南斗屋のブログ

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徒罪について・仮刑律的例 46

2024年10月31日 | 仮刑律的例
徒罪について・仮刑律的例 46
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(要旨)
・徒罪の年限は1年、1年半、2年とされたい。
・窃盗50両以上100両未満は徒罪
・徒罪を受けている者の拘束の方法や恥ずかしめを与える方法は各藩の裁量に任せる
・女性も徒罪を科すことができる

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【鳥取藩からの伺い】
明治2年3月6日、 鳥取藩からの伺い

先般、刑律御改正がありましたが、次の点についてお伺い致します。
【伺①】どのような罪状の場合に徒罪を言渡したらよいでしょうか。

【返答】
徒罪の年限は1年、1年半、2年とされたい。また、その他の犯罪は、以下を参考にしてして決めていただきたい。
火附・強盗人ヲ殺ス者⇒梟首
強盗・百両以上窃盗・強奸⇒刎首
窃盗五十両以上⇒徒罪
同二十両以上⇒笞 百
同一両以上⇒笞 五十
同一両以下⇒笞 二十

(コメント)
鳥取藩からの徒罪についての一般的な問合せです。徒罪は現代の懲役刑に相当すると説明されることが多いのですが、この伺いを見ていくと、現代とは様々な相違点があることに気がつきます。
【伺①】は、どのような罪状の場合に徒罪を言渡したらよいかというものです。明治政府が明確に示したのは、窃盗50両以上100両未満の場合は徒罪ということだけで、その他の犯罪は、示したものを参考にしてして決めよという、ほぼ丸投げ状態です。


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【伺②】
一 徒罪を執行したときに、首に鐶(かせ)をかけたり、斬髪をしてもよいでしょうか。なお、これは、古髠鉗(こりょうかん)と呼ばれる刑罰によるものです。鐶(かせ)は銅・鉄・真鍮等で作るということでよいでしょうか、またその製法があればお教え下さい。
一 斬髪というのは、髻(もとどり)から斬るという方法だけでよいでしょうか。剃下げや惣髪にすることはいけないということにして良いでしょうか。

【返答】
徒罪を受けている者の拘束の方法や恥ずかしめを与える方法については、現時点では取決めがないので、各藩の裁量で取り扱うこととしてよい。

(コメント)
【伺②】は、徒罪を受けている者の拘束の方法や恥ずかしめを与える方法についてです。懲役刑は、刑務所に収容して自由を奪い、労務作業(木工、印刷、洋裁など) を義務づけるものですが、その他の「恥ずかしめを与える方法」等は想定されておりません。しかし、鳥取藩は首に鐶(かせ)をかけたり、斬髪をするという方法で、徒罪に服していることを明らかにしておきたかったようです。明治政府は、現時点では取決めがないので、各藩の裁量で取り扱うこととしてよいと、鳥取藩の自由裁量を認めています。

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【伺③】
一、婦人も徒罪に処して良いでしょうか。

【返答】
良い。なお、婦人徒罪における苦役方法は、各藩の独自の裁量で取り扱ってよい。

(コメント)
女性に対して徒罪(徒刑)を科してよいとの明治政府の考えは、「仮刑律的例24」(京都府からの明治元年12月26日付け伺い)により明らかになっています。
https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/133cb0047bf2f05e8879cae5ff01a305
仮刑律的例24では笞刑を女性に科すことは相当ではないので、徒刑でよいかとの伺いに対して、明治政府がこれを是認し、女性の徒刑は、場所を区別して行うのが最も良いこと、徒刑の場所を整備する迄は、過怠牢舎で代替してもよいことという返答がなされています。

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【伺④】
一、流罪に処するのはどのような犯罪の場合でしょうか。

【返答】
流罪は、死罪よりも軽く、徒罪よりも重い犯罪に対して科される刑罰である。

(コメント)
明治初年にはまだ流罪(流刑)が残っていました。新しく徒罪(徒刑)が導入されたため、鳥取藩としてはどのような場合に流罪を適用したら良いのか迷っていたようです。
明治政府の返答は、徒罪〈流罪〈死罪 という関係を示した素っ気ないもので、これだけでは鳥取藩も困ったことでしょう。仮刑律的例23では、「流刑にすべき者:追放刑にしたのに追放場所から戻った者、女犯の僧、15歳以下で死罪にあたる罪を犯した者。それ以外は一つ一つ答えることはできない。」との考えを明治政府は示しているのですが、鳥取藩にはこの返答を示しておらず、明治政府内でも明確な方針が打ち出せていなかったようです。
なお、他の仮刑律的例での流罪事例は次のとおりです。
・高額窃盗事案(被害額100両超)であり、本来死罪とすべきところ、大赦があったことを理由として流罪7年とした事例(仮刑律的例 17、度会藩)
・兵庫県の判事の下男が、2名の者に脇差しで切り付け、一名を死亡させ、一名に重傷を負わせたことにつき、流罪としたもの(仮刑律的例 27、兵庫県)


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御預け罪人への食事は一汁一菜で良い・仮刑律的例 45

2024年10月28日 | 仮刑律的例
御預け罪人への食事は一汁一菜で良い・仮刑律的例 45
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(要旨)御預け罪人への食事は一汁一菜で良い

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【筑前福岡藩からの伺い】
明治2年3月8日、 筑前福岡藩から御預け罪人の取扱について心得方伺い

伺①三人の者を一つの間とすることでよいでしょうか、それとも、それぞれ別の間とした方がよいでしょうか。
伺②罪人を引き受けるときは、網乗物が良いでしょうか。
【返答】
引戸駕で錠を締めるべきである。
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(伺①、②へのコメント)
・本件の伺いは「御預け罪人」とあり、この意味が定かではありませんが、内容からして「罪人」は未決の者を指すと思われます。現代的にいえば、被疑者の扱いをどのようにすべきかという問合せです。
・伺い①は、被疑者を雑居とすべきか、独居とすべきかについての問合せですが、明治政府はこの点については返答していません。
・伺い②は、被疑者をどのように護送するかという点に関するものです。福岡藩は、「網乗物」を使用した方が良いかと尋ねています。
「網乗物」とは、士分以上の重罪人の護送に用いた青い網をかけた乗物(かご)のことですので、「御預け罪人」というのは、身分的には士分以上であったのかもしれません。
これに対して、明治政府の返答は、「引戸駕で錠を締めるべき」というもので、福島藩の問合せよりも格の低いもので良いとの返答です。
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伺③ 罪人を御請取りするときには、警衛一小隊を出してもよろしいでしょうか。
伺④食事については、御作法に則ったものはお出しできないと思います。
【返答】
一汁一菜でよい。


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(伺③、④へのコメント)
・伺い③は、被疑者の受取りに際して警衛一小隊を出してもよいかとの問合せですが、明治政府はこの点については返答していません。
・伺い④は、食事に関する問合せです。「食事については、御作法に則ったものはお出しできない」といっているので、やはり「御預け罪人」は身分の高い方なのでしょう。
明治政府の返答は、「一汁一菜でよい」と実に素っ気ない。
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伺⑤帯や下帯等は着用させないように致します。その他御作法があれば御指図下さい。

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(伺⑤へのコメント)
・福岡藩の問合せは、被疑者の自殺防止の観点から帯や下帯等は着用させないというもので、その他指示があればご指示下さいとしておりますが、明治政府は何ら返答をしておりません。
福岡藩はかなり気をつかっているように見えますが、明治政府が返答もしていないものも散見されます。自分で考えて実行せよということなのでしょうか。

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大正10年の千葉の弁護士

2024年10月26日 | 歴史を振り返る
(大正10年の千葉市の様子)
千葉市史編纂委員会編『千葉いまむかし』の第5号には、「千葉案内」(大正十年七月調査「千葉市実測図」の裏面)と題して、大正10年の千葉市が紹介されています。
「千葉案内」には、千葉市について次のように記しており、当時の千葉市の勢いが感じられます(現代語訳)。
〈明治6年に千葉県庁が設置され、それから裁判所やその他の官庁も出来た。医学校をはじめ、官公私立の各種学校、鉄道連隊、陸軍歩兵学校、同教導連隊なども設置され、現在、戸数は6600戸余、人口は32,000人に達し、さらに毎年発展の傾向を示している。大正10年1月1日には市制が施行され、千葉町は千葉市と改称された。文化も急速に発展し、市の勢いは新しいエネルギーに満ちており、昔日の千葉よりも優れた都市となったのである。〉
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(大正10年の千葉の弁護士)
「千葉案内」には大正10年の千葉の弁護士名が列記されています。
(弁護士)高橋八郎、松野信次郎、鹿島千太郎、 高橋栄蔵、一瀬房之助、羽生長七郎、杉山弥太郎、中川真太郎、古川与、信太武治、清古平吉、遠山重義、神田仲二、長戸路政司、阿部遜、青木勝見、松沢亀治郎
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(安部遜弁護士)
本文には上記のように氏名が記載されているだけなのですが、「千葉案内」には広告欄があり、弁護士の広告も見えます。

