尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

塚本晋也監督の「野火」を見る

2015年08月21日 23時29分24秒 | 映画 (新作日本映画)
 大岡昇平原作を塚本晋也監督(1960~)が二度目の映画化をした「野火」。僕には、いつもの塚本映画と同じように、なかなか評価が難しい映画だった。原作は戦後文学有数の傑作で、最初の映画化は1959年の市川崑監督作品。同年のベストテンで2位となった。見たのはだいぶ昔で、詳しいことは忘れているが、非常に感銘深い映画だった。原作を読んだのは高校生の頃で、映画を見る前のことである。これは読み直してから見たのだが、大筋では原作の通りである。
 
 最後の方でセリフの中に「レイテ島」と出てくるが、この映画ではセリフやナレーションが極度に制限されているので、どこでの話かもよく判らない。もっとも、大岡昇平原作と書いてあるんだから、フィリピンのレイテ島に決まっているわけだが、知ってて見る人ばかりではないだろう。だから、フィリピン戦線というよりも、「過酷な戦場に投げ込まれた兵士の物語」ということで作られているのかと思う。

 大岡昇平はミンドロ島に配属中に捕虜となるが、収容所がレイテ島に置かれたため、そこで聞いた話にインスパイアされて「野火」を書いた。(自身の体験は「俘虜記」に書かれている。)フィリピンは開戦当時はアメリカの植民地(独立はすでに予定されていた)で、直前に現役復帰したマッカーサーが極東陸軍司令官をしていた。日本軍の攻勢でマッカーサーがオーストラリアに撤退する時に、有名な「I shall return」の言葉を残した。だから、米軍の反攻が始まるとフィリピンを素通りすることはありえなかった。フィリピン戦線は中国本土やニューギニア、旧満州やビルマ(ミャンマー)などを超えて、日本軍が一番犠牲となった場所なのである。(51万8千人が亡くなったとされる。)

 映画の冒頭で、監督自身が演じる田村一等兵は肺病(結核)を発病して野戦病院に送られたが、食料を持たず歩ける兵は原隊に戻される。しかし、原隊では「戻ってくるんじゃない」と言われ、行ったり来たり。原作では、田村のモノローグ(独白)として語られるので、単に右往左往しているのではなく、一種皮肉な観察家としてすでに軍隊を相対化し始めていることが判る。この映画も、完全にナレーションによるモノローグを排除しているわけではないので、もう少し説明を加えた方が判りやすいのかなと思う。もっとも、そういう「判りやすさ」を排除して、戦場という「地獄めぐり」を見せているのだということかもしれない。その結果として、映画の迫力は増したかもしれない。だが、原作や市川崑作品に見られる「精神性」は薄れてしまった。

 米軍の砲撃で日本軍は崩壊し、住民はゲリラとして敵対する。どこにも安住の場が亡くなった田村は、ジャングルを彷徨しながら、飢えと渇きの日々を送る。その歳月は、原作ではほぼ一カ月に及ぶ。その間の苦労(あらゆる草を食べ、自分の血を吸ったヒルをも食料とする)は原作の方が詳しい。映画では、その彷徨と神への関心を描かず、二つの殺人(計三人)を非情に映し出す。一つは、避難して誰もいない街区に塩を取りに戻った女性の住民を無惨に銃撃する。この場面もモノローグによる説明がないので、非情さが際立つ。そのうち、前に会っていた日本兵二人と再会する。この二人がなぜ生き延びられていたのか。そこで、この映画の大きな眼目である「人肉食」が出てくる。「猿の肉」と言われているものの真実は何か。その二人の兵も、結局田村が殺害するに至る。

 これらのシーンはショッキングな描写が続くが、基本的には原作にそって作られているので、原作を読んでいれば予想の範囲内である。劇映画なんだから、血が流れても実際の殺人ではなく、人肉を食べているわけがない。そういう即物的な描写が連続することにより、内面性が薄れてしまうのが僕には少し残念な気がした。その辺り、実は塚本監督作品によく感じることである。塚本監督の出世作「鉄男」(1989)からして、カルト的人気を誇る映画だが、僕には見るものを置き去りにして暴走する作り方に付いていけないものを感じた。「東京フィスト」や「六月の蛇」はまだいいと思ったけど、前作のCOCCO主演の「KOTOKO」も狂気に至る暴走ぶりがどうも僕には頂けなかった。「野火」は実は狂人の日記として書かれたという体裁になっているから、その意味では塚本監督にふさわしい原作だったとも言える。でも、僕には「戦争の悲惨を訴える」とか「絶対的な絶望に追い込まれた人間はどうなるのか」などを描くというよりも、塚本監督風に「どんどん暴走する」映画に思えた。

 僕にはこの映画の塚本晋也やリリー・フランキーなどが、追いつめられた兵士に見えなかったのだが、それはもう仕方ないことなのかもしれない。若い観客には白黒で作られた昔の映画より、まずはこの塚本版「野火」にショックを受ける経験が必要かもしれない。その次に是非原作にもチャレンジして欲しい。新潮文庫にあるほか、岩波文庫に「ハムレット日記」という作品とともに収められている。何でハムレットかと思ったら、実は「狂人日記」という構想があったのである。「野火」は実は発狂した田村の日記なのだが、フィリピンのジャングルをさまよう田村と、中世デンマークの宮廷陰謀の中をさまようハムレットは同じタイプの人間なのである。そういう発想が面白くて、なかなか読みでがある作品だった。そういう見方だけが絶対とは思わないが、田村一等兵という存在に対する一つの解釈だろう。
コメント (3)
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