安政2年4月中旬・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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安政2年4月11日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、写し物。昼過ぎに松枝町の借家へ。明日奉行所に帰村願いを出すことになった。本郷五丁目の万徳(公事宿)を訪ね、主人と打合せ。
幽学先生と伝蔵殿は晩に両国へ行き、良左衛門君と御親父は碁を打った。四ツ前に就寝。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
年末年始の帰村が2月15日までだったので、江戸に来て2ヶ月も経たないのですが、また帰村願いを出すという話しになっています。五郎兵衛は帰村の意思決定には関与してないので、なぜこのタイミングでの帰村願いなのかは日記ではわかりません。
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〈詳訳〉
朝掃除、写し物。治助殿は五ツころ松枝町から戻ってきた。昨日米込村の伝蔵殿が来て、明日12日に帰村願いを出すことになったとのこと。九ツころ松枝町へ行き、幽学先生、平右衛門殿と小生で泉之湯へ。かけ湯を汲む際に盲目の方が来られたが、気を遣わずにいたら、幽学先生から叱られ、松枝町へ戻ったときに「のろい」と言われて、道友一同大笑い。
八ツころ本郷五丁目の万徳(公事宿)を訪ねたが、主人が留守のため一度戻り。夜に再び訪れ、主人と会って打合せをした。邑楽屋(公事宿)には翌朝伺う相談をして松枝町の借家に戻った。
蓮屋(公事宿)には、平右衛門殿が八ツ過に行き、帰村願のため、差添人を頼んできた。
幽学先生と伝蔵殿は晩に両国へ行き、良左衛門君と御親父は碁を打った。四ツ前に就寝。
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安政2年4月12日(1855年)
#五郎兵衛の日記
昼過ぎ御奉行所の腰掛へ一同出頭。幽学先生は病気と称し欠席。帰村願を提出。奉行所は「おって呼出す」とのご指示。折角なので日本橋で鰯を買い、松枝町の借家で料理し食す。一同は借家に泊だが、小生は番町に帰り、夜番を九ツまで勤めた
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村願いを提出するには関係者(呼出しを受けている者+差添)が出頭しなければなりませんが、幽学先生は病気と称して欠席。毎度毎度この手を使ってますが、奉行所からも咎められておらず、結構緩い(笑)。幽学先生だけ武士身分だからでしょうか⋯。
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〈詳訳〉
昨晩は松枝町の借家泊。朝飯を食べた後、良左衛門君は手代の米八殿のところへ行った。
平右衛門殿と平太郎殿が四ツころ来たので、九ツに昼食を取った後、御奉行所の腰掛へ出向いた。
出頭した者以下のとおり。
良左衛門君
差添人:治助殿
又左衛門殿
差添人:藪様御作事頼み
傳蔵殿
差添人:久左衛門当病
伊兵衛父
差添:藪様奉公人頼み
平右衛門殿
差添:蓮屋で頼み
五郎兵衛
差添:蓮屋で頼み
幽学先生は病気と称して欠席。蓮屋の主人と手代の米八殿が奉行所への帰村の願書を作成し、九ツ半ころ奉行所に提出。「おって呼出すので今日は帰ってよろしい」との指示。せっかくだから何か買って帰ろうということになり、又左衛門殿が日本橋で鰯を買ってきて、小生と治助殿で鰯料理を作り食べた。一同松枝町の借家に泊まり。小生は夕方番町の屋敷に帰り、夜番を九ツまで勤めた。
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安政2年4月13日(1855年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除。飯田町へ米を持参す。治助殿と髪結い。写し物。八ツころ大野様の米搗き。暮方までかかる。夜五ツ松枝町より平太郎殿来る。奉行所からお呼び出しあり、明日五ツ半に出頭とのこと。夜番を九ツから明六ツまで勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日帰村願書を奉行所に提出し、今日早くも奉行所から呼び出しがありました。随分早く結論が出ているので、何らかの根回しがあったのかもしれません。五郎兵衛は夜番を九ツから明六ツまで勤め、そのまま奉行所に出頭するつもりです。
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安政2年4月14日(1855年)
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、五ツ時松枝町へ向かい、四ツ時一同出発し、御奉行所の腰掛で待機。九ツ、訴所に呼込あり。奉行所は帰村を認め、幽学先生は村預けとなった。帰村の期限は決めず、出頭を求めるときは呼出しをするとのこと。