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弁護士 安部遜
事務所
千葉市裁判所裏門通り 電話三七五番
木更津町裁判所前 電話五八番
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弁護士一覧には「阿部遜」の名前が見えますが、広告で「安倍」となっています。どちらが正しいのかですが、明治29年5月25日判決(大審院刑事判決録2輯5巻79頁)の弁護人に「安部遜」の名が見えます。同判決は、第一審が千葉地方裁判所ですので、「安部遜」が正しいことが確認できました。
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(一瀬房之助弁護士)
一瀬房之助弁護士の広告です。
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千葉市新通町(電話252番)
弁護士、特許弁理士、日本法律学士
一瀬房之助
出張所 木更津町、北條町 佐倉町、一ノ宮町、八日市場町
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この広告によれば、一瀬房之助氏は、千葉市新通町の事務所以外にも木更津町(現木更津市)、北條町(現館山市)、佐倉町(現佐倉市)、一ノ宮町(現一宮町)、八日市場町(現匝瑳市)に出張所を持っていたことがわかります。当時の弁護士法では複数事務所が禁止されていませんでした。現行弁護士法では「弁護士は、いかなる名義をもつてしても、二箇以上の法律事務所を設けることができない」(弁護士法人では可)と規定されており、複数事務所は禁止されていますので、個人の弁護士はこのような「出張所」を設けることができません。
一瀬房之助は市議会議員でもあり、副議長及び議長職についています(千葉市歴代正副議長名簿)。
副議長:大正14年3月〜昭和4年3月
議長:昭和11年12月〜12年3月


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(羽生長七郎弁護士)
羽生長七郎弁護士の広告です。
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千葉市本町一梅屋敷(亀井橋通り)
弁護士 羽生長七郎
出張所 香取郡佐原町佐原イ3369
浮島屋旅館裏
匝瑳郡八日市場町イ340
下出羽宿
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羽生長七郎弁護士も、事務所以外に出張所(佐原及び八日市場)を持っています。

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(高橋栄蔵弁護士)
高橋栄蔵弁護士の広告です。
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千葉市市場474番地
弁護士 高橋栄蔵事務所
弁護士 高橋栄蔵
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(鹿島千太郎弁護士)
鹿島千太郎弁護士の広告です。
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千葉市事務所
千葉県庁前(電話556番)
弁護士 鹿島千太郎
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(杉山弥太郎弁護士)
広告を掲載している弁護士は以上です。広告はないものの、その他情報を得られた弁護士について記しておきます。
杉山弥太郎弁護士は、『千葉繁昌記』(明治28年)にもその名を記されています(過去記事)。
生年月日は明治元年九月八日 (1868)とのことであり、大正10(1921)年時点では53歳ということになります。

同弁護士の事務所は千葉市本町二丁目にあり、『千葉街案内』(明治44年)には大要以下のとおり紹介されています(現代文にしてあります)。
「弁護士杉山弥太郎氏の法律事務所は、千葉町本町二丁目にある。民事訴訟や、刑事訴訟だけでなく法律に関する幅広い業務を親切かつ丁寧に扱っており、信頼を得ている。杉山氏は山武郡大網町の出身で、故父杉山安蔵氏に従って法律業務に従事し、千葉中学校を卒業後、上京して英語学校に通い、その後法学院に進んで学問を深めた。明治22年に法学院を卒業するとすぐに弁護士試験に合格し、静岡市に事務所を設立した。しかし、明治24年に千葉町に戻り、現在の場所に法律事務所を開設して以来、大変な繁盛を見せ、現在に至っている。彼は千葉町でも有数の信頼を集める人物であり、現在は千葉県議会議員の要職についている。」

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(清古平吉弁護士)
清古 平吉(せいこ へいきち)氏は、大正10年当時千葉市の議員であり、「千葉案内」の市会議員欄にもその名が見えます。
1901年(明治34年)の法律新聞の『千葉通信』には次のような記載があり、千葉で最も多忙な弁護士の一人に数えられています。
◎千葉通信(現代語訳)
弁護士界:当地の弁護士界で最も忙しいのは、神田仲二、清古平吉、杉山弥太郎の三氏のようである。現在の弁護士組合会長である浅井蒼介氏の任期は、来たる5月で満了するため、その後任には清古平吉氏が就任する予定である。もともと、当組合の会長選任は、最も公平な方法が取られており、開業順に順次就任するのが慣例となっているので、他の地方に見られるような金銭に関する問題とは異なっている。

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嘉永7年9月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年10月24日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。
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嘉永7年9月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番のはずだったが、朝掃除、着物の洗濯、昼から障子張り、御弓場の設営。九ツ時に平作殿が「用事で下町に行くから後はよろしく」といわれ、引き続き仕事。
幸左衛門殿は八ツ半時に松枝の借家町へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日休み(非番)なのですが、結局一日中仕事。同僚の平作は五郎兵衛に仕事を押し付けて下町へ。平作はこのところサボり気味です。

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嘉永7年9月12日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、時触れ、楊枝削り。七ツ時、幸左衛門殿と一緒に、牛込揚場の湯に行く。帰りに問屋で黒餅一抱を232文で買って帰る。本日夜番は休み。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
記事中の「牛込揚場」は現在は「新宿区揚場町」。夕方が比較的暇なのか、七つ時から銭湯に行っています。帰りに黒餅を一抱も買っています。やはり五郎兵衛は食いしん坊です。これでは幽学先生ならずとも、食べ過ぎに注意といいたくなります。
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嘉永7年9月13日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
同僚と一緒に田中様と安達様の米搗き。暮方から同僚は外出してしまい(宜平殿は松枝町の借家へ、平作殿は麹町大崎方へ)、小生一人で仕事。本日月見。奥や御家中様より団子、芋、栗、豆をお祝いでいただく。九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
旧暦9月13日は十三夜のお月見。五郎兵衛はお祝いの品(団子、芋、栗、豆)をもらっています。食いしん坊五郎兵衛だけあって、食べ物はきっちり記録しています。

〈詳訳〉
本日は本番。六ツ時から田中様の米搗き、宜平殿、平作殿と三人で替わるがわる九ツ半迄。七ツ時から安達様の米搗き。暮方に宜平殿は松枝町の借家へ行き、平作殿は麹町大崎方に行ってしまって、小生一人で夜具上げ。時触れ。本日月見。奥や御家中様より団子、芋、栗、豆をお祝いでいたはだく。九ツ半より夜番を勤める。

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嘉永7年9月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番予定だったが、平作とシフト交替。六ツ時より安達様の米つき、掃除、夜具下げ。五ツ時に宜平殿が戻る。安達様及び宮本様の米つき暮方まで。平作殿は、小川町の御門番に異動することになり、本日引越し。小生は九ツまで夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「平作殿」は、五郎兵衛が藪家で働き始めた当初からの同僚(7月13日条)でしたが、この度、小川町の門番に転勤となりました。荷物が少ないからか、命じられたら、すぐ小川町に行ったようです。


〈詳訳〉
非番予定だったが、平作とシフト交替となり、勤務。六ツ時より安達様の米つき、掃除、夜具下げ。五ツ時に宜平殿が戻ってきたので、かわるがわる米搗き。九ツ時安達様の米つき終わり、次いで宮本様の米搗き暮方まで。平作殿は、小川町の御門番は勤めることとなり、本日引越し。小生は九ツまで夜番を勤める。


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嘉永7年9月15日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
殿様の御登城日。
朝掃除、楊枝削り。四ツ谷まで使い。
幸左衛門殿と松枝町の借家に灰を持っていく。本町へ廻り安達様の為に砂糖購入。飯田町の湯へ行き、五ツ時に御屋敷に戻る。九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「安達様」(旗本籔家の家来か)は、五郎兵衛にちょくちょくお使いを頼んでいます。こうしてみると砂糖が多いですね(今日も砂糖です)
・砂糖(本町の小西利左衛門)(閏7月4日条)
・砂糖(8月13日条)
・葛(9月9日条)

〈詳訳〉
本日殿様は六ツ半時に御登城。
添番。朝掃除、宜平殿と二人で髪結い。楊枝削り。八ツ半時、田中様から四ツ谷までの使いを頼まれる。七ツ半に戻り。幸左衛門殿と二人で松枝町の借家に灰を持っていく。日暮れ後に本町へ廻って安達様の為に砂糖を買って帰る。飯田町の湯に入って、五ツ時に御屋敷に戻る。九ツ半から夜番も勤める。

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嘉永7年9月16日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、宜平殿と二人で着物洗濯。楊枝削り。夜番を九つまで勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本番と九つ(深夜0時)までの夜番勤務。よく働くので、籔家でも五郎兵衛は珍重されたのではないでしょうか(それにしても働かせ過ぎのようではあります)。奉公人の人員は明らかに減っていますが、五郎兵衛は文句も言わずに仕事をこなしています。


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嘉永7年9月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番のはずだったが、仕事(宜平殿も)。掃除、床下げ、馬場の仕度。昼から御弓場の設営。九ツ半から夜番。真夜中(四ツ半時)に平作殿が来て道具を持って行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の仕事には「馬場の仕度」とか「御弓場の設営」があり、藪家の家来が御屋敷内で練習していることがわかります。昨年にはペリーが来航しており、軍事対応の必要性が増していたのでしょうが、相変わらずの弓馬の調練で大丈夫でしょうか。

