文政13年閏3月下旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語訳したものです。
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文政13年閏3月21日(1830年)晴
一昨日に石渡庄助殿よりの書面につき、夜に親類一同で話し合い。その後、入江氏(名主)のもとに報告にいくが不在。
#色川三中 #家事志
(コメント)
石渡庄助氏と何やら重要な交渉をしていることは一昨日の日記でも記されているのですが、どのような内容なのかは不明です。親類一同で意思統一し、名主にも話しを通しておく必要があるとは、かなりの重要さがあるようです。
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文政13年閏3月22日(1830年)雨
入江氏(名主)に内々に事情を申し伝え、内意をうかがうようお願いした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日の記事の「内々に事情を申し伝え、内意をうかがうよう」だけでは何のことやら分かりかねますが、昨日、石渡庄助氏との重要な交渉事について入江氏(名主)と話しをしておきたかったということの続きと思われます。よほど慎重に事を運ばなければならないようです。
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文政13年閏3月23日(1830年)曇
今日、川口(土浦市川口)の醤油蔵の入口に《御本丸・西御丸御用》という掛け札を掲げ、井戸の元にも立て札を設置した。御用造り桶の置き場については親類一同で見立てた結果、大変良い場所と評価された。
#色川三中 #家事志
(コメント)
このところ、石渡庄助氏との重要な交渉事の記事が続いていましたが、醤油蔵の入口に《御本丸・西御丸御用》という掛け札をかける件だったようです。誰かに見られてはいけないと思い、日記にも何のことかはっきりと書かなかったのでしょう。三中の慎重な性格が窺えます。
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〈その他の記事〉
・茂吉と嘉兵衛が鹿島へ向けて行商に出立。
・入江氏(名主)宅に赴く。39年前の名主への届けの写し、御提灯・御船印の写し、また今回の蔵への掛け札と御柄符の写しを持参した。
入江氏はそれをすぐに藩の小頭へ持っていかれた。
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文政13年閏3月24日(1830年)曇
印形を改めた。新しい印形は昨年町年寄となったときに彫らせておいたのだが、使用しないままとなっていた。今日より新しい印形を使用する。
#色川三中 #家事志
(コメント)
印鑑を今日から改めます。昨年町年寄となったときに使う予定でしたが、途中からやる気を無くしたので、使わずじまいでした。このタイミングでの改印は、醤油蔵の入口に《御本丸・西御丸御用》という掛け札をかけることが関係しています。三中の新たな物事へのチャレンジを感じさせます。
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〈その他の記事〉
・町奉行宛の書付(下記)を作成し、入江氏(名主)に提出した。大塚氏にも書付を提出することを伝えた。
・明日、飛脚(すや治右衛門)が土浦を出立するというので、大坂の堂島宛の書状を託した。
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乍恐以書奉順上候(恐れながら書面をもって申し上げます)
(朱書き)『この書付を差し出したところ、文体に若干の修正が必要となった。その旨朱筆で記す』
私どもは、江戸御膳所・御醤油の御用達である上総屋庄助方へ数十年間にわたり醤油を納めてきました。曾祖父の代の寛政4年(1792年)12月、御公儀様の御膳醤油を仰せ付けられ、この上ない栄誉に浴し、大変ありがたく存じております。それ以来、御用を誠心誠意務め、なお一層醤油の仕入れにおいては清浄第一を心がけてきました。特に運送つきましては、少しの疎略もないようとの厳重なご指導があり、上総屋庄助からもも、その点について何度も指示を受けました。
このたび醤油造り蔵の表通り入口に御膳所御用の掛札を掲げることにいたしました。さらに、江戸への往来の際には御柄符を用いるよう庄助方より指示がありました。このため、掛札および御柄符を使用したいと考えます。
この下書きを同封いたしますので、ご覧いただき、ご許可くださいますようお願い申し上げます。
田宿町 桂助
文政13寅年閏3月
町奉行所御中
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文政13年閏3月25日(1830年)晴
体調が回復したので、明後日から行商に出かける。夜に川口(土浦市川口)へ出かけ、隠居(祖父)にそのことを話し、川口からの帰途に入江氏(名主)にも話した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は毎年1月及び7月に売掛金の回収と営業を兼ねて行商に出るのですが、本年は体調不良のため、行商に出られませんでした。代わりにいった従業員の売掛金回収状況は悪かったので(1月19日条)、行商に出かけるタイミングを図っていたようです。
