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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

フェラーズという人ー「終戦のエンペラー」と史実④

2013年10月09日 21時15分51秒 |  〃 (歴史・地理)
 「終戦のエンペラー」の中で大きな役割を演じるボナー・フェラーズ(Bonner Fellers, 1896 - 1973)とは、一体どのような人物だろうか。映画ではフェラーズが「天皇こそが戦争を終わらせた」とのメモを提出する。(史実では10月2日。)その後、マッカーサーは天皇に会いたいと望み、天皇が(最高司令官のいる第一生命ビルではなく)アメリカ大使館を訪問した。それは9月27日なので、史実と映画では順番が異なっている。その「会見の真実」を考える前に彼の人生を見ておきたい。
(ボナー・フェラーズ)
 フェラーズは1996年にイリノイ州の農家に生まれた。1914年にインディアナ州リッチモンドのアーラム大学(クエーカー系の大学)に進学した。この大学では新入生を小さな班に分け、担当の上級生が面倒を見るやり方を取っていた。彼の担当が日本人留学生の渡辺ゆりで、フェラーズは彼女を通して日本に関心を持った。ゆりが卒業・帰国した後の1916年に、彼は大学を中退して陸軍士官学校に入学した。(恐らく経済的事情か。)卒業後、フィリピン勤務となり、1922年に休暇を利用して初めて訪日して、渡辺ゆりと再会した。ゆりはラフカディオ・ハーンを教え、フェラーズはやがて全巻を読破するほどのマニアとなる。30年に2度目の訪日をした時に小泉家を訪ねハーンの墓参もした。
(渡辺ゆり)
 このような経過で、彼は日本人の心理に詳しくなり陸軍内の「日本専門家」となったのである。1935年には陸軍大学の卒論で「日本兵の心理」をまとめた。そこにはすでに「天皇のためならば命を惜しまない」日本兵の心理が詳細に分析されている。日本人は「団結しやすい」が、「逆境時には国民性の最悪の部分が現われる」、「日本軍の計画には柔軟性がほとんどない」などなど。36年にフィリピン勤務となり、マッカーサーと出会い、37年には一緒に日本を訪れている。38年には再び訪日し、40年からはエジプトに赴任していた。
 
 第二次大戦中は対日心理作戦を担当し、多くの業績を上げた。彼は日本語は話せないが、二世兵士を使ってビラ作りなどをした。米軍は日本軍が敗走した後でも、なかなか降伏しないことに困っていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられていたからだ。ここで日本人の心理研究が生きてくる。「天皇」と「軍閥」を分けて、兵隊も天皇も軍閥にダマされていた、「降伏しても天皇に不忠にはならない」と呼びかけたのである。1944年8月に書いた文章では、「東条を首相として承認した以上、天皇には明らかに戦争責任がある」、「しかし、天皇の戦争責任を追及すれば日本人から猛反発を招く」、「軍部が天皇をだましたという認識を広め、軍国主義者を一掃するのが最も賢明である」と書いた。降伏後の日本軍は、天皇の停戦命令で武器を置いた。フェラーズは自分の分析に自信を持っただろう。

 フェラーズがマッカーサーに提出したメモでは、「アメリカは天皇の力を利用して被害を最小限に食い止めた」「天皇を裁判に掛けることは、アメリカの長期的な利益に反する」と明記されていた。このようにフェラーズは確かに知日派で、天皇制を残そうと努力した人物なのだが、すべては米軍に有利なようにと考えた結果なのである。いかに米軍の犠牲を少なくして勝利を得るかという観点から行動しているだけである。映画では「純粋な親日派」のように見えるが、それは真実の姿ではない。フェラーズはメモ提出後に、本格的に天皇免責に向け、日米の人脈を使って対策を練る。皇太子にアメリカ人の家庭教師をつけるのも、元はフェラーズのアイディアだったらしい。

 フェラーズは何か目標があって行動していたのだろうか。彼の目的は、日本占領を円滑に進めた上で、マッカーサーを大統領に擁立するという計画だった。映画では「大統領になりたいマッカーサーに利用されている」などと言われているが、現実は逆だろう。天皇不訴追がほぼ確実になった1946年7月、50歳でフェラーズは退役し、海外退役軍人協会に勤め、全米各地を講演し日本に関する記事を書いた。マッカーサーの占領を宣伝する目的だろう。1947年11月には、共和党全国委員会副委員長に就任した。マッカーサーを大統領にするための仕事に違いない。しかし、48年の予備選に失敗した(占領中で本人不在だから無理)。52年はかつての部下で、より若いアイゼンハワーが共和党候補となった。それを見て52年7月に、フェラーズは共和党全国委員会を退いたのである。
(昭和天皇 二つの『独白録』)
 以後は主だった職には就かず、回想録をまとめるつもりもあったらしいが、完成しなかった。71年には、占領中の活動に対して、日本政府から勲二等瑞宝章を受章した。73年に10月7日に、77歳で死去。その歩みは東野真昭和天皇 二つの『独白録』」(NHK出版)に詳しい。以上の記述は基本的にはその本による。(今は新刊は入手できないようだが、地域の図書館ですぐ見つかると思う。)彼の「活躍」や彼の元に英文「独白録」があった事情なども、この著書に詳しい。
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