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嘉永7年9月18日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、時触れ、楊枝削り。七ツ時に牛込薬店の湯に行く(大寺と)。九ツまで夜番勤務。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、大寺さんとはよく一緒に風呂に入りに行ってます。今日もまた一緒に銭湯へ。
・幸左衛門殿と大寺と堀田の湯へ(7月28日条)
・幸左衛門殿、大寺と牛込の薬店湯へ(閏7月17日条)
・大寺と二人で薬店の湯(8月7日条)

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嘉永7年9月19日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、四ツ時に御奥様が外出なさるとの御触れを聞く。八ツ時に御奥様は雉子橋様へ行かれた(御供揃)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は「御奥様」の公式の外出。五郎兵衛はどのような供がついていたのか、日記に記録してくれています。
行き先は「雉子橋様」。「雉子橋」は橋の名前なので、橋近くに屋敷がある方のところに行かれたのでしょう。

〈その他の記事〉
本日は御供揃で御奥様は雉子橋様へ行かれたとありますが、御供を次のとおり記録したいます。
御駕籠四人
御脇
御取次壱人
奥附壱人
御近習二人
御先 半助、安左衛門
御箱持壱人
御草履取壱人
押壱人
釣台弐人
女中供
腰添壱人
草履取壱人
もの持壱人
五味庄太夫
若党壱人
草履取壱人

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嘉永7年9月20日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
・今日は三峯様の御祭り。
朝掃除の後、赤飯を作り御家中衆へ配る。
晩に御家中衆は大座敷で酒盛り。
・宜平殿は腫物が痛み、休むために九ツ半時に松枝町の借家へ行った。御屋敷の仕事は
藤助殿と二人で勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「三峯様」は三峯神社の神社のことでしょうか。御家中衆は午前中に赤飯を配られ、晩には大座敷で酒盛りに興じています。

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ひものやの奇行続く・文政12年10月中旬・色川三中「家事志」

2024年10月21日 | 色川三中
ひものやの奇行続く・文政12年10月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年10月11日(1829年)晴
夜に、入江(名主)宅にて町年寄一同参集。
道の普請のこと
役人の交代のこと
鉄五郎のこと
その他。詳細は略す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「鉄五郎」というのは、ひものや鉄五郎のこと。ついにひものやの件は、色川家(大家)とひものや(店子)の賃貸借のトラブルから、町役人一同の議題へと広がりを見せるまでになってしまいました。といっても、鉄五郎が訳の分からない行動に出ているのが問題なのですが…

〈その他の記事〉
・大町の松本源兵衛が、酒一升を持って来た。
「内々の願いごとについてご尽力いただき感謝申し上げます」とのこと。願主は松本源兵衛と伝兵衛の二人、東崎は大和田庄右衛門の件である。

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文政12年10月12日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ、明日再開)
#色川三中 #家事志


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文政12年10月13日(1829年)晴
ひものや鉄五郎は「遠慮」を命じられ、藩から三日間(昨日まで)で終了と言われたのに、今朝になっても戸を開けず、組合の者たちが促しても拒否。組合(五人組)の者も困惑し、町役人に報告があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎は「遠慮」を命じられ(10月11日条)、昨日で終了と言われても、命令を無視して引き籠もるという奇行にでています。組合(五人組)は町役人にこのことを報告しなければいけませんし、いい迷惑です。

〈詳訳〉
・ひものや鉄五郎は「遠慮」の言渡しを受け、昨日までで三日間の「遠慮」していた。昨日、組合の一員が役元に呼ばれて、「鉄五郎の遠慮は本日まで」と言渡された。
しかし、鉄五郎は今朝になっても戸を開けない。組合の者たちが開けるように言っても、鉄五郎も親類の者も「戸は開けない」と言い張っているとのこと。組合の者から役元にこのことが報告された。
・昼過ぎに入江(名主)宅に行く。船で浦の方からいった。
私「鉄五郎の親類の者たちがしきりに願い出ていたので、箱訴をしてくる可能性もあるだろう。そのことも含めて藩にご報告しておいた方がよいのでは」と申し伝えたところ、入江は即刻藩に報告に行った。

〈その他の記事〉
・朝、利助出立。西ルートの新しい取引先開拓のため。
・喜兵衛を安食村(現かすみがうら市安食)に派遣。

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文政12年10月14日(1829年)
三中先生、本日は休筆です(本日のみ、明日再開)
#色川三中 #家事志

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文政12年10月15日(1829年)曇
夜に五香屋に行き、町年寄の役をお受けできないかお話ししたが、承諾いただけなかった。その他様々な話しをした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町年寄の後任の打診で五香屋さんを訪れた三中ですが、あっさりと断られてしまったようです。町年寄の仕事は多忙なのに、それに伴った実入りが少ないので、よほど経済的に余裕がないと受けることはできないのでしょう。

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文政12年10月16日(1829年)晴
本日、ひものや鉄五郎の「願書」が栗山(町年寄)に提出されたとのこと。大家(色川家)と名主を相手としたもので、受理されなければ、箱訴狙いかと思われる。組合(五人組)も困惑している。
#色川三中 #家事志
(コメント)
いつの世にも変な人はおります。ひものや鉄五郎氏もその一人。三中から店を借りているのですが、トラブルを起こし、組合(五人組)も呆れてしまっています。今回は「願書」を藩に提出しており、混乱がさらに続くようです。

〈詳訳〉
・ひものや鉄五郎の組合一同が来た。
鉄五郎が大家と名主を相手どり願いを出したとのこと。鉄五郎は、組合の者へ願書を取次いでくれるように述べたが、 組合も相手方となるかもしれず取次ぐのはいかがなものかと考えた為、ひとまず内々に報告することにしたとのこと。
・組合が取り次がなければ、箱訴を起こすつもりであろう。中高津の甚左衛門と大竹の瀬兵衛は、このようなことに長けていると評判である。
・九ツ過ぎに川口へ船で行く。
隠居(祖父)「ひものやの件が一応の解決したと思ったら、またまた珍事だな。町年寄を退任してもとの五人組に入った途端に、この件を片付けなければならないことになるのは、どうも見苦しい。町年寄としての出勤も不適当だし、病中の御尋ねということで進めるしかないだろう」
・このことで、入江(名主)宅に行って打合せし、奥井(町年寄)とも話す。
本日、ひものや鉄五郎の「願書」は栗山(町年寄)に提出されたとのこと。

〈その他の記事〉
・従業員の政之助を安食村(現かすみがうら市安食)へ遣わした。
・七ツ時に小白村の与兵衛が馬で土浦に来た。百日ぶり。←奉公人。病気となり、小白村で療養していたり
・木下から新酒一升が届く。


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文政12年10月17日(1829年) 曇
栗山(町年寄)がひものや鉄五郎の願書を町組小頭へ提出した(栗山、鈴木、奥井の各町年寄が奥書印)。夜、ひものやの組合(五人組)の大竹が町組小頭に呼ばれた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎の「願書」の処理。町年寄に提出された後、町年寄が奥書印をして、町組小頭(藩の役人)に提出。町組小頭は、ひものやの組合(五人組)を呼んで、事情聴取をしています。


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文政12年10月18日(1829年) 曇
水戸中納言様が御逝去された。今月16日から来月22日まで鳴物は停止、普請は今月16日から3日間は遠慮。
以上のお触れがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「水戸中納言」は水戸藩の藩主であった徳川 斉脩(なりのぶ)のこと。文政12年10月4日死去。享年33。斉脩の弟があの徳川斉昭です。兄の死により斉昭が水戸藩の藩主となります。

〈その他の記事〉
谷津稲苅たば覚
十六日 百四十わ《きさ、しめ》
十七日 弐百わ 女二人
十八日 弐百五十わ《喜兵衛 女二人》
十九日 九十わ 喜兵衛 九十五わ きさ 百わしめ



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文政12年10月19日(1829年)晴
町組小頭様が、鉄五郎の組合(五人組)と差添を呼出し。
小頭様「この願書では、訴えとはいえない。鉄五郎ではなく『源七煩に付き伜鉄五郎』と書くように。公事名も付けよ、趣意を明らかにせよ。願書は保留とし、追加の書面をみて判断する」
#色川三中 #家事志
(コメント)
町組小頭(藩の役人)がひものや鉄五郎の「願書」への判断を示しています。どのような場合に訴えとして受理するのかが分かり、興味深い。鉄五郎の家の当主は父親の源七なので、鉄五郎の名だけでは訴えができず、『源七煩に付き伜鉄五郎』と書かないとダメなのですね。

〈詳訳〉
・町組小頭様が、夕方、鉄五郎の組合(五人組)及び差添えの八兵衛を呼び出された。
今回の願書では、訴えとして取り上げるほどのものではなく、また鉄五郎の名だけでは不十分で、「源七煩に付き伜鉄五郎」と書くこと、公事名を付け、趣意を明らかにすることを指示されたとのこと。願書の扱いは保留で、追加の書面をみての判断となるとのことである。

〈その他の記事〉
・今回、ひものや鉄五郎から願書が提出されたが、無視するのもどうかと思い、入江全兵衛(名主)と連名の趣意書を提出した方が良いのではと考え、川口隠居(祖父)に見せた上で、入江に持参した。