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〈その他の記事〉
・谷田部の勝右衛門の養子が土浦に来た。
・昨年の六月六日の夜のこと、川口(土浦市川口)の本蔵の家に雷が落ち、屋根の柱等が削り取られたりした。粉々に砕け散ったのは鬼瓦だけだったが、その中に付けられた「蔦の定紋」は砕けずに残った。
また、御膳用の醤油の仕入れ桶を置く場所は、奇しくも雷が落ちた場所であった。この場所は柱が五本ほど削られた跡があるのだ。
今宵になってそのことを話題に出すうちに、大いに不思議な思いを抱いた。
昨年の雷が落ちたのを知った後、隠居(三中の祖父)は、「雷は陰の気が溜まった場所で陽気が発されたものである。この場所に雷が落ちたのは、天が何らかの吉事を示しておられる前兆であろう」と。
私はその言葉をすぐには信じることができなかった。
しかし、今になって考えてみると、39年前、初めて御用醤油の命が下った年に釜屋から出火し、釜屋だけが焼けたのであった。これもまた天が示されたことなのだろうと、その当時から人々が語り伝えていたのを、私も幼いころから耳にしていた。
その後、38年の間は多少停滞して開運には至らなかったものの、今回、公の大きな出来事として再び天の示しがあったに違いない。このようなこともあるものだ、と改めて感じ入った。
このようなことがあるのも、よくよく考えてみると、以前の火災が起きた時とその前兆が非常によく似ている。
昨年に雷が落ち、今年このような状況となったのでは、天が前もって変化の兆しを知らせてくれたということであろう。ああ、慎まなければならないではないか。恐れ敬わなければならないではないか。このことをよく考えるならば、これから先の出来事を軽んじるべきではないであろう。
・五頭玄仲老に箱入りの書籍目録を譲ってくれるように伝えた。
・有川の山本氏が異木は、蘇木に間違いないのではないかと言ってきた。その他さまざまな興味深い話が書状には書いてあった。
・辻益順老に一人扶持の加増があり、御歩行格を仰せ付けられましたので、祝いとして酒一升をお贈りした。
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文政13年閏3月26日(1830年)晴
先日まで使用していた印形は、本日、証文箪笥に仕舞い納めた。父が亡くなってからこの方使っていたもの。
#色川三中 #家事志
(コメント)
先日印鑑を新しいものにしましたので(閏3月24日条)、古い印鑑を証文箪笥に仕舞い納めます。父親を亡くして家業を継ぎ、使ってきた思い出の印鑑です。
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〈その他の記事〉
・竹中七兵衛と中村勘兵衛両名の証文を証文箪笥にしまった。
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文政13年閏3月27日(1830年)
朝、東在(東ルート)の行商に庄蔵をお伴として出立した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は今年の年始に体調を崩して行商に行くことができずにいましたが、ついに行商(営業活動)に出立。4月11日に土浦に帰着していますが、行商中の日記の記載がないため、4月10日までは日記はお休みです。4月11日条からの再開となります。
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〈その他の記事〉
本日、以下の書付を提出した。
(書付)
乍恐以書付奉願上候(恐れながら書面にて願い上げます)
私どもは、江戸の御膳所(幕府の台所)に 醤油御用達 である上総屋庄助方へ数十年醤油を納めて参りました。曽祖父の代のとき、寛政四年十二月 に御公儀様から御膳所御醤油の仰せを受けましことは、大変な名誉であり、ありがたく存じております。
さて、その当時、御膳所専用の 旗印 や 提灯 を使用して運送すべきとの指示を受けましたが、なるべく 質素を心がけたい という考えから、これまで使用せずに納品を続けてまいりました。しかし、今回、別に一札を差し出しましたとおり、醤油の仕入れはより一層の清浄を第一とし、特に運送に関しては一切の不備がないよう厳重にする べしとのお達しがあったと、庄助殿より念入りに申し聞かされました。
さらに、醤油の醸造蔵の正面入口に 「御膳所御用」 の懸札(掲示)を掲げ、江戸へ運ぶ際には 「御柄符」(幕府公認の証)を使用するように との指示が庄助殿よりありました。
別紙に差し上げます雛形(見本)については、寛政年間より使用してきたものですが、これを 今後も四枚新たに使用したい と願い出る次第です。
何卒、この願いをお聞き届けいただけますよう、お願い申し上げます。 以上
文政十三寅年閏三月 田宿町桂助
町御奉行所様
名主年寄奥印
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