尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日本の戦争映画を考える②ー「ジャンル」としての戦争映画

2015年08月10日 22時34分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 そもそも「戦争映画」とは何だろう。日本では、軍や政府の上層部がズラッと出てくる一種の「歴史劇」、または戦争の悲劇を後世に伝えるマジメ映画という感じが強い。だけど、それは特殊日本的なことで、映画史的にみれば「アクション映画の一ジャンル」ということになる。アメリカで最初に大々的な映画産業が発展した時から、西部劇や恋愛ロマンス、またはチャップリンなどのコメディと並んで、戦争映画も盛んに作られた。当時は無声時代で、字幕は付けられるが英語の読めない移民には理解できない。映像と動きだけで十分楽しめるのは、アクションや体技によるコメディである。

 「戦争を楽しむ」というと今では不謹慎な気がするが、アメリカ史は「よい戦争」に大勝利した歴史である。いや、先住民やメキシコとの戦いで、カスター将軍やアラモ砦などの例外もあるが、そういう場合でも最終的には「良きアメリカ人」が勝つのである。戦争だから、人が死ぬことは避けられない。しかし、戦友は悲劇にあうが、ヒーローの主人公は常に生き残って敵を討つ。特に第二次世界大戦究極の「よい戦争」と認識され、ナチスを悪役にして、見ていて痛快な戦争映画が量産された。(対日戦映画もあるんだろうが、圧倒的にナチスが多い。まあ日本軍が類型的な悪役になってる通俗娯楽映画はあまり日本公開されてないんだろう。)僕がテレビを見始めたころに、「コンバット」という傑作ドラマがあった。また「史上最大の作戦」とか「大脱走」もテレビで見て興奮したものである。

 「よい戦争」にアメリカ人が疑いを持ち始めるのは、ベトナム戦争が激化し反戦運動が国内でも高まるころからだ。僕にとっての戦争映画は、実は「地獄の黙示録」や「プラトーン」、あるいは朝鮮戦争を舞台にした「M★A★S★H」、第一次世界大戦を舞台にした「ジョニーは戦場に行った」などをまず思い出す。当時は夏になると、東宝や東映では戦記映画のようなものを公開していた。ほとんど僕は見ていない。川本三郎も戦争映画は見ないと言っていたが、日本の場合、負けていくのである。判っているのである。軍部は本土決戦などと呼号していたが、早く講和すべきだった。バカな上層部がウロウロし、空襲、沖縄戦、原爆に至る。見ていて可哀想でならないし、軍に対しては怒りが沸騰する。ウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」のように、画面の中に入れるんだったら、入っていって歴史を改編したくなる。(山田洋次「母べえ」で、檀れいが故郷の広島に帰るシーンなんかでも、ダメだ!広島に帰っちゃダメだと画面に叫びたくなる。)
(「地獄の黙示録」)
 もちろん、もっと早く講和していればよかったという問題ではない。そもそも中国ともアメリカとも戦争すべきではなかった。それなのに、戦争が始まった。自然現象ではない。日本が始めたのである。それなのに、なんだか知らないうちに始まって、知らないうちに終わって、何人も死んで、悲しいねというような映画が多い。おかしいだろ、どうして怒らない。どうして、起ち上がって戦争はいやだと叫ばないのか。そういう歴史的事実はなかったのだから、言ってもムダではある。戦争を起こすファシズム勢力を国民の抵抗運動が打倒した、例えばイタリアのような歴史がない。ドイツにも、白バラの若者たちがいて、ヒトラー暗殺計画も何度もあった。だけど、日本にはなかった。だから、日本の戦争映画には、抵抗運動の民族的英雄を描く映画がない

 僕は大手の映画会社がたくさん作った、連合艦隊とか特攻とかの映画が好きではない。見なくても結末が判る、忠臣蔵や寅さん映画と同じだ。日本の古い映画も観るようになると、独立プロが作った反戦、反軍、あるいは反差別や冤罪救援などの優れた映画をいっぱいあることを知った。それはぜひ伝えていきたいと思うけど、マジメ社会派映画の暗さがあることは否定できない。では、日本で戦争映画で楽しく反戦の思いを伝えることはできるか? どんな悲惨な状況であっても、そこには日常があり、小さな喜びがあるものだが、日本の「玉砕」した戦場、文字通り「必死」の特攻攻撃、あるいは沖縄戦や原爆投下などを思い起こすと、どう描こうが最後は悲惨になることを避けられない。だけど、優れた映画(に限らないが)は、悲惨な出来事、悲しみに満ちたストーリイを描きながらも、ユーモアに満ちた語り口で見るものを飽きさせないものだ。

 日本の大手会社で作られた戦争映画は、「任侠映画」と構造が似ている。政界や軍閥とヤクザ組織が構造的に似ているというのは、考えてみれば当然だ。上層部が出てくる映画、政府内の対立を描く場合は、ヤクザ組織どうしの争いを描く映画と似ている。特攻ものは、こう言ってしまうと身もふたもないかもしれないが、「鉄砲玉」映画に似ている。志願していることになっているが、「事実上の強制」に近いことも似ている。そもそも、日本が戦争に乗り出した理由も、世界の「反日包囲網」(当時、ABCD対日包囲陣と呼ばれた)にも関わらず、「隠忍自重」を重ねていたものが、ついに堪忍袋の緒が切れて、敵に殴り込みをかけるという任侠映画にそっくりとなっている。今でもそういうことを言う人がいるのは、「任侠映画的世界観」といったものが、日本の民衆感情にいかに深く根ざしているかを示しているのだろう。そういう戦争映画は、僕は見ていても面白く思えないのである。
コメント (3)
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