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文政12年10月20日(1829年)晴
水戸様御尊骸が水戸街道を御通行になられるので、道普請をするようにとの指示があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水戸藩の藩主徳川斉脩が亡くなり(10月18日条)、水戸街道を通って、水戸徳川家累代の墓所のある茨城県常陸太田市瑞龍町にある瑞龍山に運ばれます。街道沿いには道普請の命令が出て、色川家も駆り出されるようです。

〈その他の記事〉
・鉄五郎の組合(五人組)の竹中屋七兵衛を呼び、先日組合が約束したとおり、ひものや鉄五郎が店の賃料を支払うよう催促した。


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付1
ひものや鉄五郎の一件の覚え

一昨年(亥年)(注:文政10年)夏:勝右衛門(利兵衛より)、ひものやに申入れを行った
同年9月ころ:当方の留主中に勝手に相手方が普請した事について父親の源七へ事情を聞いた。
其後、何ら挨拶はなし。

去年(子年)(注:文政11年)春:手代の与市を遣して交渉する。
8月: 相手方の代理人の竹中七兵衛に話しをする
10月:相手方と合意
10月下旬:相手方が合意を破棄して、軒を勝手に伸ばしてきた。その後何回も久松と交渉。
同年暮から賃料をなくなった支払わなくなった

当年(注:文政11年)
6月:名主に頼んで相手方に意見してもらった
7月:相手方は相変わらず賃料を支払わない
9月15日: 入江(名主)から相手方に不行届ありとの話し。
9月18日:組合の者と共に鉄五郎が一緒に来るべきと伝える。久松時右衛門にも同様に伝えたところ、時右衛門から一両日待ってほしいという話あり。同夜、内田六蔵が来る。
9月23日: 高砂屋来る。
9月24日: 組合から、相手方が不埒である旨の申し出あり。
9月28日:入江から相手方に厳重に申入れをしても、相手方が取り合わなかったため、町組小頭様に届出る。
9月29日: 相手方が小頭様に呼び出された。同じころ安達氏来られる。
9月30日:組合が詫びに来る。
10月2日: 組合の者がまた来た。
10月3日:組合の者は頼りにできないと断る。
10月4日:安達氏より頼まれたとのことで、また組合の者が来た。
10月7日:また組合の者が詫びに来た。
10月8日:朝、利兵衛(叔父)を相手方の組合へ行かせ、当方の考えを伝えた。
10月9日:組合の者が来て、年内は御勘弁とのこと有難くお受けする旨の話しあり。
その旨、入江(名主)へも届ける。
10月10日:鉄五郎が「遠慮」を言い渡される。
10月13日:鉄五郎、「遠慮」が終了しても戸を開けず。
10月16日:組合から鉄五郎が「願書」を提出するとの話しあり。同日夜に、鉄五郎、栗山(町年寄)へ願書を提出。
10月17日:「願書」が町組小頭へ提出され、夜に鉄五郎の組合の者と大竹瀬兵衛が小頭様に呼ばれる。差添奥井吉右衛門殿(町年寄)。
10月18日:「願書」が御奉行様へ提出された。
10月19日:公事名及び「源七煩に付き鉄五郎」と記載するようにとの指示が小頭様から相手方にあり。また、これは訴えとはいえないとの考えが小頭様から示される。
10月21日:鉄五郎が願書を修正し、栗山(町年寄)へ提出。
夜に入江氏宅で町年寄一同が集まる。鉄五郎の組合全員及び久松時右衛門も呼び、一同の考えについて念のため尋ねた。
11月6日:趣意書を仰せ付けられる。
11月8日:5日日延べ。
11月9日:内六(内田六蔵)来る。
11月14日:朝、同人がまた来る。



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「千葉地方裁判所、千葉区裁判所」 明治28年千葉繁昌記より

2024年10月19日 | 歴史を振り返る
【はじめに】本稿は、松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)の「千葉地方裁判所、千葉区裁判所」の項を現代語訳したものです。記述の大半は裁判所の権限についてですが、これは裁判所構成法をそのまま述べたものであり、あまり面白いものではありません
裁判所は千葉町吾妻町三丁目にあるとされています。おそらく現在(千葉市中央区中央4丁目)と変わらない位置だったと思われます。
「庁舎は昨年新築されたもので、法廷や会議室、事務室ともに立派で、関東でも一番と評されている。」等の記載や職員の名前が記載されており、後に大審院長となった横田秀雄の名が見えます。

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○千葉地方裁判所
○千葉区裁判所

地方裁判所は千葉町吾妻町三丁目にあり、区裁判所は同じ敷地内にあって、庁舎は互いに連絡している。昨年新築されたもので、法廷や会議室、事務室ともに立派で、関東でも一番と評されている。
・地方裁判所の権限
【民事事件】
1 「第一審」として、区裁判所の権限や裁判所構成法第38条に定められた控訴院の権限に属するものを除き、その他の請求を扱う。
2 「第二審」として、
(イ)区裁判所の判決に対する控訴
(ロ)区裁判所の決定および命令に対する法律に定めのある抗告
【刑事事件】
1「第一審」として、区裁判所の権限や大審院の特別権限に属さない刑事訴訟
2「第二審」として、
(イ)区裁判所の判決に対する控訴
(ロ)区裁判所の決定および命令に対する法律に定めのある抗告
・区裁判所の権限
【民事事件】
1 100円を超えない金額または価値100円を超えない物に関する請求
2 価格に関係なく、
(イ)住居やその他の建物の受け取り、明渡等(ロ)不動産の境界に関する訴訟
(ハ)占有のみに関する訴訟など
【非訟事件】
1 後見人や管財人の監督
2 不動産や船舶に関する権利関係の登記
3 商業登記や特許局に登録された特許、意匠および商標の登記
【刑事事件】
1 違警罪
2 本刑50円以下の罰金を付加し若しくは付加せざる2月以下の禁錮、または100円以下の罰金に該当する軽罪
3 刑法第2編第1章を除く軽罪で、罰金200円以下または禁錮2年以下に該当する軽罪または300円以下の罰金に該当し、その情状が2に掲げた刑より更に重い刑 に処することを要しないと認め地方裁判所若くはその支部の検事局より区裁判所に移付したるもの等

このように千葉町は人事百般の裁決を下す所であり、弁護士や代書人、訴訟当事者が多く住み、また行き来するため、町の繁栄にも寄与している。

千葉町の裁判所の沿革
明治6年6月に印旛裁判所と木更津裁判所の二ヶ所が合併して千葉裁判所が設置される。
明治9年10月にその名称が廃されて東京裁判所千葉支庁と改められ、この時に千葉区裁判所が設置される。
明治15年1月には東京裁判所千葉支庁が廃止され、千葉県始審軽罪裁判所に改称され、千葉区裁判所は千葉治安裁判所に改められた。
明治22年11月、裁判所構成法の施行により、千葉地方裁判所と千葉区裁判所に改められた。

明治27年9月5日時点の職員は次の通りである。
従六位 所長判事 渡辺 暢
正七位 部長判事 横田秀雄
正七位勲六等判事 宮地美成
正七位判事 坂口直
従七位判事太田拡
従七位判事 大熊米太郎
正八位判事 平野正富
正八位判事 上松操
監督書記 大野秀之
書記(略)

検事局職員
正六位勲六等 検事正検事 大井治義
従七位検事 諸岡良位
監督書記内田有方
書記(略)

千葉区裁判所職員
監督判事 中岡藹
従七位判事 高橋良之輔
従七位 検事渡辺助治郎
司法官試補 検事代理藤波元雄
監督書記 芝沼明
書記(略)

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嘉永7年9月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年10月17日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年9月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(気になった部分のみ)。

嘉永7年は閏7月が存在したため、一か月ズレが生じています。年末の帰村で帳尻が合いますので、年内は一か月ズレたままとなります(今月は9月の日記となります)。 #五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
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嘉永7年9月1日(朔)(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御床下げ、楊枝削り。本日殿様は御登城。正六ツ半時に出発(御本供)、九ツ時に御帰館。八ツ半過ぎ、幸左衛門殿は松枝町の借家へ行って泊まり。良左衛門君が江戸に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・殿様の御登城日。正六ツ半(午前7時)出発で、御帰館が九ツ(正午〜午後1時)ですから、現代よりも早い。現代は夜型です。
・幽学先生の一番弟子格の良左衛門は、息子(良祐)の結婚の関係で村に戻っていました(8月22日条)。必要な用を済ませただけですぐに江戸に戻ってきたようです。
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嘉永7年9月2日(1854年)非番
#五郎兵衛の日記
掃除、楊枝削り。八ツ半時に松枝町の借家へ行くと、幽学先生、良左衛門君と大家の三人で碁を打っていた。晩の九ツ時まで碁を打っていて、借家に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
休みを利用して松枝町の借家へ行くと、幽学先生、碁を打っていました。幽学先生が碁を打つことが記録されているのは珍しい。ついこの間までは、五郎兵衛が借家に来ると、幽学先生は顔も見たくないと、出かけてしまっていましたから、落ち着きを取り戻した光景です。

