学刑事裁判
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