尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ジョゼ・サラマーゴ「白の闇」を読む

2020年05月27日 20時57分50秒 | 〃 (外国文学)
 ジョゼ・サラマーゴの「白の闇」(1995,雨沢泰訳、河出文庫)を読んだ。サラマーゴ(1922~2010)と言われても知らない人が多いだろうが、1998年にポルトガル初のノーベル文学賞を受賞した世界的作家である。結構翻訳も出ているが、文庫になったのは初めて。僕も初めて読んだ作家だが、400ページもひたすら字が続き、長い文章が続く。それが著者の特徴だというが、翻訳も読みやすいし、文章自体は違和感がない。問題は作品世界そのものである。
(「白の闇」)
 翻訳は2001年に出て、2008年に新装版が出たという。それから時間が経った今になって文庫されたのは何故か。明らかに世界に蔓延する新型コロナウイルスである。これは現代に書かれた代表的な「感染症純文学」なのである。しかし、その設定は実にとんでもない。何しろ、突然「目が見えなくなる」のだ。それが「伝染」する。伝染するんだから、細菌やウイルスの感染のはずで、炎症と発熱が起きるはずだが、それは何もない。そして伝染力が非常に強くて、ちょっとでも接触があった人はどんどん失明する。やがて社会の大部分の人が視力を失うのである。
(ジョゼ・サラマーゴ)
 小説はどんな設定を作ろうと自由なんだから、この小説が病態的にはあり得ないとしても構わないだろう。ここでの「失明」「盲目」はある種の「たとえ」と見るべきなのかと思う。でも実際の小説は、ただひたすら「失明者の苦悩」として進む。著者はある日食事をしていて、突然みんなが失明してしまったらどうなるだろうと思いついたという。それは「人間性の喪失」というか、「人間性の本質」をあらわにする思考実験とも言える。そうなるとこうなるのか、という恐るべきトンデモ小説だ。

 もちろん今だって、人は失明することがある。でも白内障などは少しずつ進行するし、家族や福祉制度を頼ることが出来る。家族全員が突然失明したらどうなるか。しかも、皆が同じ時期に失明するわけではないから、仕事に行く途中で目が見えなくなったら家にも帰れない。自分だけなら、誰かが助けてくれるかもしれない。実際「最初に失明した男」は別の男が家まで車で送ってくれた。異常を訴えて眼科に行くが、その眼医者や患者たちもやがて失明する。当初政府は「全員隔離」の方針を立てたが、食料はなかなか来ない。門では兵士が監視している。次第に隔離者が増えてくる。

 全員が目が見えないとして、まず困るのは食事だ。しかし、食べたら排泄がある。しかし、どこにトイレがあるのか。あってもキレイに使えるのか。シャワーも使えなくなり、あまり読みたくない展開になっていく。そしてそんな場所でも「独裁」が生まれ、人間性の闇が露出するのである。しかし、何故か「医者の妻」だけは失明しない。隔離のために夫が連行されるときに、自分も今見えなくなったと申告して付いてきたのだ。当然その時点ではいずれ失明すると思われていたが、その後も目が見え続けた。そしてこの医者の妻が物語の中心になってゆく。
(映画「ブラインドネス」)
 「感染症小説」というより、「ディストピア小説」という感じだった。とても読む気になれないぐらい、字ばかりが続いている本だけど、先に書いたように決して読みにくい小説ではない。問題はあまりのトンデモ設定に付いていけるかどうか。あまりにも世の中が汚くなっていき、読むのが辛い。一体どう終わるのかと思うが、こうなるかという終わり方。この本は2008年にレイナルド・メイレレス監督「ブラインドネス」という映画になった。「シティ・オブ・ゴッド」や「ナイロビの蜂」で知られるブラジル人監督である。医者の妻をジュリアン・ムーアが演じ、カンヌ映画祭でオープニング上映された。最初に失明した男を伊勢谷友介、その妻を木村佳乃が演じた。2008年に日本でも公開されたんだけど、全然知らなかったな。
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