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嘉永7年9月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、幽学先生からの奉公の心得。
「五郎兵衛よ、藪様での御奉公は何から何まで気をつけ、御家中衆が感心されるように勤めるのだぞ、親切で実意を尽くすのだ」
御屋敷に戻る。初午の準備で忙しい。夕方から御家中衆は酒盛り。小生は九ツ半から夜番。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・五郎兵衛は旗本藪家で江戸滞在費稼ぎのバイト(奉公)をしています。幽学先生からは、奉公先で御家中衆が感心されるように勤めよ、とのお言葉。屋敷に戻ると、明日は初午の祭りなので、奉公人は初午の準備に忙しく、一方で御家中衆は酒盛り。
・「初午祭」は稲荷神社の祭りです。毎年2月の最初の午の日=初午(はつうま)の日に行われるとされていますが、なぜか今回の日記では9月です。

〈詳訳〉
六ツ時に起床。借家で朝飯を食べる。帰りがけに、幽学先生からお声をかけられた。「五郎兵衛よ、藪様での御奉公は何から何まで気をつけ、御家中衆が感心されるように勤めるのだぞ、親切で実意を尽くすのだ。性学者と名乗りながら、つまらない者と思われてしまうようでは道がすたる。これまで学んだことを、一緒に奉公している幸左衛門や宜平とよく相談して、日々過ごすようにしなさい」
五ツ時、借家を出る。藪様の御屋敷に戻って、宜平殿と二人で髮結い。
初午の仕度のため、御用多し。
昼より幸左衛門殿、宜平殿と三人で薬店の湯に入る。
宜平殿は松枝町の借家に行った(本日泊まり)。御屋敷に戻ってから、楊枝づくり。暮れに御床上げ、四ツ半頃迄御次で御家中衆は酒盛。九ツ半から夜番を勤める。


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嘉永7年9月4日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
朝掃除、御床下げ。初午の祭礼で賑わしい。御用多く、九ツまで夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は昨夜は途中から夜番、今日は本番ですから、ほとんど寝ていないのではないでしょうか(それとも暇を見て寝ているのか)。初午の祭礼ですが、奉公人は楽しむ余裕もなく、様々な仕事をこなされなければなりません。

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嘉永7年9月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番だが、平作が二日酔い(原文:「前夜の酒つかれ」)のため添番。朝掃除、時触れ。夕方御床上げ。九ツ半から夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
同僚の平作が二日酔い。昨日は初午祭で、かなり飲んだのでしょう。五郎兵衛は休みの予定を返上して、添番勤めです。五郎兵衛が幽学先生に会いにいくのに、シフトを替わってもらうこともありますから、この辺りはお互い様です。

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嘉永7年9月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番だったが、同僚の平作が病気というので勤めを替わる。朝掃除、宜平殿と二人で御床下げ、時触れ。九ツ時に宜平殿と湯に行き、帰りに芋一俵買って帰る。平作は夜に用事があるとのことで下町へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、平作のために本日も休みを返上して仕事。平作は「病気」を理由としていますが、夜に下町に行っているところをみると、どうやらサボりのようです。

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嘉永7年9月7日(1854年)添番
#五郎兵衛の日記
・朝掃除、楊枝削り。昼から池田様に頼まれ牛込の質屋へ、田中様に頼まれ飯田町へ行く。暮れ方に御床上げ。九ツから夜番も勤める。
・幸左衛門殿と宜平殿は七ツ時に松枝町へ行き、泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の記事に出てくる「池田様」「田中様」は藪様家のご家中と思われます。池田様からは、牛込の質屋に行ってくれとのオーダーが出ています。藪家の用事か、個人の用事なのか判然としませんが、いずれにせよ武家の財政が楽ではないことが窺えます。わ

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嘉永7年9月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番だったが、松枝町の借家に行くため、平作殿に仕事を替わってもらう。四ツ時に出たが、御成りがあり、小川町出口で止められる。借家に九ツ過ぎ着。この日、借家に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛がいる旗本藪様の御屋敷は番町にあり、神田松枝町の借家までは4キロほどですから、いつもなら1時間あれば行ける距離です。しかし、今日は御成りがあり、通行規制がかかっているため、小川町出口で足止め。借家についたのは九つ過ぎというので、2時間以上かかったのかもしれません。

〈詳訳〉
・本日は本番で朝掃除、御床下げまでしたが、
松枝町の借家に行くため、以降の仕事は平作殿にお願いした。
・髪結いの後、四ツ時に出発。しかし、御成りがあり、小川町出口で足止め。松枝町の借家に到着したのは九ツ過ぎ。
・文平・儀八が来ていて、腰物についての話しをした。文平から国元の様子を色々伺った。
・稲荷下の太次兵衛が今回の出府について相談に来た。
・龍角の七郎右衛門殿から手紙が届いたので、返書を作成。幽学先生に確認してもらいってから送る。
・夕方、節五郎殿が来る。国元へ送る手紙を認める。田安家の磯部様の御検見前に国元の問題をお頼みしなければならない。
・そんな話しをしていたら、小生が土用の日程を間違えていたことが分かった。幽学先生からは、「そんな大切なことをなをざりにして大丈夫か。奉公勤めばかりに気がいってしまっているのではないか。」と心配をおかけしてしまった。
・夜、借家に泊まり。

(解説)
「検見」とは
検見(毛見)
之は収税吏が毎年村方に出張して坪苅を行ひ、田一坪当り初幾合の収穫あるか、合毛を 実見して其の村田地の総収穫を算出し、其の年の取米を定むる方法である。
(中田 薫『日本法制史講義』)

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嘉永7年9月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
暗いうちから良左衛門君起き出し、炊事を始める。朝食後、幽学先生から「五郎兵衛よ、まだ食べることが気になっているな。そんなことでは、予はいつまでも安心できないぞ」とご指導いただく。七ツ時に御屋敷に戻り、夕方から仕事。九ツ半から夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日は松枝町の借家に泊まった五郎兵衛。幽学先生から食欲にとらわれないようにと注意を受けてしまいました。五郎兵衛、やはり食いしん坊のようです。

〈詳訳〉
・七ツ時に良左衛門君が炊飯を始めたため、皆起きて御茶の準備。幽学先生もお目覚めされ、お茶をお出しした。
・食事を終えると、幽学先生からお話し。
「五郎兵衛よ、まだ食べることが気になっているな。そんなことでは、予はいつまでも安心できない。このことさえ、改善してくれれば、予も気楽になれるのだ。自分で食べるよりも人に振舞いたくなり、それが楽だという腹になってほしい。汚い根性が無くなれば、予の前でも遠慮なく、誠に気持ちも良く、清々としていられるだろう。食べ物に執着しているような心境では、何かと気が引けて、心も清らかではなく、実につまらない。良いことをすれば、後から気持ちも良くなる、楽しみも尽きることがなくなる、また多くの人にも慕われる、人のことを思う心になれば良いだけである、難しいことは何もないと、色々とご指導いただいた。
・文平と儀八が幽学先生に暇乞い。江戸から出立。扇橋から船に乗るというので、浜町まで一緒に行った。
・本町で安達様から頼まれた葛を買い、両替町で髪付油を買って四ツ時に御屋敷に戻る。
・昼より田中様からの頼まれ事で、酒井雅楽頭様御屋敷にお使いに行き、七ツ時に戻り、夕方には御弓場の片付け、御床上げ。九ツ半から夜番も勤める。

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嘉永7年9月10日(1854年)本番
#五郎兵衛の日記
早朝に麹町の大崎方へ給金を受取りに行ったが留主。御屋敷へ戻り、夜具上げ、楊枝削り、御弓場の設営。七ツ時に再度大崎方へ行き、暮六ツ頃迄待って、ようやく給金受け取り。九ツ迄夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「給金の受取り」というのは、これまでの記事に出てこないので、何の給金なのかははっきりしません。奉公人の給金であれば、給料の支払い方が現代とは違い、職場ではなく、別のところで支払われることに仕組みであったことになりますが…

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ひものやとの休戦成立 文政12年10月上旬・色川三中「家事志」

2024年10月14日 | 色川三中
ひものやとの休戦成立 文政12年10月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年10月朔(1日)(1829年)晴
九ツ過ぎ、入江氏と栗山氏が来られる。町年寄の退役につき話す。一、二年町年寄として名前を残しておかれてはどうかとも勧められたが、固くお断りした。私の病気と経営悪化のため辞職を希望し、夕方に別れた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の町年寄の退役問題は、なかなか決着がつきません。任命してから1年も経っていないので、藩の面子もありますし、名主としてもそう簡単に三中の辞任を認めるわけにもいかないのでしょう。

〈詳訳〉
九ツ過ぎに入江氏(名主)が来られたので、栗山氏(町年寄)もお招きし、酒肴を出して話しあった。
私「町年寄を辞めないようにとの御上(土浦藩)からの御意向は承知していますが、辞めざるをえない理由につきましては、これまで申し上げてきたとおりですので、お二人の仲介で何卒宜しくお取り計らい下さい。心中に何か含みがあって町年寄を辞めようとしているのではありません。只々病気の上に、経営の悪化が重なり、このままでは倒産ということにもなりかねないのです。そのような心配をしながらでは、町年寄の仕事も行き届きかねますので、内々に申上げた通りに御上にご伝達頂けますよう、お願い致します。」

