尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

いつも動物が隣に-小川洋子を読む⑤

2016年06月12日 22時51分15秒 | 本 (日本文学)
 小川洋子の小説には(エッセイにも)動物がよく登場する。小鳥や、コビトカバ謎の動物などが。動物が好きな人、特に犬が出てくる話を書く人は、それだけで信用できる。僕も昔から動物が好きで、考古学者や歴史学者になりたいと思う前は動物学者になりたかったぐらい。動物が出てくる小説も大好きでずいぶん読んでいる。「動物文学」というジャンルもあるけど、「純文学」にこれだけ動物が出てくるのは小川洋子だけじゃないだろうか

 4回目に岡ノ谷一夫氏との対談「言葉の誕生を科学する」(河出文庫)を紹介したが、その岡ノ谷氏が「作品を書くにあたってお世話になった」という3人の中に挙げられているのが「ことり」(2012、朝日文庫、芸術選奨文部科学大臣賞」)という小説。これは小川洋子の「動物文学」の今のところの頂点だと思う。「小鳥の言葉」を聞ける兄を持った弟を通し、人との交わりがうまくできない兄弟の生涯を語りつくした名品。鳥の言葉=「ポーポー語」をまず身に付けてしまう兄の造形は見事だが、一般的なカテゴリーに当てはめれば、やはり「発達障害」なのかなと思う。障害というか、「凸凹」というべきで、人語には適応できないが鳥語はマスターできるという設定である。

 人間社会に不適応な人物が、社会の片隅で寂しくひっそりとした人生を送るというような話は、かなり多くの文学に出てくる。むしろ「定番」的な設定である。だけど、多くの小説の場合は、芸術家気質が強すぎて他人と合わせられないとか、極端に内気で愛を打ち明けることができない、病を抱えながら世の片隅で生を全うするなどのような話が多い。小鳥の言葉だけしか判らないなんていう設定は奇想天外というしかない。だけど、それが実によく判るし、悲しみが伝わってくる。そして、兄はやがて亡くなり、弟は「小鳥の小父さん」と近所から呼ばれるようになる。そんな小父さんも周りに受け入れられず、誤解や迫害を受ける。人間社会にうまく溶け込めない悲しみがそくそくと伝わってくる。

 動物が大きな役割を担う小説としては、「ブラフマンの埋葬」(2004、講談社文庫、泉鏡花文学賞)もある。さきほど「謎の動物」と書いたのは、この小説に出てくる「ブラフマン」のこと。ブラフマンというのはインドのバラモン教にいう「宇宙の根本原理」のことだが、べつにそんなたいそうな話ではなくて、小説に出てくる動物に主人公がつけた名前に過ぎない。だけど、種類は書いてない。多分カワウソみたいな感じがするが、日本ではカワウソは絶滅しているから、そういうこともあって名前がないのかも。大体地名も人名もどこにも出てこないから、日本じゃないかもしれない。

 芸術家たちの創作活動を支援して仕事場を提供する「創作者の家」。主人公はその家の管理をしている人間である。そこに「ブラフマン」がやってきて、いろいろと巻き起こす騒動のあれこれをつづるひと夏の物語。動物の魅力とともに、エサはどうするとか、中には動物嫌いもいるとか、そういった話も出てくる。主人公は若い男で、だから若い女性も出てくる。固有名詞不在の物語だけど、中の世界は割合と普通に近いし、それほど長くないので、小川洋子作品の入門編としてもいい。(21世紀初頭に続けて書かれた「博士が愛した数式」「ブラフマンの埋葬」「ミーナの行進」はいずれも傑作で、読みやすい。この3つをまず読んでみるのがいいのではと思う。)小川洋子は2003年に南仏の文学祭に招かれていて、その際に発想された物語と解説の奥泉光が書いている。確かに(行ったことはないけど)「南仏」という感じもしないではない。だけど、まあ「どこともわからぬ物語」なんだと思う。

 「いつも彼らはどこかに」(2013、新潮文庫)という短編集もある。これは8編の短編すべてに「彼ら」、つまり動物が出てくる物語。その出方は様々で、ちょっとしか出てこない話もあるし、そもそも生きた動物ではない場合もある。冒頭の「帯同馬」は、スーパーで試食係(デモンストレーション・ガール)をしている女性の話。移動中に「パニック障害」を起こし、今は東京モノレールで行けるところしか仕事ができない。ある日、新聞で「帯同馬」という存在を知る。フランスに行くディープ・インパクトのストレス軽減のため同道する馬のことである。こういう人間の方も馬の方も、そんな仕事があったのかというような存在を取り上げて、見事に現代を切り取った短編。全部は紹介しないが、「目隠しされた小鷺」「チーター準備中」などが好きな話。この短編集を読んで語りあえば、お互いを分かり合えるかも。

 他にも、「最果てアーケード」の犬べべ、「やさしい訴え」の犬ドナ、「ミーナの行進」のコビトカバのポチ子など忘れがたい動物がいくらも思いつくが、やはりそれらはペットであり、脇役である。「ことり」の鳥たちや「ブラフマン」ほど大きな役割を持ってはいない。でも、物語に動物が出てくるとき、小川作品は思いが深くて、やさしい世界になる。心地よいだけでは文学にはならないが、登場人物の深い悲しみをただ書くだけでは悲惨になりかねないとき、動物たちが横にいるだけで読む側も救われる時がある。実際のペットもそうだし、小川洋子さんが飼っていた犬「ラブ」もまたそうだったとエッセイに出てくる。(その話はまた別に。)ところで「ラブ」はラブラドール・レトリバーだから。文鳥を飼ったら「ブンちゃん」と簡明な名付け方なんである。
  
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