つい「天皇陵古墳」の話を始めてしまったので、もう少し書いてみたいと思う。それは「古墳時代」とはどうして始まり、どうして終わるのか、という大問題である。「日本史」では弥生時代の次に「古墳時代」があり、巨大な王墓として「前方後円墳」が作られた。それは何故現れ、どうして消えていったのだろうか。歴史の教科書なんかでは、既定の事実を並べていくような記述が続くので、そもそも時代がどう変わっていくかをあまり意識しない。本当は一番大事な問題だろう。
縄文時代の墓を見ると、あまり大きな違いは見られない。弥生時代になって稲作農耕が始まると「余剰生産」が生まれて、次第に「階級差」が生じてくる。普通よくそう言われるが、まあ大体そういう道筋でいいだろうと思う。弥生時代後期になると、かなり大きな墓が作られているが、それは「墳丘墓」(ふんきゅうぼ)と呼んでいる。古墳と何が違うのかというと、素人にはあまり区別がつかないようなものもある。ただ、3世紀半ばから、突然に大和で巨大な「前方後円墳」が作られる。
「倭国」では、男王の時代が続いた2世紀後半に「大乱」があったと「魏志倭人伝」に書かれている。そこで「鬼道」に仕える「卑弥呼」を女王に立てて戦争が収まったという。「鬼道」とはシャーマニズム的宗教だろうから、霊能力の高い女性を諸勢力が共立して連合政権を樹立したのである。卑弥呼の死去(247年か248年ころ)後に作られた墓は「径百余歩の墓」とある。それほど巨大な墳丘墓は見つかっていない。一方、最初の巨大古墳である「箸墓古墳」の築造年代は、今では3世紀半までさかのぼっている。そうすると卑弥呼の死去と近くなってくる。「箸墓古墳」は「卑弥呼の墓」なのか。
(箸墓古墳)
戦争や宗教行事に不可欠の鉄器の原料である鉄は列島内部で産出しなかった。半島からの「輸入」に頼らざるを得ない。それは戦争の原因であり、連合政権誕生の理由にもなっただろう。倭国の各地方では様々な形の古墳文化が栄えたけど、前方後円墳に関してはどこかの小国家から始まったわけではない。前方後円墳文化が倭国西部を統一したという考古学的な証拠はない。「前方後円墳体制」というべき「政治体制」が形成されたから、前方後円墳が政治的に列島各地に作られたのである。
ところが、中国の史書には、卑弥呼の死後に再び争いが起こったとある。今度は卑弥呼の一族の13歳の娘「台与」(とよ、漢字及び読み方に異説あり)を立ててまとまったという。でも、卑弥呼時代にすでに「前方後円墳体制」が作られていたならば、卑弥呼の死後に争いは起きないのではないだろうか。それが「前方後円墳体制」成立の意義のはずだから。つまり、「箸墓古墳」は卑弥呼の墓ではなく、むしり台与あるいはその後の人物の墓であるのではないかという説に説得力を感じる…。
ちょっと細かい話になってしまったが、要するに「巨大古墳」は政治的なシンボルとして作られて、社会の統合の象徴になっていたということである。もちろん、その巨大性が自他の人々に大きなインパクトを与えただろう。それはエジプトのピラミッドや秦・始皇帝の陵なども同様である。だけど、昔よく言われたように、人民は王墓を作るために奴隷のように働かされたというのも、多分ちょっと違うんだろうと思う。王墓を作るための職人集団が形成され、誇りをもって作っていたのではないだろうか。
それがやがて、変わってくる。巨大古墳を作る用地も少なくなってくると思うけど、それだけでなく社会が新しい段階に入ってくるわけである。仏教などの新文化が朝鮮半島を経て列島にも到達する。人々は外国からもたらされた新しい神々に、最初は疑いも持ちながらも、巨大な寺院や仏像が作られるようになると、その荘厳なさまに圧倒されたのではないだろうか。権力の世襲が制度化されてくると、巨大古墳を作って社会統合を図る必要も薄れる。むしろ「文化的な支配」が大事になる。
こうして古墳は作られなくなる。平安時代初期まで古墳は作られているが、奈良時代以後はほとんど巨大古墳は作られていない。だから、奈良時代中頃の聖武天皇の陵を僕は知らない。(いま調べてみると、奈良市の佐保山南陵とされている。)でも、聖武天皇の命によって東大寺の大仏が作られたことは知っている。古墳を見たことがなくても、奈良の大仏は一回ぐらいは見ているだろう。これは単なる王陵ではなく、「天下の安泰」を願って作られた。文化的に一段高くなったのは間違いない。
(東大寺の大仏)
つまり、権力者によって「巨大なもの」が作られるのは共通なんだけど、時代が進むと単なる権力者の墓ではなく、文化的な建造物に変わってくるわけである。古墳時代は終わり、「王都」の所在地を時代名につけるようになるのである。以後の時代では、教科書に出てくる大権力者は、必ず大建築物を作っている。藤原道長は法成寺、白河法皇は法勝寺という巨大寺院を作ったけど、荒廃して後世に伝わらなかった。足利義満の金閣寺、足利義政の銀閣寺なんかが残ったのは奇跡だろう。
徳川時代の日光東照宮なんかも、一種の王陵として作られている。インドのタージマハールなんかも、「王陵」的な存在だと思う。20世紀になっても、「社会主義」体制では「レーニン廟」とか「毛主席紀念堂」など「王陵」的なものが作られている。そこまで行かなくても、権力者は今も大建築物を作るのが好きなんだと思う。名を残すために大きな箱ものを作る人は今も多い。でも、今は建築物ではなくて、「オリンピック」とか「万国博覧会」など巨大イベントを開きたがることが多い。それが「現代社会」というものなんだろうけど、「巨大なるもの」にひかれる権力者のあり方は時代を超えて共通している。