九ツ半時、一同で松枝町へ帰る。幽学先生から、「一同が揃うのは今日限り、この後は何事もないように祝い事をするのがよいだろう」とのお話しあり。平太郎殿が日本橋で鰯を買ってきて、借家で料理し、一同で大食、珍しく楽しみ、賑やかに祝い事を行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村が認められました。期限を切られていないのは異例です。幽学先生もホッとしたのか、いつもより優しいお言葉。鰯料理ではありますが、道友一同珍しく楽しみ、賑やかに祝っています。
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〈詳訳〉
早朝掃除、五ツ時松枝町へ向かい、四ツ時一同出発し、御奉行所の腰掛で待機。
幽学先生 当病(病気として欠席)
良左衛門君
差添:治助殿
又左衛門殿
差添:平太郎殿
傳蔵殿
差添:当病
伊兵衛父
差添:藪様御作事頼み
平右衛門殿
差添:蓮屋に頼み
五郎兵衛
差添:蓮屋に頼み
邑楽屋主人
蓮屋手代
四ツ半時に着届を提出。九ツ時、訴所に呼込があり一同まかり出る。その場で、銘々の名前が呼ばれ、「その方余儀なきことであるので、願いどおり帰村を許可する。今後、御差紙(役所からの正式な指示書)が届いた際には、一同が支障なく出頭するように」「幽学は帰村の上、村預けを申付る。良左衛門は請書を差出すように。その外一同は請書は不要である。」 とのご指示であった。
九ツ半時、一同で松枝町へ帰る。幽学先生から、「一同が揃うのは今日限り、この後は何事もないように祝い事をするのがよいだろう」とのお話しあり。平太郎殿が日本橋で鰯を買ってきて、借家で料理し、一同で大食、珍しく楽しみ賑やかに祝い事を行った。夕方、治助殿だけ番町のお屋敷へ戻った。
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安政2年4月15日(1855年)非番
#五郎兵衛の日記
淀藩の御上屋敷を訪れ、足達鏡蔵様に届書を渡す。「帰村の件については承知した。届書は拙者が預かる。御返翰はいずれ都合の良い時に渡す。」とのお言葉。本郷五丁目の代地にある万徳(公事宿)に行き、袴代を渡す。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村が決まりましたので、村に帰るのに必要な
御返翰の申請を藩の屋敷にしています(五郎兵衛の居村は淀藩領)。お世話になった公事宿の万徳には「袴代」と称してのお礼を渡すのも忘れてはいけません。万徳は元々は三河町(現内神田町)にありましたが、火事で焼失した為本郷で仮営業をしています。
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〈詳訳〉
朝に淀藩の御上屋敷の御勘定様と御留守居様へ提出するため、届書を二通作成。四つ時に御屋敷へ出向き、足達鏡蔵様からは、「帰村の件については承知した。届書は拙者が預かる。御返翰はいずれ都合の良い時に渡す。」とのお言葉。また、御留守居様にも届書を提出。
本郷五丁目の代地にある万徳(公事宿)に行き、袴代を渡す。松枝町へ戻る。平太郎殿と良左衛門君が居ったので、茶を飲み、その後番町のお屋敷へ引き上げた。
又左衛門殿は大崎方へ出向き、給金を受け取って帰ってこられた。
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〈奉行所宛の書面〉
乍恐以書附奉願上候(恐れながら書付をもってお願い申し上げます)
常州牛渡村の一件に関わる者たちが一同、謹んで申し上げます。
現在、この件については御吟味中でございます。しかしながら、私どもの近郷で、感染症が流行しており、家ごとにその病症に悩まされております。そのため、看病などに手が回らず、さらに農作業の重要な時期を迎えておりますが、自然と耕作が遅れ、結果として一同は困難極まりない状況に陥っております。
右の事情は御吟味中のことであり、まことに恐れ多いことではございますが、何卒特例としてお許しいただき、一同まず帰村させていただけますようお願い申し上げます。なお、後日に御用がございます際には速やかに出府いたし、少しも御差し支えのないようにいたします。
何卒、御慈悲をもって、一同を先に帰村させるようお取り計らいくださいますよう、心からお願い申し上げます。
卯四月十二日
一同連印
但し差添人共
御奉行所様
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〈淀藩の御勘定様宛書面〉
乍恐以書附御届奉申上候(恐れながら書付をもってお願い申し上げます)
下総国埴生郡長沼村の百姓、五郎兵衛ほか一名が謹んでお届け申し上げます。
私どもは本多加賀守様ご担当のもとで御吟味を受けておりますが、近郷では流行する熱病が広がり、家ごとに病に悩まされている状況でございます。そのため、看病に支障をきたし、加えて農事の大切な時期に耕作が遅れ、私ども一同は非常に難儀いたしております。このような事情から、一度帰村を願い出ましたところ、昨十四日にお呼び出しいただき、願い通り一旦帰村するようお許しいただきましたので、お届け申し上げます。
つきましては、明十六日に出立し帰村したいと存じますので、何卒ご慈悲を賜り、御返翰を下さいますようお願い申し上げます。以上
安政二卯年
四月十五日
御領分
下総国埴生郡長沼村
