作家の大城立裕(おおしろ・たつひろ)氏が10月27日に亡くなった。95歳。老衰というから「大往生」である。大城立裕は沖縄で初めて芥川賞を受賞したことで知られる。最近ちゃんと読もうと思い始めて、今までに3回書いた。今後も続けるので書かなくてもいいような気もしたが、逆に書かないと変な気もするので書くことにした。残念だが遠からずこのような日が来ることは予想していた。90歳を超えても作品を発表していた大城氏だが、「90歳を超えて妻に先立たれた男性」の平均余命はそれほど長くはないのが現実だと考えていたのである。
今までに書いたのは、次の通り。①「焼け跡の高校教師」、②「カクテル・パーティー」、③「『レールの向こう』と『あなた』」 これではまだまだ「ちゃんと読んだ」とは言えない。だからもっと読みたいと思っているんだけど、それは「沖縄」と関係があるのは間違いない。ただ、僕が思うのは大城立裕の文学を「沖縄を描いた」という「ローカルな文学」として見てはいけないということだ。沖縄に生まれ、沖縄に住んでいたから、沖縄を描いたが、沖縄は「世界に通じている」のである。
だからといって大城文学が「日本文学から外れている」というわけではない。大城立裕は戦前に教育を受けていて、戦後は苛酷な米軍支配下で「日本語」で「文学」を書き続けた。つまり大城立裕のアイデンティティーは「日本語」と「日本文学」にある。そのことは「焼け跡の高校教師」の最後が「国語教育から文学を消してはならない」になっていることでも判る。しかし、その「日本文学」にはその地方独自の「伝統」や「地方語」(方言)による表現も含まれている。沖縄の伝統劇や組踊の原作も書いているのである。
(新作組踊「花の幻」と「花よ、とこしえに」の上演を前にして。大城立裕は前列右から2人目。2019年6月21日、浦添市の国立劇場おきなわで。=「琉球新報」)
2020年は1970年から半世紀。つまり「三島事件」が起こった年で、「三島由紀夫没後50年」という年にあたる。三島由紀夫は1925年1月14日生まれなのだが、実は大城立裕も1925年生まれなのである。もっとも9月19日生まれなので、日本の教育制度では一学年違うことになる。1925年生まれには、他にも丸谷才一、辻邦生、田中小実昌などがいる。1924年生まれには安部公房、吉行淳之介、吉本隆明ら。1926年生まれに井上光晴、星新一、山口瞳らがいる。ちなみに瀬戸内寂聴は1922年、ガルシア=マルケスとチェ・ゲバラは1928年生まれである。
大城立裕と三島由紀夫が同年生まれだとは普段は誰も意識しないだろう。「本土」では、もっと早く文壇で評価された人が多い。もちろん運不運もあるし年齢が高くなって作家になる人もいるわけだが、戦後文学史で「戦後派」とか「第三の新人」などと呼ばれた人たちとほぼ同じ年齢だったのである。しかし、「米軍統治下の沖縄」という歴史的現実によって、大城立裕の作家としての評価は遅れた。そして何かローカルな問題を扱う作家のように思われてしまいがちだ。
沖縄戦と米軍統治という大激動を受けて、沖縄出身作家として初めて大きな知名度をもった大城立裕は、ある意味沖縄に関することなら何でも書いた「百科全書」的な作家だった。前近代の歴史も、沖縄戦も、戦後の沖縄の民衆生活も、今なお色濃く残る「ユタ」などの沖縄の民俗事情も、ハワイなど海外に移住した沖縄出身者も書いている。そこが他に例を見ない「巨人的作家」だと思う理由である。方法的には時代的にも、普通の意味でも「リアリズム」が基本で、そこは後の世代の又吉栄喜や目取真俊などとは違って古風な感じもする。
(大城立裕追悼コーナーが作られたジュンク堂那覇店=沖縄タイムス)
だが沖縄戦を描いた「夏草」(新潮文庫「日本文学100年の名作」第8巻)を読むと、今まで読んだことがないような生命力あふれた「戦争文学」に驚くしかない。芥川賞受賞作「カクテル・パーティー」を読むと、単に米軍統治下の現実を描くに止まらず、日本の加害責任や米軍の性暴力などを扱っている。60年代半ばだったことを考えれば、驚くべき先見性だったと思う。しかも、その「性暴力」の被害者のその後を「戯曲版 カクテル・パーティー」で取り上げ、さらに米国の原爆投下を取り上げた。これらの視点は世界的に見ても「現代文学」だと思う。幾重にも積み重なった重層的な差別に投げ込まれている世界の多くの人々にとって、必ず意味を持つものだと思う。
