尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

川本三郎「荷風と東京」を読む

2014年07月23日 23時15分01秒 | 本 (日本文学)
 川本三郎荷風と東京 『断腸亭日乗』私註」を読んだ。というか、まだ最後の「田園に死す」という戦後の章が残っているのだが、これは読み終わるのが惜しくて残してある。これは「読んだ」というより「やっと読んだ」であり、「読まずに『荷風散歩』なんか書いてしまってすみません」という感じの本である。雑誌「東京人」に1992年1月号から1994年12月号にかけて連載され、加筆のうえ1996年9月に都市出版から刊行された。川本三郎さんの本はいっぱい読んでるし、荷風にも関心がある訳だけど、僕が買ったのは2003年2月発行の第14刷である。あまりに分厚い本で、持って帰るのが大変そうで買うのも少し躊躇したのである。今回もいつも持ち歩くのではなく、散歩する日などは川本三郎「荷風好日」の方を読むことにし、一週間以上かけたのである。
(「荷風と東京」)(「荷風好日」)
 注、索引を入れて606頁、ちなみに重さも量ってみたら971グラムもある川本三郎の文学論、東京論の集大成で、読むのは大変は大変だけど、荷風だけでなく近代文学史、社会史に関心が深い人には面白くて止められない本だろう。永井荷風の日記である「断腸亭日乗」をもとに、そこに記載された東京散歩の跡を訪ね、関連史料を渉猟し、荷風の精神史を明らかにする本である。ほんと、これまで誰もやってなかったのが不思議。川本三郎はそれまでに「大正幻影」という傑作評論を書いているし、東京(だけでなく)散歩記もいっぱい書いている。まさに人を得たという感じの本である。もともと映画論、都市論が中心だっただけあり、大正、昭和の東京の大衆文化への目配りも行き届いている。

 ということで、言うことなしの読書体験だったけど、今ごろ読んだのは遅かったという悔いは大きい。荷風の住まい(新宿区余丁町=断腸亭)は大逆事件で幸徳秋水らが処刑された東京監獄はすぐ近くだったなどと前に書いたけど、そんなことはこの本の一番最初に書いてあった。荷風自身が書いているということだ。もっとも自分で散歩した意味はやはり大きいのだが。僕の場合、荷風が後に「発見」する浅草や玉ノ井や荒川放水路などは別に珍しい場所ではないのだが、荷風の生まれた小石川や断腸亭のあった余丁町(駅で言えば、大江戸線の若松河田や新宿線の曙橋の付近)などは、「荷風散歩」をしようと思わなければ歩くことはなかったと思う。

 東京も梅雨明けし、もう散歩する季節でもなくなってきたが、荷風が住んだ現六本木一丁目「偏奇亭」の付近はこの前訪ねてみた。(この本に地図がある。)もちろん今はすっかり変わってしまった。坂そのものが無くなってしまったのである。この本が出た後ですぐに行っていれば間に合ったはずである。その他、東京もどんどん変わっていく。耐震化の問題もあり、やむを得ない場合が多いと思うが、それでもさらなる東京五輪に向け、50年前の五輪の時に起こったような「過去の記憶の虐殺」がいっぱい起こるはずだと思う。荷風の跡を訪ねるなどというのはもう無理で、道端の説明板を眺めるだけだけど、高度成長期のものもどんどん無くなっているのではないかと思う。それに「負の記憶」あるいは「文化の記憶」がないがしろにされることが多い。今見ておくべきものは多いはずだ。

