尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

首相の深きニヒリズム-安倍的表現③

2015年08月02日 22時39分03秒 |  〃  (安倍政権論)
 安倍首相動画による説明を自民党のサイトに掲載してるんだという。見る気も起こらないので見ていないが、(だから中身の批判をする気はないが)、マスコミ等の記事によると「アベ君とアソウ君」が出て来るんだそうだ。アベ君を殴ってやろうという「不良グループ」がいて、力の強いアソウ君が一緒に帰って守ってくれることになった。そのアソウ君が襲われなぐられていても、アベ君は助けに行けなくていいんだろうか…とか言う話らしいんだけど、ホントにこんなおバカなたとえをしているの?ちょっと常識的には考えがたいと思うが、そこがいかにも「安倍的表現」というべきかもしれない。

 ここで一番不思議なことは、「公的機関」がどこにも出てこないことである。火事のたとえをしていて、「消防署」が出てこないのと同じである。火事なら「119番」しましょう。不良に襲われそうなら、警察に相談しましょう。アベ君もアソウ君も学校に行っているらしいから、学校の先生に相談しましょう。ごく普通の庶民だったら、たとえ話をするときには、そういった公的機関を利用すると思う。たとえば、子どもを注意するときなら、「そんな悪いことをしてると、警察に捕まっちゃうよ」とか。それが望ましいかどうかは別だが、日本のように高度に発達した社会では、多くの物事がシステム化されてしまっている。だから、学校で勉強し、具合が悪ければ病院に行き、犯罪にあったら警察に言う。どれだけ頼りになるか問題もあるし、システムそのものを問い直すことも大切である。
 
 だけど、そういうことを言いたいのではなく、「普通の一般国民」向けに「たとえ話による説明」をするんだったら、そういう「公的機関」を持ち出す方がずっと理解されやすいし、今まではそうしてきたと思う。火事なら「消防署」に協力しましょう、襲われそうなら「警察」に相談しましょう。この消防、警察とは、つまり「国連」のことだが、そうやって「国連の活動」に協力しましょいうという枠組でたとえ話をするなら、国民の反発も少ないはずである。だけど…安倍首相はそういう、今までの「保守」が掲げていた「国連中心主義」に何の未練もないようである。

 そこにあるのは、むき出しの「力による自力救済」という「中世的世界」である。だから、「強いものに付くしかない」ということである。「アメリカ」と「中国」という、いわば「源氏」と「平家」のような世界認識。あるいは、東に今川、西に織田に囲まれた三河の松平(徳川)はいかに生き延びるか。そういう世界に生きているのではないかとさえ思う。だけど、これは世界史認識として完全にずれているだろう。だから、「中国を危険視する」ばかりではなく、「中国とは国際秩序と人権という枠組で変化を促す」といった発想ができない。なんで、そうなるんだろうか?

 首相の孫、外相等歴任政治家の子どもという、まさに日本の権力者中の権力者のど真ん中、権力のインナーサークルの中で育ってきたのが、今の首相である。「公的機関」、たとえば「警察」なんか、実は中立的なものではなく、権力者が使うものだとしか思ってないのではないか。自分が使う手足でしかないものに、「相談する」という発想は起こらない。学校も同じである。親が選んだ私立の付属小学校から始まり、一回も他の学校を受験した経験がなく、大学まで行っている。「公的機関」の持つタテマエ性を信じてきたことがなく、実は「すべては力による支配なんだ」と教えられ、また自分でも思ってきたのではないだろうか。だからこその、「深いニヒリズム」。だから、たぶん「アメリカに協力する」という形で進められている安保法制整備だが、「アメリカ」も信じていない。強い間は付いて行くしかないという、それが世界なんだという認識だろうと思う。でも…そういった「安倍的世界観」から抜け落ちているものは何だろうか。そういうものを見つけている人なら、「安倍的表現」に惑わされることもないはずだ。そういう意味で、「日本人の底力」も試されている。
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