百姓 五郎兵衛
百姓代
差添人:甚左衛門
ご勘定様 御役所
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安政2年4月16日(1855年)
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御家中の方々に暇乞い。小石川に行き高松様にも暇乞い。その後、中通りの本屋で筆工代を受け取り、てりふり町で剃刀を購入。横山町では羽織を買う。松枝町の借家で夜遅くまで碁を打って過ごした。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学一門は明日江戸出立の予定。江戸には当分来ないということもあり、五郎兵衛もお買い物。バイト代(筆工代)が入ったので、剃刀や羽織を購入しています。夜遅くまで碁を打って過ごしており、解放感の感じられる記事になっています。
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〈詳訳〉
朝の掃除後、御家中の方々に暇乞い。五つ過ぎに全て挨拶を済ませたので、四つ時に松枝町へ向かう。幽学先生は買い物にお出かけされ、御親父は役所へ行っていて留守。
良左衛門君や平太郎殿と語らっていた。四つ半時に平右衛門殿と昼食を食べ、小石川の高松様にも暇乞い。その後、中通りの本屋で筆工代を受け取り、てりふり町で剃刀を購入。横山町では羽織を買って、七つ半時に松枝町の借家に戻る。
晩には長左衛門殿とおけい殿が来訪し、四つ時まで碁を打って過ごした。
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安政2年4月17日(1855年)
#五郎兵衛の日記
筒井屋で茶を買い、小川町の淀藩上屋敷へ。御返翰を受取る。松枝町に戻り荷物の準備。幽学先生は干物を買いにお出かけ。公事宿(蓮屋・邑楽屋)へ暇乞いし、九つ時に江戸出立。八幡から鎌ヶ谷まで馬。鎌ケ谷の鹿嶋屋で泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛、本日江戸を離れ帰村の途につきました。出立の前に淀藩上屋敷で御返翰を受取ったり、公事宿に挨拶に行ったりと忙しく動きますが、お買いものは欠かせません。筒井屋で茶を買う五郎兵衛、干物を求める幽学先生が書き記されています。本日は鎌ケ谷まで。定宿の鹿嶋屋さんに泊まりです。
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〈詳訳〉
五つ時、平太郎殿が番町の藪様の御奉公に出かけた。十日市場村の御親父様は明十八日に江戸を立つとのこと。
小石川へ参り、帰村についてご報告。その後、筒井屋で茶を買い、小川町の淀藩御上屋敷に足達様を訪ね、御返翰を受け取った。
帰宅後、荷物の準備と昼食の支度を行いました。その間、幽学先生は干物を買いにお出かけになっていた。
九つ前には昼食の御膳の準備を整え、九つ時に松枝町を出発し、公事宿(蓮屋・邑楽屋)へ暇乞いに回った。
その時、幽学先生から次のような話があった。
「帰村したら、まず自分の身を修めること。これが何よりも大切だ。善右衛門や太次兵衛たちも、出府の時にはその覚悟を持っていたに違いないが、帰村するとその心構えがなくなってしまった。だからこそ、その時にはしっかりとした覚悟を持つよう心得なければならない。また、身上(家計や財産)を持つには、仕事をきちんと分担し、毎晩家族で相談しながら進めるべきだ。必要な支出については、きちんと入用帳に記録をつけ、毎月晦日には厳密に調べ直さなければならない。おろそかにしていては出費がどんどん膨らんでしまう。それでは持続することはできない。だからこそ、家族でよく相談して計画を立てるのが大事だ。そして、出府中に得た経験を活かし、知識を深められるよう心がけるのがよい。」
このように話があった後、九つ時に江戸を出発し、八幡で鎌ヶ谷まで馬に乗って、夕方に鎌ケ谷の鹿嶋屋に到着し、泊まり。
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安政2年4月18日(1855年)
#五郎兵衛の日記
六ツ半時、鎌ケ谷を出立。四ツ時大森着。御役所へ御返翰を差上げ、角屋で昼食。七ツころ長沼村に帰宅。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
鎌ケ谷(現鎌ケ谷市)から大森(現印西市大森)を経て、長沼村(現成田市長沼)へ。大森は淀藩の御役所があったので、ここで江戸の上屋敷で発行された御返翰を渡さなければなりません。角屋で泊まったこともありますが(嘉永6年1月28日条)、今日は昼食だけ。夕方には我家に戻れました。
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安政2年(1855年)4月の日記は以上です。
なんとここから2年間、裁判は放置されます。
その間のことは五郎兵衛日記には記載されていませんが、各人が村で普通の生活を送っていたと思われます。
呼出があったのは2年後の安政4年4月となります。
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