入江氏と栗山氏「それならば、まず一、二年ほど名前だけでも出しておいて、その後また職務に就くようにすればよいのではないか。貴君が今すぐ辞めるとなると、町年寄に再任できないかもしれない。それでは問題が多いので、まず一、二年ほど名前だけでも残しておいて、その上で様子を見ながら職務を務めてははどうか」

私「いや、それではご親切の余りに私の勝手を押し通すこととなり、他の町年寄の方の勤めにも悪影響を及ぼしますので、そのようなことは考えておりません。」とお伝えた。

お二人「では、加役ということではどうでしょうか。このことは今まで申し上げなかったけれども、やむを得ないのであれば、そのようにすることも考えております」

私「私は多病であり、かつ経営もままなりません。土浦の御城下で暮らしができていること、先祖が町年寄を勤めてきたことには感謝しておりますが、病気で務めを果たすことができないのは、どうしようもありません。町年寄を辞めることは、他の町役人にも心配をかけ、 御上様にも申し訳ありません。いろいろとご配慮いただいていることには大変感謝していますが、どうしたら良いのでしょう。
平百姓に戻った上で加役を勤めるといいますが、町年寄を勤める以前と同様、単なる平百姓として世間が見てくれればよいのですが、決してそのようには見てくれないでしょう。町年寄を勤める力もないのに、私が自ら役から退くことができないことをとやかくいうことでしょう。世間の人々の評判はどうでも良いとしても、先祖に対しては不本意であり、忠孝を果たしていないのではないかと心配です。
私はもう勤めることはできないとのことを御上に対していうのは恐れ多いことですが、できましたらこの際、退役を命じていただきたく思います。それが不肖私にとっては幸せなことでございます」
そのほかにも相談したことがあり、いろいろと話し合い(大町の隠売女の事についても内々に話した)、夕方には別れた。


〈その他の記事〉
・今年の年貢を中城町分は免除となった。今年の水害は、6年前(申年)に比べると水位は約5寸(約15cm)低かったし、田中(現土浦市田中)のあたりでは被害のなかった田も多くあった。しかし、今年は収穫の少ない者が多かった。
そのため、田地に相掛り候分は、残らず不残掛り物をすべて小作人に割りつけるようにし、定家(田地の管理者?)にもその旨伝えた。小前にも人によってはそのような対応とする。なお、凶作の影響を受けた者の分は、影響を受けなかった者一同に一括して割りかけするつもりである。
・ひものや鉄五郎の組合の者が全員で昨日と今日詫びに来た。組合もいろいろ不行き届きな点が多く、表向きは体裁を整えるためのものにしか見えない。鉄五郎の不行き届きの件は、名主に適切に処置してもらうつもりである。
・昨日、隣主人の向かいにある酒店の横田治右衛門が、いせや治右衛門と改名し、一軒前に引っ越した。お祝いに酒一升を持参した。


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文政12年10月2日(1829年)
三中先生本日は休筆です(本日だけ。明日には再開です)
#色川三中 #家事志

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文政12年10月3日(1829年)
〈ひものや〉の件。ひものや鉄五郎は大家(色川家)への謝罪を相変わらず拒否。
鉄五郎の組合(五人組)は、謝罪したいが、本人が嫌だといっているので困ってしまい、とりあえずそのことを伝えに来た、と。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものや鉄五郎とのトラブルは、相変わらず鉄五郎が謝罪を拒否しており、膠着状態。他の五人組のメンバーも、鉄五郎の訳の分からない対応に困り果ててしまっています。

〈詳訳〉
ひものや鉄五郎の組合(五人組)全員が夕方に久松時右衛門(ひものやの代理人)のところへ集まり、以下のように申し出た。
「ひものやさんから、依頼があれば、組合の方でも大家さん(色川家)に謝罪致しましょう。しかし、依頼がないので、組合としてはどうすることもできません」
ひものや鉄五郎は組合への依頼を拒否したと、今朝久松から組合に連絡があったとのことである。そのようなことで、組合としては、謝罪致しかねることになってしまったと組合の者が挨拶にきた。

〈その他の記事〉
・入江氏(名主)が惣益講を初めて開催した。一本、金一両掛。一本の名前で半口を懸けた。
・夜になってから、入江のところに行った。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年10月4日(1829年)晴
ひものや鉄五郎の組合(五人組)の者が、全員で各戸を回って挨拶をしていた。安達権七からのたってと頼みという。ひものやが協力してくれないので、組合も苦しい立場なのであろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件の続き。ひものや鉄五郎の組合は、本人の意向もあって謝罪をするわけにもいかないので、困った挙げ句、各戸を回っての挨拶作戦に出たようです。さて、この作戦功を奏しますでしょうか。

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文政12年10月5日(1829年)曇
・小田三造殿が御出でになられ、初めてお会いすることができた。様々なお話しをした。
・夜に、ひものやの件で栗山氏(町年寄)のところに行き、打合せ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件の続き。鉄五郎の組合は、困り果てて、各戸を回っての挨拶作戦を展開。この動きを見て三中は何か思うところがあったのか、
栗山氏(町年寄)のところに行き、打合せ。妥協点を見出すことができるでしょうか。

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文政12年10月6日(1829年)雨
・夫食願を行った。
・飢饉はもう目の前だ。我が家も周囲も不作。食料確保のため稗を作り始めた。15年前は稗を食べていたのに、今は下男下女も稗を食べない。なんと不思議なことか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「夫食願」とは、自然災害で凶作と成り、夫食米を拝借を願うこと。夫食(ぶじき)とは、江戸時代の農民の食糧のことです。三中は飢饉が目前に迫っていると危機感をあらわにしています。稗を作らない豊かな世の中になったようですが、それだけに飢饉には弱い社会になっているようです。

〈詳訳〉
よくよく今の世の有様を見てみると、既に飢饉間近である。この頃は当家も不作であるし、在々のものも甚だ収穫量が少なく、食べ物も少なくなっている。そこで、稗を作ることとした。十五六年前には稗を多く作って、我家にも折々食事に稗が出てきたものだ。しかし、この頃は皆稗を作らないし、食べない。下男下女でも稗をふかして食事をするというものが一人もいない。心有る人はこれを不思議と思わずにはいられないだろう。

〈夫食願のメモ〉
東崎町小前の者へ
- 金17両2分2朱
- 永16文5分1厘5毛
- 1軒につき以下を配給する
- 穀麦1斗5升
- 稗2斗

中城町小前の者へ
- 金10両
- その他上記と同じ
近年、度々出水が発生しており、特に今年は洪水が発生し、田畑が皆損となり、夫食(ぶじき;食糧)にも支障が生じたため、上記のとおの仰せがあったものである。

夫食代:
東崎町取分6軒
- 金2分永68文1分8厘1毛ずつ
- 碑6斗2升5合ずつ
中城町4軒
-金1分2朱、永3文7分8厘7毛ずつ
- その他上記と同じ

穢多共へ
- 金2両1分銀5匁
- 1軒あたり金1分5匁ずつ


〈その他の記事〉
・大町の吉兵衛の水小屋について。従前の水小屋は文化3年(寅年)築で手狭となったため、土手の上に新たに建設したいとの願い出があり、承認された。
・北条新町の関清右衛門の組合の者2人が書状持参で来られた。「記兵衛」が昨5日に病死し、葬式は本日6日に行われるとのこと。記兵衛は当家に勤めていたが、惣三郎が分家した際に、分家の従業員とした者である。


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文政12年10月7日(1829年) 晴
夜、入江(名主)と話す。「ひものや鉄五郎の件、組合のものが一同で詫びているので、今年は賃料さえ払ってくれれば、そのままでよいことにしたい」と自分の考えを話す。入江もこれに賛同。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやさんとの件、三中はついに落としどころを見つけました。今年は賃料の支払いを条件として現状維持で合意したいと。名主も賛同してくれましたし、この線で話しが進みそうです。

〈その他の記事〉
・茂吉と嘉兵衛が鹿島へ行商に出立した。


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文政12年10月8日(1829年)
朝、ひものや鉄五郎の組合(五人組)のところに叔父の利兵衛殿に行ってもらい、「何度も来て謝っていただくのもお気の毒ですから、もうそこまでされなくて結構ですよ」と話しをしてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件の続き。鉄五郎の組合は、各戸を回っての挨拶作戦を展開。その効果か三中は今年限りは現状維持という妥協策を提案することになりました。組合としては大成功。もっとも、ひものやさんは全然反省していないので、一時的な休戦といったところでしょうか。


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文政12年10月9日(1829年)曇
七ツ過時に、ひものや鉄五郎の組合の者と会う。藩には今年一杯は現状維持を願い出ることを話した。組合の者が同意したので、夜に入江(名主)にも話しを通した。この内容で藩に願い出ることとする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件、休戦に向けて、丁寧に合意形成をしていっています。組合との話し合い、名主の了解を経て、藩に願出をするというプロセス。常識的ではありますが、ひものやさんが滅茶苦茶なだけに、三中の落ち着きが際立ちます。三中はまだ20代後半なのですが、町年寄に抜擢されるだけあって、大したものです。


