尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

幸福な傑作「ミーナの行進」-小川洋子を読む②

2016年06月09日 00時12分33秒 | 本 (日本文学)
 小川洋子の最高傑作は、いろいろ考えもあろうかと思うが、今のところ僕は「猫を抱いて象と泳ぐ」(文春文庫)かなと思う。だけど、それより前に、なんとも素晴らしくステキな傑作があるので、それを最初に書いておきたい。2006年に刊行された「ミーナの行進」(中公文庫)である。第42回谷崎潤一郎賞を受けているが、歴代の谷崎賞の中でも賞の名前に一番ふさわしいかもしれない。

 人はなぜ作家になるのか。作家ごとに違うだろうが、それでも「幸せに浸りきっている」ような人は物語を必要としないだろうと思う。時代小説作家の藤沢周平は、病気や貧困を抱え仕事でも鬱屈していた時に小説を書き始めた。初期作品は登場人物が好き好んで自ら破滅への道をひた走るようなものが多く、作品世界が「暗い」と言われ続けた。作家として評価され、人気も出てきてからは、作品世界に広がりが出てきて、ユーモラスな描写も出てきたことで知られる。小川洋子も、生活自体は「不幸」とは言えないけれど、夫と子どもとペットがいても、それでも物語を求める心があったのだろう。

 だから、初期の作品は家族も友人もない主人公が多く、そういう人がさらに孤独を深めていき、ついには「自分」すら消滅させてしまうような作品が多い。それらの小説群も魅力的なのだが、21世紀になるとだんだんユーモラスで広がりを持った世界、読んだ人に幸せを残して終わるような作品も書かれるようになる。そんな中でも一番のお薦め、群を抜いて素晴らしくステキな小説が「ミーナの行進」である。とにかく面白い少女小説で、ワクワクさせられる。子供なりの「冒険小説」でもあるし、舞台となる兵庫県芦屋の描写も素晴らしい。そして、一種の「動物文学」という側面もあるのが素晴らしい。

 小川洋子は岡山出身だが、作中の少女「朋子」も岡山に住む。しかし、父が急死し、母が働くことになる。朋子が小6の年、母は洋裁の勉強を深めたく、一年間東京の学校へ行くことになった。その間、朋子は芦屋の大金持ちの家に嫁いだ叔母(母の妹)のところに住むことになった。親の反対を押して結婚したので、疎遠だった金持ちの家。初めて行ってなじめるか。そこには一つ年下で病弱な娘ミーナ(美奈子)が住んでいた。本が大好きなミーナとの一年間、それは案ずるまでもなく、素晴らしい日々になる。まず、住んでいる洋館が素晴らしい。その庭もすごい。昔は動物園もあり、今もコビトカバを飼っている。このコビトカバが大活躍するので、驚き。その場面を読んだ時には、思わず大笑いして拍手喝采してしまった。コビトカバが重要な役割を果たす小説なんて、世界に他にないと思う。

 二人の友情も面白く読めるのだが、同時に少しずつ「大人の世界」に踏み入れていく描写もうまい。歓迎してくれた叔父(叔母の夫で、家業の飲料メーカーの社長)は、なぜかすぐにいなくなり、誰もそのことを不思議に思わない。要するに「別宅がある」(愛人がいる)ということなんだろうとだんだんわかってきて、小さな心を痛めて「大冒険」をしてしまう。あるいは会社の飲料を届けてくれるお兄さんへの、少女のほのかな慕情。そして、病気で入院した時に燃え上がった男子バレーボールへの熱狂

 時は1972年だった。その年東海道新幹線が初めて岡山まで延伸した(山陽新幹線)。それに乗って朋子はやってくるわけである。そして、1972年と言えば、連合赤軍事件とあさま山荘事件である、ということはミーナと同年代と思われる小川洋子の作品にはさすがに出てこない。1972年と言えば、ミュンヘン五輪であり、金メダルを取った男子バレーである。猫田とか大古とか、松平監督とか。日本中が知っていた名前だが、ミーナも全然ボールを扱えないぐらい病弱なのに、バレー少女になってしまったのだ。ここが面白くて笑えて共感できる。あんなに弱っちいミーナがまさかスポーツ観戦にいかれちゃうとはねえ。だけど、多分日本中でそういう少女がいっぱいいたのである。そして、そのミュンヘン五輪はパレスチナゲリラのイスラエル選手団襲撃事件で暗転して終わることになった。

 そんな毎日が楽しくてたまらない日々にも終わりが来る。あれほど仲良くなったミーナとも、そうそう会えなくなる。小川洋子作品のことだから、どういう終わりになるのかドキドキして読むが、最後の最後に判ることもあるので、ここには書かないことにする。最初の方で、谷崎賞にふさわしい作品と書いたけれど、以上に書いたように、この作品は幸福であたたかな少女時代を扱っている。その意味では、「重い」作品が選ばれたことが多い谷崎賞の中では軽い感じもある。だが、谷崎「細雪」の舞台でもある芦屋、(ついでに言えば村上春樹の生地でもある)という重要な文学的トポス、芦屋をこれほど取り上げた小説は珍しい。その意味で、なるほどこれは谷崎賞だと思った。ちなみに小川洋子は岡山で結婚したのち、夫の転勤で2002年に芦屋に転居。愛犬「ラブ」と散歩した思い出のある町でもある。そして、僕の思うに、谷崎や村上春樹と同じぐらい、須賀敦子が生まれた町という意味が込められているかもしれない。地名が明記され、しかも上流階級が出てくるのは小川作品では珍しいが、「芦屋」という場所の力なんだと思う。幸せな気分になれるから、ぜひ読んでみて下さい。
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