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転売ヤー活動に忙しい幽学先生 嘉永7年6月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年06月17日 | 大原幽学の刑事裁判
転売ヤー活動に忙しい幽学先生 嘉永7年6月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年6月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
・昨日泊まっていった幸左衛門殿と七右衛門殿は早朝に職場に戻られた。良祐殿は昼前に職場に戻られた。
・幽学先生から色々な心得をお聞きした。
「親切は親切、用心することは用心しなければならない。」
「孝の道は親の心を安からしむる道である。」
「性の道は人を導く道である。一人きりの道というのは無い。」
・昼過ぎに節五郎殿が来た。石川様御門目見へが済み、本役になることができたと。
・長左衛門殿は今日外出できず、明日には来られるとのこと。
・栄之助殿が土産に団子を持ってきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
月の末日は道友が集まり、皆で食卓を囲みます。幽学先生と五郎兵衛以外は辻番や門番のバイトをしており、職場に戻らなければなりません。昨晩は借家に泊まっていった幸左衛門殿や七右衛門、良祐は三々五々借家を出ていきます。五郎兵衛は相変わらず借家で留守番役です。

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嘉永7年6月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・長左衛門殿が朝来られ、昼にはお帰りになった。
・幽学先生は両国から境町、今川橋辺を回り、昼前にはお戻りになった。
・昼過ぎに幸左衛門殿が来られ、夕方には帰られた。
・晩に帳面の付け方が良くないため、幽学先生からご指導を受けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
刀剣の転売ヤーとして実績をあげつつある幽学先生ですが、ぶらりと江戸を闊歩するときもあります。本日は借家のある神田松枝町から両国、今川橋あたりを歩いてきたようです。今川橋は、現在はその跡が残っているのみ。江戸時代、この橋のたもとには瀬戸物屋が多く集まっていたそうです。



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嘉永7年6月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・長左衛門殿が畳を買って昼過ぎに借家に来られた。
・幽学先生は湯島切通しの合羽屋に行かれた。
・良祐殿はこれまで旗本の石川様で住込み働きをしていたが、本日借家へ引越し。惣右衛門殿と一緒に良祐殿の持ち物を取りに行った。惣右衛門殿は借家に泊まられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
良祐は旗本の石川様方の足軽部屋で3月から働いていたのですが(3月10日条)、良祐はまだ若く、住み込みで働いていたこともあり、悪風に染まることを幽学先生も心配していました。本日借家に引っ越しとなったのは、その問題の解消のためでしょう。
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嘉永7年6月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・惣右衛門殿は昼前に職場に戻った。
・親父(伊兵衛)が来て、「御役所から辻番というのは年寄りばかりいるそうだが、もしものことがあったときはどのようにするのだというご質問があったので、幽学先生と相談に来た」とのこと。
・幽学先生と節五郎殿は大小を買いに出かけて、夕方にお帰りになった。
・夕方、旗本の石川様御門まで良祐殿の持ち物取りに行った。晩から大雨となった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
辻番の番人は 夜分、六尺棒を持って、廻り場(管轄区域)を巡廻するのが仕事。何事もなければ、巡回と待機だけです。何事もないのが常態となっているので、給金は安く、老人ばかりの職場となってしまったのでしょう。

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嘉永7年6月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昼前、幽学先生が腰物を買いに出かけられた。夕方には人に会うためにお戻りになった。その後再び店に行き、二両と百文で買い物を済ませてお戻りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
最近の五郎兵衛日記は、幽学先生の転売ヤー日記の様相を呈しています。結構儲けているはずなのに、幽学先生がお金を何に使っているのかは謎です。

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嘉永7年6月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は藤元屋へお出かけになられた。昼からは幽学先生は、切通し合羽屋に行き、商いのやり方を色々と話された。「安く売れば繁昌してもうけも早く出るなんてことはない。そんなことを言っている商い上手はいない」
・良祐殿は番町へ行って、幸左衛門殿に門番の事について相談してきた。
・小生は、脚気治療の高橋医者のところに出かけ、薬を買って帰ってきた。小豆を五合買ってきて煮た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
節五郎が脚気にかかったというのは以前の記事で出てきましたが、五郎兵衛も脚気なのかもしれません。高橋医師から買ってきた薬は自分のためのものかも。



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嘉永7年6月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・昼前に親父(伊兵衛)が来られた。「幽学先生にお願いがあって来た。国元で子供や若者達が奉公までしてお金を作ったてくれているが、私がここにいたのではそれだけになってしまう。国元に帰ることができれば何とかすることもできるのだが」
・長左衛門殿が借家の近くに引っ越してきた。その祝いにうどんや蕎麦を振る舞われた。
・節五郎殿は脚気治療をしている高橋医師に行った。晩に戻ってきたので、借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
長左衛門はもともと江戸に住んでいた人です。良祐に仕事を紹介することで幽学一門と接点をもったのですが、いつのまにか幽学一門と仲よくなってしまい、拠点の借家の近くに引っ越してきてしまいました。幽学一門といっても、強固な統制が取れているとはとても思えないのですが、何か人を惹きつける魅力があるのでしょう。



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嘉永7年6月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は昼前に買い物に出かけられ、鍔
を八つ買ってきて、夕方にお戻りになられた。
・夕方に伊兵衛殿が借家に来られた。「辻番の仕事は今夜限りで辞めるが、人手不足らしいから手伝いにはいく」とのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、本日は刀の鍔を八つも買ってきました。やはり相応に儲かっているものと思われます。幽学先生は刀剣の仕入れ、売却については概ね単独行動です。時々誰からと一緒に買物に行くのは、買った刀等をもたせるためであって、それ以外は一人で行動しています。


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嘉永7年6月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は朝から藤元屋に出かけられ、すぐにお戻りになられた。また、昼には買い物に出かけられ、夕方にお戻りになられた。
・小生は砂町内田へ負債の支払いにいき
、馬喰町へまわって手拭地を買ってから戻った。
・長左衛門殿が来られ、良祐殿と碁を打った。
・晩に伊兵衛父が来て、泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
碁を打つ記事が久しぶりに登場。良祐は旗本の石川様での住込み働きを辞め、借家へ引越してきたので(6月3日条)暇があるのでしょう。長左衛門も囲碁が好きなようです。幽学先生は華美を禁じ、質素に暮らすようにということにはうるさいのですが、囲碁は贅沢とは判断していないようです。


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嘉永7年6月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿は、これまで藪様御屋敷の門番をしていたが、今後は仲番の仕事をされることが決まった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幸左衛門は自分の村(諸徳寺村)の地頭である藪家で門番の仕事を始めましたが(2月5日条)、働きが認められて「仲番」を務めることになりました。この「仲番」というのは、内山朝治『武士にて候』によれば門番小頭という役職のようです。幸左衛門、仕事ができる男です。

〈その他の記事〉
・おけい殿が病気のためあんまを頼み、薬を買われたとのこと。
・晩に幽学先生、良祐殿と共に馬喰町薬研堀で植木などを見てから両国へ行き、掛あんどんなどを見て帰ってきた。


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