今までに書いたのは、次の通り。①「焼け跡の高校教師」、②「カクテル・パーティー」、③「『レールの向こう』と『あなた』」 これではまだまだ「ちゃんと読んだ」とは言えない。だからもっと読みたいと思っているんだけど、それは「沖縄」と関係があるのは間違いない。ただ、僕が思うのは大城立裕の文学を「沖縄を描いた」という「ローカルな文学」として見てはいけないということだ。沖縄に生まれ、沖縄に住んでいたから、沖縄を描いたが、沖縄は「世界に通じている」のである。
だからといって大城文学が「日本文学から外れている」というわけではない。大城立裕は戦前に教育を受けていて、戦後は苛酷な米軍支配下で「日本語」で「文学」を書き続けた。つまり大城立裕のアイデンティティーは「日本語」と「日本文学」にある。そのことは「焼け跡の高校教師」の最後が「国語教育から文学を消してはならない」になっていることでも判る。しかし、その「日本文学」にはその地方独自の「伝統」や「地方語」(方言)による表現も含まれている。沖縄の伝統劇や組踊の原作も書いているのである。
(新作組踊「花の幻」と「花よ、とこしえに」の上演を前にして。大城立裕は前列右から2人目。2019年6月21日、浦添市の国立劇場おきなわで。=「琉球新報」)
2020年は1970年から半世紀。つまり「三島事件」が起こった年で、「三島由紀夫没後50年」という年にあたる。三島由紀夫は1925年1月14日生まれなのだが、実は大城立裕も1925年生まれなのである。もっとも9月19日生まれなので、日本の教育制度では一学年違うことになる。1925年生まれには、他にも丸谷才一、辻邦生、田中小実昌などがいる。1924年生まれには安部公房、吉行淳之介、吉本隆明ら。1926年生まれに井上光晴、星新一、山口瞳らがいる。ちなみに瀬戸内寂聴は1922年、ガルシア=マルケスとチェ・ゲバラは1928年生まれである。
大城立裕と三島由紀夫が同年生まれだとは普段は誰も意識しないだろう。「本土」では、もっと早く文壇で評価された人が多い。もちろん運不運もあるし年齢が高くなって作家になる人もいるわけだが、戦後文学史で「戦後派」とか「第三の新人」などと呼ばれた人たちとほぼ同じ年齢だったのである。しかし、「米軍統治下の沖縄」という歴史的現実によって、大城立裕の作家としての評価は遅れた。そして何かローカルな問題を扱う作家のように思われてしまいがちだ。
沖縄戦と米軍統治という大激動を受けて、沖縄出身作家として初めて大きな知名度をもった大城立裕は、ある意味沖縄に関することなら何でも書いた「百科全書」的な作家だった。前近代の歴史も、沖縄戦も、戦後の沖縄の民衆生活も、今なお色濃く残る「ユタ」などの沖縄の民俗事情も、ハワイなど海外に移住した沖縄出身者も書いている。そこが他に例を見ない「巨人的作家」だと思う理由である。方法的には時代的にも、普通の意味でも「リアリズム」が基本で、そこは後の世代の又吉栄喜や目取真俊などとは違って古風な感じもする。
(大城立裕追悼コーナーが作られたジュンク堂那覇店=沖縄タイムス)
だが沖縄戦を描いた「夏草」(新潮文庫「日本文学100年の名作」第8巻)を読むと、今まで読んだことがないような生命力あふれた「戦争文学」に驚くしかない。芥川賞受賞作「カクテル・パーティー」を読むと、単に米軍統治下の現実を描くに止まらず、日本の加害責任や米軍の性暴力などを扱っている。60年代半ばだったことを考えれば、驚くべき先見性だったと思う。しかも、その「性暴力」の被害者のその後を「戯曲版 カクテル・パーティー」で取り上げ、さらに米国の原爆投下を取り上げた。これらの視点は世界的に見ても「現代文学」だと思う。幾重にも積み重なった重層的な差別に投げ込まれている世界の多くの人々にとって、必ず意味を持つものだと思う。