〈詳訳〉
七ツ過時に、ひものや鉄五郎の組合(五人組)の者と会う。ひものやの不法占拠は、とりあえず今年は御勘弁を藩に願出ると話した。組合の者は承知致しました。そのとおりにお願い致します。」と述べたので、その旨藩に願い出ることとした。
夜に、入江(名主)のところにへ、ひものや鉄五郎の組合の者が行き、先ほどの話し合いの内容を伝え、入江はこれを承知したとのこと。


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文政12年10月10日(1829年)雨
・ひものや鉄五郎の件は、暮れまで現状維持ということで話はまとまり、藩からもお認めいただいた。
・鉄五郎は藩の役人に対して無礼な態度をとったため、「遠慮」の処分となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
ひものやの件、民事的には、年内は現状維持で藩の認可も出て、休戦成立です。しかし、ひものや鉄五郎の無礼な態度は、藩の役人の心証を害し、「遠慮」の処分をされてしまいました。

(その他の記事)
・御公儀様の御姫様が着用された裳が、酒井若狭守様の御姫様に下賜され、それがこの度れいに下賜されることとなった。寺に納めるようにとのことである。御紋が切り抜かれていたので、縫って神龍寺に納めるつもりである。
・伊勢屋の出店の隠居が亡くなったことを昨日知った。本日、人を遣わした。香典は二朱。中城の伊勢屋本家に忠勤第一の人物であった。


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千葉県監獄署

2024年10月12日 | 歴史を振り返る
○千葉県監獄署
【はじめに】本稿は、松風散史編『千葉繁昌記』(明治28年)の「千葉県監獄署」の項を現代語訳したものです。監獄は現在の刑務所です。現在は国(法務省)の施設ですが、当時は県の管轄でした。
現在千葉刑務所は千葉市貝塚町にありますが、当時は寒川(現千葉市中央区寒川)にありました。寒川の地に監獄があったのは、1874(明治7)年から1907(明治40)年までの33年間です。寒川にあった監獄について書かれているものは少ないので、参考になります。

千葉刑務所前史~寒川監獄 - 南斗屋のブログ

ググればたちどころにいろいろなことがわかってしまう世の中である。しかし、書かれていないことも多い。インターネット上に誰かが情報を載せてくれているから、知識が伝わ...

goo blog


 
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○千葉県監獄署
監獄署は県庁の一部に属しており、拘留、禁錮、禁獄、懲役に処せられた者、および婦女で徒刑に処せられた者を収容し、また未決囚を拘留する。この監獄は県庁から数町離れたところに位置している(千葉町寒川片町)。昔、この場所は佐倉藩の米倉であり、その中には米倉をそのまま獄舎にした部分もあったという。この監獄を新しい場所に移して新築しようとする計画があり、設計も終わり、担当者は県内の著名な林業者から材木の払い下げを受ける手続きを完了したものの、残念ながら、いまだ昔のままの状態である。囚人に対しては、明治22年7月の勅令第93号の監獄則の改正により、以前よりも大いに寛大になったといわれている。

囚人の従事している作業(明治27年8月現在)
●抄紙工(男163名)
●簾工(男5名)
●機織工(男98名)
●染工(男3名)
●裁縫(女24名)
●麻工(男49名)
●鍛冶工(男)
●鉄葉工(男1名)
●理髮工(男1名)
●木工 (男9名)
●米麦搗工
●水引工(男)
●罫紙摺工(男)
●外役土工(男)
●藁工同(男145名)
●小亀形工(男42名)
●陶器工(男29名)
●炊夫工(男19名)
●看病夫工 (男4名)
●掃除夫工(男27名)

上記のように就役後は工業に従事し、作業開始からが100日経過により各自の工賃を定め、が決められます。重罪の囚人には10分の2、軽罪の囚人には10分の4、無定役の囚人や懲治人および刑事被告人で作業を行う者には10分の6が与えられると規定されている。獄則を遵守し工業に勉励する者には、報奨金が与えられる。
また、教誨師により、罪を悔い改め善へと導く道を教えられる。16歳未満の囚人や懲治人には、毎日4時間以内で読書、習字、算術を教え、懲治人には毎日5時間以内で農業や工芸が教える。
現在の担当官吏は以下のとおり。
監獄長 正八位 千石 学
○第一課
監獄書記兼看守長 長 阿部武之進
看守長兼監督書記 三恵由哲
武藤周蔵
教誨師 富士原 大岳
○第二課
看守長兼書記 長 大須賀光顕
看守長兼書記 白坂旅
小泉扇造
兼看守教習所教師 河村新蔵
麻生德三

○第三課
監獄書記兼看守長
長心得 菅谷寅四郎
天野六三
鈴木駒次郎
監獄署傭野 中 富次郎
村井孝一郎
萩野恭斉
宗像正七
川口貞吉
尾形栄性
安達盛義

医務所
兼千葉病院司療医 長監獄医 森理 記
酒井巻二
小沿東逸

看守教習所
長 大須賀光顕
第二課僚 教師小泉扇造

看守(以下略)


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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第八回講義

2024年10月10日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第八回講義
(明治18年5月15日)

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(はじめに)
本日は第二款「私訴の施行に関する規則」から説明致しましょう。
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第二款「私訴の施行に関する規則」

(付帯私訴が許される理由)
判決を行う権限は民事裁判所及び刑事裁判所に属します。民事事件は民事裁判所で担当し、刑事事件は刑事裁判所で担当します。
このように民刑という二個の裁判所があるのですから、刑事事件の公訴は刑事裁判所に行い、私訴は刑事事件を契機として起こった場合でも、民=民の争いですから、民事裁判所に提起することになるはずです。
しかし、法律上特に私訴 を刑事裁判所に提起することが許されています。その理由は次のとおりです。
①公訴と私訴の証拠を共通とすることができる
②公訴と私訴を同じ裁判所で裁判することで、事務が簡便となり、公訴と私訴の裁判に齟齬がなくなる
③民事の原告人を保護するという観点からも、公訴に付帯して私訴を行うことを認めた方が良い。
民事と刑事の2つの訴えが同時に別の裁判所に提起された場合、民事裁判所では刑事裁判が終わるまで裁判を中止せざるをえません。そのため、民事の原告人は刑事判決があるまで待たされることになります。被害者に一日でも早く損害を回復させるためには、公訴に付帯して私訴を行うことを認めた方が良いのです。
さらに、④私訴を刑事裁判所に提起することを認めると、民事の原告人は検察官を助けて証拠を提出し、それによって犯罪を証明し確実なものとすることができるという利点もあります。
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次に、私訴の施行に関する規則を三節に分けて説明しましょう。

第一節 民事原告人は裁判所選択権があること
犯罪によって損害を受けた者は、民事裁判所と刑事裁判所のどちらかを選んで訴える権利があります。このような選択権があることは、民事原告人にとって利益ですが、民事原告人が刑事裁判所で訴えを起こす際には、一定の制約があります。それは公訴に付帯させる必要があるということです。
民事原告人が刑事裁判所に私訴を行うには公訴と分離独立してこれを行うことはできず、公訴に付帯してしなければなりません。
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(付帯私訴の方法)
付帯私訴を行うには2つ方法があります。1つは検察官の起訴がある時に、私訴の申立て行う方法、もう1つは予審判事に対して私訴の申し立てをすることです。
民事原告人が刑事裁判所に私訴を行うときは、通常民事裁判所の事物管轄に制約されません。治罪法第4条に「私訴はその金額の多寡に拘わらず公訴に附帯して刑事裁判所にこれを為すことを得」との規定があるからです。
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(民事裁判所の事物管轄と付帯私訴)
民事裁判所の事物管轄は次の規定があります(明治14年12月第83号布告)。
第2条「治安裁判所は請求の金額及び価額100円未滿の訴訟に付き始審の裁判を為す」
第4条「始審裁判所は請求の金額及び価額100円以上並びに第3条に揭げる治安裁判所権外の訴訟につき始審の裁判を為す」
以上のように、民事訴訟では金額100円以上となると、治安裁判所に訴えを提起できません。
しかし、刑事事件での付帯私訴ではこの制限を受けず、損害の金額100円以上であっても違警罪裁判所(治安裁判所)に提起できます。また民事訴訟では金額100円未満のものは始審裁判所に訴えを提起することができませんが、刑事事件では損害額が100円未満であっても、軽罪裁判所(始審裁判所)に提起できます。
このように刑事裁判所に付帯私訴を提起する場合は、通常民事裁判所の事物管轄の制限を受けません。
━━
(付帯私訴ができない刑事裁判所)
もっとも、例外はあります。治罪法第4条但書が「法律においてその裁判所に私訴を為すことを許さない場合はこの限りにあらず」と規定されめいるとおりです。「私訴を為すことを許さない場合」とは、次のものです。
①陸軍治罪法第1条第2項「軍法会議は刑事付帯の民事を受理せず」
②海軍治罪法第1条「海軍軍人の犯した重罪・軽罪は軍法会議においてこれを審判す。軍法会議は刑事付帯の民事を受理せず」

