尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「戦後世代」に「戦争責任」はあるか

2015年08月17日 23時34分58秒 | 政治
 安倍談話の中にある以下のような部分をどう考えるべきだろうか。
 「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」

 このような問題、「戦争当時に生まれていなかった世代の日本国民には、先の戦争に関する責任があるのだろうか」「謝罪する必要があるのだろうか」ということに関しては、考えてみたことがある人が多いのではないだろうか。この問題は、本当は「責任」とか「謝罪」という意味をはっきりさせないと論じられない。つまり、前提の置き方によって、あるともないとも結論を変えることができる。どういう立場にたって物事を論じているのかを常に考えていないと、感情論に引きずられやすい

 僕はこういう論点を首相談話に盛り込むことには明確に反対である。安倍首相は「これで打ち切り」のつもりで入れたのかもしれないが、安倍談話に入ったことで「かえって次の世代に難問を残した」のではないかと思う。より若い世代は、「安倍談話に書いてあるから、私は謝罪しません」という言い方はできない。逆に「安倍談話の考え方をどう思うか」と突きつけられてしまうだろう。「賢い為政者」だったら、こういう論点は、記者会見なんかで語ることはあっても、談話そのものの中に入れないだろう。だから、やっぱり、どうもあまり賢い感じがしないということになる。

 それはともかく、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたち」というけど、歴史は一度起こってしまったことは変えられない。日本にとって戦争(とその後の敗戦)は非常に重大な出来事であり、「何ら関わりのない」世代などあるのだろうか。これは例えば、中国の文化大革命、ロシアのアフガン戦争や「ソ連崩壊」、アメリカのベトナム戦争公民権運動などにも言えることで、社会に大きな変動をもたらし何世代もの人々の暮らしを大きく変えた。後の世代に関わりがないなどと言えないのではないだろうか。

 ただし、その時点で生きていない以上、何らかの行為(例えば、開戦の決定や戦場での虐殺行為)の主体にはなりようがない。だから、「法的責任」がないことだけははっきりしている。しかし、そんなことは当たり前のことであって、誰も後々の世代にまで法的責任を問う人はいないだろう。だから、問題は「政治的責任」や「倫理的責任」などになってくる。この問題になると、「無いとも、有るとも、言える」ということになる。その人の立場次第である。

 「生まれてなかった以上、何の責任もない、謝罪する必要もない」と考えるならば、逆に考えれば、「生まれている時点における問題には、責任がある」ということになる。これは非常に厳しい考え方であり、それなりの覚悟なしに言ってはいけないことだと思う。今、目の前にある問題、原発をどうするか、沖縄の基地問題をどうするか…そういう問題を「自分には関係ない」と言ってはいけなくなる。そういう大問題は大変だとしても、クラスのいじめ問題、職場のパワハラや長時間労働など、まさに目の前に問題がある時に必ず声を挙げられるだろうか。そう言い切れる人だけが、「生まれていなかった時点の問題は、自分には責任はない」と言いきっていいのだと思う。

 安倍首相がそこまで言う時には、本当だったら「自分が総理大臣としてすべての問題を解決するから、後の世代には残さない」という強い決意がなくてはいけない。もっと具体的な解決方法を提示して、強い気持ちで行動して行かなくてはいけない。しかし、安倍首相の言いたいことは、戦争に関する諸問題を解決したいということではないだろう。日本と諸外国との戦争に関する問題は、国家間ですべて解決済みである。だから、今さらガタガタ裁判など起こすな、もう問題は済んだ、「ボス交」で決めたことに文句を言うなということだろう。文句があるなら、それぞれの国のボスに言ってくれ…。

 たとえ話で言うなら、祖父(あるいは曾祖父)が「殺人事件」を起こした。孫(ひ孫)に責任はあるのか。謝罪する必要があるのか。そういうたとえで考えてみれば、もちろん孫に殺人の責任はないに決まっている。だが祖父が刑に服して罪を償っていれば事件は終わっているわけだが、その後も一家が祖父を匿い続けていたとすればどうだろうか。その場合は、殺人罪ではないが、「犯人隠匿罪」が後の世代にもあるではないか。日本の場合はまさにそれではないか。戦時中の「犯罪行為」をかばい続けてきたから、いつまでも解決せず、後の世代に持ち越されて来ているのである。

 僕の感じ方からして、「戦争が起こった」「虐殺事件があった」…その他戦時中のさまざまな問題に対して、自分に責任があると思ったことはない。だが、戦後になっていつまでも戦争を賛美する勢力が力を持っていることには責任を感じている。もちろん「戦後責任」はあるのである。だが、安倍首相をはじめとする右派勢力も、自分たちに与えられた「戦後責任」を果たさなくてはならないと考えているはずである。「彼ら」からすれば、軍を復活させ、国民の基本的人権を抑え、天皇の地位を上げ、戦前の日本により近い国に戻すことこそが、日本の真の復興である。それを果たそうと思っているのだろう。だから、世代の問題ではない。どのような日本と世界を作っていくか、その考え方の相違こそ本質的な問題であり、「世代論」を持ち出す人はいつもそのことで何かを隠ぺいしようとしているのだと思う。
コメント (5)
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