 その「偏奇亭」は東京大空襲で焼失しているが、その前大正時代にはちょうど坂の真向いのあたりに「山形ホテル」というプチホテルがあり、荷風は朝食などに毎日のように利用していた。荷風の盟友だった市川左團次(2代目、演劇改良に務め、ソ連公演などもしたあの左團次)ともそこでよくあっていた。慶應時代の荷風の弟子である作家、佐藤春夫が山形ホテルで「缶詰め」になった時に荷風と久しぶりに会ったという。(佐藤春夫「小説永井荷風伝」岩波文庫)その山形ホテルとはどういうものか。僕も初めて知ったのだが、戦後の日本映画の名作にいっぱい出演している(大部分が悪役)山形勲という俳優が、この山形ホテルの経営者の子どもだったのである。山形勲の貴重なインタビューが載せられている。1996年に死去しているから、これは時間的にギリギリだった時期のインタビューだった。テレビにもいっぱい出ていたから、ある程度以上の年齢の人なら、顔を見ればあの人かと判ると思う。
(山形勲)
 もっと思いがけない話は、伊藤智子(さとこ)という「女優」との関わりである。成瀬巳喜男監督の「妻よ薔薇のやうに」に出演している。千葉早智子、丸山定夫、英百合子などに次ぐ順番だけど、フィルムセンターの階段にこの映画のポスターが貼られていて確かに載っている。1935年のキネマ旬報ベストワンを獲得したトーキー初期の名作である。この「伊藤智子」と荷風が大正時代に関係していたことが日乗に書いてあるという。ところで問題は、実はその当時智子は結婚していたのである。それも相手が軍人、よりによって本間雅晴だったのである。フィリピン攻略戦を指揮し、後に「バターン死の行進」の責任者として銃殺された、あの本間中将である。本間の海外滞在中のことで、後に離婚している。
(「妻よ薔薇のやうに」ポスター)
 その後、舞台美術家の伊藤熹朔(きさく)と結婚して「伊藤智子」となる。伊藤熹朔は戦前は築地小劇場の舞台美術をしていたが、戦後は新劇や映画の美術で大活躍をした。映画で言えば、溝口の「雨月物語」、豊田四郎の「雁」「夫婦善哉」「雪国」などの忘れがたい作品がある。荷風の映画化である「渡り鳥いつ帰る」や「濹東綺譚」も手掛けているから面白い。荷風だけでなく、本間や伊藤も近現代史に関心がある人には知らない人がいない有名人である。その3人と関係があった「伊藤智子」とはどういう人物だろうか。もともとは田村怡与造 (たむら・いよぞう)という明治の陸軍軍人の娘だという。田村も日清戦争などに出てくる人物で、一応歴史に名を残す人物である。

 荷風散歩のあれこれ、女性との関わり、経済状況などは本書でじっくり読んでもらうとして、あとは戦時下の荷風について。荷風ほど戦争に冷淡だった有名人はいないと思う。様々な人物の日記が明らかになっているが、表立っての発言はもちろん、日記などでも日本軍の「戦果」を大喜びし、戦況に一喜一憂している人がほとんどである。しかし、「同盟国ドイツ」がポーランドに侵攻した時に「シヨーパンとシエンキイツツの祖国に勝利の光栄あれかし」と書いている。シエンキイツツとは「クオ・ヴァディス」などを書きノーベル文学賞を得たシェンキェヴィッチのことである。ここまで「世界情勢を逆さまに見ていた」人は同時代にそれだけいたのだろうか。

 その荷風が戦後はパッとしない。谷崎潤一郎が戦後も大活躍し、「鍵」「瘋癲老人日記」など問題作を連発するのに対し、嫌いな軍人がいなくなり、性表現もかなり緩くなった戦後にこそ活躍しそうな荷風があまり重要な作品がない。全財産を持ち歩くなど「奇矯な行動」がマスコミに有名になった「変な老人」に思われてしまった。川本三郎はしかし、その背後に「空襲のシェル・ショック」を見ているのである。荷風は東京の2大空襲にあっている。3月10日の大空襲は荷風の愛した下町を焼き尽くしただけでなく、荷風の住む偏奇館をも焼いてしまった。東中野で友人宅にいた時に5月25日の空襲にあい、ほとんど間近に焼夷弾が落ちて辛くも生き延びた。その後、疎開を考え、明石にいた時も空襲にあい、岡山に行くとそこでも空襲にあった。

 ここまで空襲に痛めつけられた作家は他にいないだろうし、日本人全体を見ても数少ないのではないだろうか。この恐怖の体験が、戦後の荷風をして、さらに偏屈な老人、創作意欲を失った作家にしたと言うのである。非常に説得力があるのではないか。なお、「断腸亭日乗」は偏奇館空襲の時に持って逃げ、後にいとこを通して別の場所に疎開させていた。そのため今も読めるわけで、全く間一髪で貴重な文学財産が残されたのである。とにかく、この本は荷風や東京散歩に関心が薄い人にも、是非読んでもらいたい本だった。大著なので、なかなか大変だけど。なお、その後岩波現代文庫に上下2巻で収録されたが、上巻は品切れになっている。古書ではネットですぐに買える。(2020.5.9一部改稿)
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