現行法では例外はこの2つですが、治罪法第4条に「私訴を為すことを許さざる場合はこの限りにあらず」とあり、後日法律で規定されることが予定されていると見ることができます。
━━
(フランスにおける例外)
フランスでは、これ以外にも私訴ができないものがあります。会計官吏の犯罪です。
日本では会計官吏の犯罪は、他の犯罪と同様に通常裁判所で審判しますが、フランスでは会計検査院が審判し、通常裁判所には管轄がありません。
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(軍事裁判所で付帯私訴を認めない理由)
陸海軍裁判所が付帯私訴を許さないのは、軍事裁判所が厳格を主とすることから、私訴の審判に適さないからです。また、軍人が裁判官を務めることからは、民間の争論を判決するに適さないのです。
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(高等法院で付帯私訴を受理すべきか)
高等法院では、付帯私訴を受理すべきでしょうか。このような問題が起こることは稀有ではありますが、法的には重要な問題です。
治罪法第91条には、「高等法院の訴訟手続きは、通常の規則に従う」と規定され、また、同法第4条には「その裁判所に私訴をなすことを許さない場合はこの限りではない」と規定されており、高等法院に私訴を許さないとの規定は存在しません。そうしますと、条文上からは高等法院でも私訴を受理することは可能なように見えます。
しかし、私は法理論上の理由から、高等法院での私訴は許されないと考えます。高等法院は、通常裁判所とは異なります。審判事項は皇族・貴顕の犯罪及び国事犯であり、いずれも一国の大事件です。また、高等法院では大審院判事及び元老院議官が裁判官となります。このように高等法院は特殊であり、皇族・大臣の犯罪及び国事犯のような大事件を審判するのは通常裁判所の適任ではないので、一種特別の裁判所を設けたといえるでしょう。
このような裁判所で、一私人の争論に過ぎない私訴を審判するのは当を得ないものと考えます。それだけでなく、私訴の審判をなすことは、高等法院の尊厳を冒涜するものともいえます。高等法院を設けた趣旨からして、一私人の争論の審判といったような瑣事を任せるべき機関ではありません。よって、条文上は高等法院に私訴を提起することが禁止されていなくても、法理論上の理由から高等法院には私訴を提起できないと考えざるを得ません。
この点フランスはどうかといいますと、日本と同じく治罪法中には明文の規定はなく、通常裁判所の原則を適用するか否か解決がついておらません。この点の裁判例もありません。
━━
(私訴移転ができるか)
私訴は、民事刑事どちらの裁判所を選んで提起してもよいのですが、一度どちらかの裁判所を選んで提起した場合に、他の裁判所に私訴を提起することができるかという問題があります。
ローマ時代には、一度どちらかの裁判所を選んで提起した場合には、他の裁判所に訴えの提起をすることは許されませんでした。
フランス法では、この点についての明文がなく、どのように解すべきか問題となっています。
我が国では、この点明文をもって規定していますが、その規定の趣旨について知るためには、往古に遡って検討する必要があります。
━━
(ローマ法及びフランスでの考え方)
ローマ法では「ひとたびある道を選んだときは、他の道は閉ざされてしまう」との格言に基づき、一度どちらかの裁判所を選んで提起した場合には、他の裁判所に変えることはでき混ぜんでした。
フランスでは、法学者の間で説が分かれています。
第一説はローマ法と同様、 一度どちらかの裁判所を選んで提起した場合には変更はできないとするものです。
第二説は、当初民事裁判所に訴えを提起したときは、刑事裁判所に訴えを提起することはできないが、先に刑事裁判所に訴えを提起した場合は、改めて民事裁判所に訴えることができるとしています。
第一説は次のように考えるものです。
「もともと人には選択の自由があり、法律がこれを禁じてない以上は、人がその欲するところに従い、変更することは自由である。しかし、法律手続きにおいてはこのような自由を許すべきではない。よって、一度ある裁判所に訴えを提起したときは、他の裁判所に訴えを提起することはできない」
第二説は次のように考えるものです。
「刑事裁判所は厳格な性質をもっているが、民事裁判所は緩容な性質をもっている。被告人の立場からみて、緩から厳に移るのであれば、被告人の権利を害することはないが、厳から緩に移るのであれば、被告人の権利を害するおそれがない。よって、刑事裁判所から民事裁判所に移すことは許されるが、民事裁判所から刑事裁判所に移すことを許されない。」
━━
(日本の治罪法の規定)
我が国の治罪法は次のように規定しています。
第7条第1項「民事裁判所に私訴を行ったときは、検察官の起訴があるときでなければ、願下げを行って、刑事裁判所にその訴えを提起することができない」
第2項「刑事裁判所に私訴を提起したときは、被告人の承諾を得て願下げをなして、民事裁判所にその訴えを提起することができる」
このような規定としたのは妥当と考えられます。
━━
(民事裁判所から刑事裁判所への私訴移転)
裁判所から刑事裁判所に訴えを移すことができるのは、検察官が起訴を行った場合に限ると規定されていますが、これは被告人の利益のためです。なぜなら、民事裁判所で訴えが提起されている途中で、刑事訴訟が開始されると、民事訴訟は中止となり、刑事裁判の終了を待たなければならないからです。
これを刑事裁判所に移すことができるとすれば、原告と被告の双方がその権利を保護できるのはもちろんのこと、同時に付帯する事件を裁判することができますので、被告人にとって利益は少なくありません。
━━
(刑事裁判所への私訴移転の利点)
さらに、検察官が起訴を行ったことで、刑事裁判所に私訴を移すことができる利点としては次の3点があります。
①被告人は少なくとも一度は法廷に出ざるを得ず、出廷回数を減らすことができること
②検察官が犯罪を証明するのに、原告人の援助を得ることができること
③同一の事件を同一の裁判所で審判することにより迅速かつ簡便な処理ができること

━━
(刑事裁判所から民事裁判所への付帯私訴の移転)
また、一度刑事裁判所に私訴を行ったときは、
被告人の承諾がなければ、私訴を民事裁判所に移すことはできません。これは、民事原告人の意向だけで、被告人に不利益を与えることを防ぐためです。
原告人が当初刑事裁判所に付帯私訴を提起したのに、これを民事裁判所に移すというのは、刑事裁判所の審判が自分に不利だと判断するからでしょう。このようなことを許すと、被告人の不利益となるため、一旦刑事裁判所で私訴を提起した場合は、被告人の承諾がなければ、民事裁判所に訴訟を移すことはできないと規定したのです。
被告人が移転を承諾する例としては、刑事裁判の審理が遅延する等、刑事裁判所での審理が不適当だという被告人が考える場合には、民事裁判所に移すこと場合が考えられます。
以上、原告人がその訴訟を民事裁判所から刑事裁判所に移す場合、また刑事裁判所から民事裁判所に移す場合の詳細について説明しましたので、諸君も理解されたことでしょう。
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(治罪法第7条の適用要件)
このことから考えるに、治罪法第7条は私訴移転の制限法ということになります。原告人の立場からみると、権利を制約することになります。
原告人に治罪法第7条を適用するのは次の三要件が必要です。
①訴訟の目的が同一であること
②訴訟の原因が同一であること
③訴訟人が同一であること
以上の三つの要件を満たさない場合、原告人には治罪法第7条を適用することができません。以下例を示します。
━━
(第一の例 離婚と損害賠償請求)
第一の例として、犯姦罪(姦通罪)のケースをとりあげます。
夫が姦婦(妻)に対して賠償を求め、その後離婚を請求した場合はどうでしょうか。この場合、原因と訴訟人は同一ですが、目的が大きく異なります。つまり、一方は離婚を求め、もう一方は損害賠償を求めているのです。このように目的が異なる場合は、治罪法第7条を適用する要件を満たしていません。よって、離婚請求を民事裁判所に訴えることは、被告人の承諾を必要としません。
民事裁判所で離婚を訴えた後に、刑事裁判所で損害賠償を求めた場合はどうでしょうか。
この場合は、検察官が起訴していなくても、原告人は公訴を提起することができます。訴訟の原因と訴訟人は同一ですが、その目的が異なるため、治罪法第7条を適用することはできないからです。
━━
(第二の例 委託物返還請求と財産犯)
第二の例として、民事裁判所で委託物の返還を求める訴訟を行っており、その審理中に詐欺による財産取得や寄託財産に関する犯罪であることが分かった場合について考えてみます。
この場合も、検察官が起訴するのを待たずに、公訴を提起することができます。
訴訟の目的と訴訟人は同一ですが、その原因が異なり、治罪法第7条を適用することができないからです。
━━
(第三の例 民事担当人への請求と本人への請求)
第三の例として、民事裁判所で民事担当人に対して損害賠償を求め、刑事裁判所で犯人に対して私訴を提起する場合を考えてみます。この場合、訴訟の目的と原因は同一ですが、訴訟人が異なるため、治罪法第7条を適用することはできません。
━━
(まとめ)
このように、治罪法第7条を適用するためには、訴訟の目的、原因、および訴訟人すべてが同一である必要があります。この三つの要件のいずれかが異なる場合には、同条を適用することはできません。
治罪法第7条についての説明は以上です。
民事原告人が刑事裁判所で私訴を提起することの可否については、次回お話し致します。
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