尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「彫刻刀が刻む戦後日本」ー版画を通してみた戦後民衆史

2022年06月18日 20時14分32秒 | アート
 町田市立国際版画美術館で開かれている「彫刻刀が刻む戦後日本」展(7月3日まで)は、とても刺激的で感動的な展覧会だ。単なる美術展というよりも、全く新しい視角から見えてくる戦後日本の歩みが興味深い。特に50年代には多くのポスター、チラシには版画が使われていた。その後、印刷技術やパソコンの普及などで、印刷物の作り方が劇的に変わっていく。もう皆で版画を作った時代のことも忘れかけている。戦後日本の文化運動史、教育史、民衆史を振り返る素晴らしい企画だった。
 
 町田市に版画の美術館があるというのは知っていたが、そもそも町田市に行くのが初めて。東京都だけど神奈川県に突き出たような位置にある。どうやって行くのか知らなかったが、東京からだと小田急線。ロマンスカーで箱根へ行ったことはあるから、通り過ぎたことはあったわけだ。代々木上原まで地下鉄で行って、急行唐木田行に乗り換えたら、新百合ヶ丘でまた乗り換える必要があった。「しんゆり映画祭」をやってるのかここか。町田駅で下りたら、完全に小田急百貨店の地下。徒歩15分だから歩いたが、地図もあって判りやすい。版画美術館前という信号から急坂を下るので驚いた。家から2時間以上かけて到着。
 
 「工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった」というキャッチコピーを見て、思い出す人も多いはず。そうだなあ、昔は家に彫刻刀があった。授業で版画を彫った経験があるなあ。60年代の小学校で版画をやったのは、1958年の小学校学習指導要領に明示されたことが大きいという。それは70年代まで続いたようだ。その後は書かれていないから、今はやってないのか。まあ彫刻刀を扱うのは危険という時代になったのだろうか。それに他の素材を入手しやすくなったのだろう。彫刻刀と版木があれば誰でも出来るという簡潔さが、そんなに意味を持たなくなったのかもしれない。

 今回の展示で驚いたことは、日本の版画運動に影響を与えたのが中国だったということだ。1947年だから、まだ革命前である。日本で現代中国の版画展が開かれて、民衆に根付いた力強い表現がインパクトを与えたという。版画は他の美術に比べて持ち運びが簡単で、何枚も刷れるという特性もある。抗日戦争下の民心鼓舞として大きな意義を持ったということらしい。それが戦争で貧しくなった日本に大きな影響を与えた。労働組合のチラシやポスターが印象的だ。特に原水爆禁止運動を支えた意義が大きかったことが展示で判る。「原爆の図」展のポスターなどばかりではなく、上野誠ヒロシマ三部作』など版画家の作品も力強い。

 さらにそれらの版画運動が教育と結びついた。50年代に有名だった『山びこ学校』などの「生活綴り方」運動とともに、子どもたちの生活を版画にする教育版画運動の「生活版画」が全国的に取り組まれた。今回はそれらの成果が一堂に会して圧巻である。特に熱心な教員がいた小学校から大作が出ている。版画は共同製作が可能だからクラスで取り組んだ大作があるわけである。それらは写真が可能になっているものが多い。東京都東久留米市の神宝小学校卒業生有志による「森は生きている」は一番の大作である。
(森は生きている、1999年)
 青森県八戸市立湊中学校養護学級生徒による「虹の上を飛ぶ船・総集編(2)」の「天馬と牛と鳥が夜空をかけていく」(1976)という絵は、アニメ『魔女の宅急便』に出て来る森の中に住んで絵を描いている少女ウルスラの絵のモデルになったという。
 (後者=魔女の宅急便)
 石川県の羽咋郡の志賀中学校の「収穫」(1967)という作品など、地域の中で働く人々、あるいは公害など社会的問題にチャレンジした作品など数多くの作品が出ている。指導した教員も、彫った生徒も、モデルの民衆も、皆「無名の人」である。その後、どのように生きたのだろうか。日本の高度成長の中で、決して幸せではない過酷な人生を送った人も多いはずだ。それは『山びこ学校』を書いた生徒たちのその後を追った佐野眞一『遠い山びこ』を読んだから想像できるのである。
(「収穫」)
 そして作品の所蔵先も指導教員の個人蔵のものがかなりある。描かれた生徒たちの学校や地域の美術館などで所蔵されているものばかりではない。さらに版画ではなく、壁画やレリーフなどを作った学校も多いだろう。この何十年か、日本中で学校の統廃合が行われている。生徒たちが取り組んだ貴重な作品がいつの間にか破壊されていることも多いのではないか。

 見るものに様々なことを思い出させ、考えさせられる展覧会だった。「作家」という意味では、後に切りえ作家として有名になった滝平二郎、あるいは栃木県に住んで田中正造ら足尾鉱毒事件の版画を作った小口一郎の二人しか知らなかった。50年代の様々な民衆運動の中で作られた雑誌がいっぱい展示されていたが、表紙には版画が使われている。それらを見たこともあるのに、「戦後民衆運動と版画」なんて考えたこともなかった。自分も版画の授業があったが、「戦後教育における版画」なんて考えたことがない。自分の思いもよらないところに、新しい世界が開かれているものだと改めて痛感した。
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