縄文時代の墓を見ると、あまり大きな違いは見られない。弥生時代になって稲作農耕が始まると「余剰生産」が生まれて、次第に「階級差」が生じてくる。普通よくそう言われるが、まあ大体そういう道筋でいいだろうと思う。弥生時代後期になると、かなり大きな墓が作られているが、それは「墳丘墓」(ふんきゅうぼ)と呼んでいる。古墳と何が違うのかというと、素人にはあまり区別がつかないようなものもある。ただ、3世紀半ばから、突然に大和で巨大な「前方後円墳」が作られる。
「倭国」では、男王の時代が続いた2世紀後半に「大乱」があったと「魏志倭人伝」に書かれている。そこで「鬼道」に仕える「卑弥呼」を女王に立てて戦争が収まったという。「鬼道」とはシャーマニズム的宗教だろうから、霊能力の高い女性を諸勢力が共立して連合政権を樹立したのである。卑弥呼の死去(247年か248年ころ)後に作られた墓は「径百余歩の墓」とある。それほど巨大な墳丘墓は見つかっていない。一方、最初の巨大古墳である「箸墓古墳」の築造年代は、今では3世紀半までさかのぼっている。そうすると卑弥呼の死去と近くなってくる。「箸墓古墳」は「卑弥呼の墓」なのか。
(箸墓古墳)
戦争や宗教行事に不可欠の鉄器の原料である鉄は列島内部で産出しなかった。半島からの「輸入」に頼らざるを得ない。それは戦争の原因であり、連合政権誕生の理由にもなっただろう。倭国の各地方では様々な形の古墳文化が栄えたけど、前方後円墳に関してはどこかの小国家から始まったわけではない。前方後円墳文化が倭国西部を統一したという考古学的な証拠はない。「前方後円墳体制」というべき「政治体制」が形成されたから、前方後円墳が政治的に列島各地に作られたのである。
ところが、中国の史書には、卑弥呼の死後に再び争いが起こったとある。今度は卑弥呼の一族の13歳の娘「台与」(とよ、漢字及び読み方に異説あり)を立ててまとまったという。でも、卑弥呼時代にすでに「前方後円墳体制」が作られていたならば、卑弥呼の死後に争いは起きないのではないだろうか。それが「前方後円墳体制」成立の意義のはずだから。つまり、「箸墓古墳」は卑弥呼の墓ではなく、むしり台与あるいはその後の人物の墓であるのではないかという説に説得力を感じる…。
ちょっと細かい話になってしまったが、要するに「巨大古墳」は政治的なシンボルとして作られて、社会の統合の象徴になっていたということである。もちろん、その巨大性が自他の人々に大きなインパクトを与えただろう。それはエジプトのピラミッドや秦・始皇帝の陵なども同様である。だけど、昔よく言われたように、人民は王墓を作るために奴隷のように働かされたというのも、多分ちょっと違うんだろうと思う。王墓を作るための職人集団が形成され、誇りをもって作っていたのではないだろうか。
それがやがて、変わってくる。巨大古墳を作る用地も少なくなってくると思うけど、それだけでなく社会が新しい段階に入ってくるわけである。仏教などの新文化が朝鮮半島を経て列島にも到達する。人々は外国からもたらされた新しい神々に、最初は疑いも持ちながらも、巨大な寺院や仏像が作られるようになると、その荘厳なさまに圧倒されたのではないだろうか。権力の世襲が制度化されてくると、巨大古墳を作って社会統合を図る必要も薄れる。むしろ「文化的な支配」が大事になる。
こうして古墳は作られなくなる。平安時代初期まで古墳は作られているが、奈良時代以後はほとんど巨大古墳は作られていない。だから、奈良時代中頃の聖武天皇の陵を僕は知らない。(いま調べてみると、奈良市の佐保山南陵とされている。)でも、聖武天皇の命によって東大寺の大仏が作られたことは知っている。古墳を見たことがなくても、奈良の大仏は一回ぐらいは見ているだろう。これは単なる王陵ではなく、「天下の安泰」を願って作られた。文化的に一段高くなったのは間違いない。
(東大寺の大仏)
つまり、権力者によって「巨大なもの」が作られるのは共通なんだけど、時代が進むと単なる権力者の墓ではなく、文化的な建造物に変わってくるわけである。古墳時代は終わり、「王都」の所在地を時代名につけるようになるのである。以後の時代では、教科書に出てくる大権力者は、必ず大建築物を作っている。藤原道長は法成寺、白河法皇は法勝寺という巨大寺院を作ったけど、荒廃して後世に伝わらなかった。足利義満の金閣寺、足利義政の銀閣寺なんかが残ったのは奇跡だろう。
徳川時代の日光東照宮なんかも、一種の王陵として作られている。インドのタージマハールなんかも、「王陵」的な存在だと思う。20世紀になっても、「社会主義」体制では「レーニン廟」とか「毛主席紀念堂」など「王陵」的なものが作られている。そこまで行かなくても、権力者は今も大建築物を作るのが好きなんだと思う。名を残すために大きな箱ものを作る人は今も多い。でも、今は建築物ではなくて、「オリンピック」とか「万国博覧会」など巨大イベントを開きたがることが多い。それが「現代社会」というものなんだろうけど、「巨大なるもの」にひかれる権力者のあり方は時代を超えて共通している。
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