尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「北方領土」も考えておこう

2012年09月23日 23時32分13秒 |  〃  (国際問題)
 せっかくだから「北方領土」の問題もここで書いておきたい。本当はこれが一番大事で、何しろ解決しない限りロシアとの平和条約が結ばれない。「法律的な戦争状態」が終わっていない。なんだかそういう状態に慣れてしまって、永遠に解決しない感じもしてしまうけれども、北方領土問題こそまず解決しないといけない。問題としては、「サンフランシスコ平和条約における千島列島の範囲」の問題ということになる。しかし、そのためには近代の日ロ関係史を振り返る必要がある。

 ちなみに1956年の「日ソ共同宣言」では、平和条約締結後に「色丹島」「歯舞諸島」は日本に引き渡すと決められている。ソ連は崩壊したが、条約上の義務はロシア連邦が継承している。条約ではないが、共同宣言も法的に有効な文書である。僕は「平和条約締結前にも、まず歯舞諸島に関しては無条件に返還する」という「ロシア国民の好意」「ロシア指導者の勇断」があると、両国民の友好的気運が大きく進展すると思うんだけど…。絶対無理でしょうか?

 1855年、日露和親条約が結ばれた。1853年6月、ペリーが浦賀に来航した。突然来たように思ってる人が多いと思うけど、江戸幕府はオランダから教えられて事前にペリー来航を知っていた。このペリー艦隊遠征の報を聞いて、ロシアも使節を送ってくる。全権使節はプチャーチン。長崎に到着したのは1853年8月だった。2カ月遅れを取ってしまった。そして1855年に結ばれた日露和親条約で、「千島列島はエトロフ島以南が日本領、ウルップ島以北がロシア領、樺太(サハリン)はそれまで通り(日露混住)」となった。

 1875年、明治政府は榎本武揚(戊辰戦争で五稜郭に立てこもって敗北したのち、許されて明治政府に出仕していた)を全権使節としてサンクト・ペテルブルクに派遣し、「樺太・千島交換条約」を結んだ。樺太全島をロシア領とする代わり、ウルップ島以北の千島列島を日本領とするという内容である。面積的に言えば何だか損な感じもするが、日本は北海道の開発でさえ大変な時代で、漁業のためには千島を取り、樺太は思い切って放棄してもいいということになったらしい。これで平和的に北方の国境は確定した。その後、日露戦争後のポーツマス条約(1905年)で、日本が南樺太を獲得したわけである。

 第二次世界大戦で負けた日本は「明治以来の戦争で獲得した領土を放棄」することになる。1943年のカイロ宣言、1945年のポツダム宣言の原則で、日本は受諾し、サンフランシスコ平和条約でも承認した。だから南樺太に関しては日本が領有権を放棄したことは間違いない。ところでそのサンフランシスコ平和条約では、「千島列島の放棄」も決めている。その千島列島の範囲は書いていない。日本政府は「日本が放棄したのはウルップ島以北」と主張するが、「地理的に見れば国後島から北すべてが千島列島」というのがロシア側の主張。地図をみれば、そう見えないこともない。というか、国後、択捉(エトロフ)も千島列島と言う方が自然だという感じである。だけど、僕は「千島列島」とは歴史的な概念で、日露、日ソの関係史をたどってみれば、「択捉島までが日本領」というのが素直な見方だと思う

 どうしてかと言うと、第二次世界大戦をどう考えるかに関係してくる。戦争を法的に終わらせたサンフランシスコ平和条約を今問題にしたが、ソ連はこの条約に署名していない。当時は朝鮮戦争下の冷戦が一番厳しい時代で、中国革命の直後。サンフランシスコ平和会議には、中国は(北京の人民共和国と台湾の中華民国のどっちも)招かれていない。ソ連はポーランド、チェコスロヴァキアとともに、中華人民共和国が招かれていないことに反発して、条約に署名しなかった。ソ連(ロシア)は自分が署名しなかった条約に基づいて「全千島がロシア領」というのはおかしい

 戦争自体は、いろいろな見方、側面があるが、日本に責任があるのは間違いない。植民地を放棄するのは当然。戦争に勝って植民地を支配したという近代日本のあり方が間違っていた。第二次世界大戦は日独伊三国同盟を結び米英と戦った。だから「ナチス・ドイツ」と「大日本帝国」が無謀な戦争を始め、「米英は連合して民主主義を守った。」これが基本的には今も「世界の通念」である。インドなど世界中に植民地を所有していた大英帝国、黒人の公民権がなかったアメリカが「どうして民主主義なんだ?」という部分はあるが。で、1941年6月の独ソ戦開始以後、ソ連が米英側に加わることになる。当時のソ連はスターリン書記長の独裁下で、「粛清」で数百万とも言われる犠牲者が出ていた。どこにも「民主主義」などないではないか。1939年8月23日、スターリンはナチス・ドイツのヒトラーと手を結び、独ソ不可侵条約を結んだ。これには秘密条項があり、ポーランドは独ソで分割、バルト三国をソ連に編入してしまう。9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、3日、英仏がドイツに宣戦布告。こうして第二次世界大戦が始まった。

 1941年4月、日ソ中立条約が成立した5年間。延長しない場合は1年前に通告。これを見ると、ある時期まで、ソ連はドイツ、日本の側ではないのか。実際に当時の日本の中には、日独伊+ソ連で同盟する意見もあった。しかし、イギリス侵攻に成功しないドイツは、不可侵条約を無視して1941年6月にソ連に侵攻した。その時、日本軍の中にはドイツと一緒になってソ連を攻めようという意見(北進論)もあったし、現に「満州国」に100万の大軍を大動員して「関東軍特種演習」を行い、いつでもソ連に攻め込める態勢を作った。だから日本にソ連を責める権利はないと言えば、その通りである。しかし、それはそれとして、ソ連が日本に宣戦布告した1945年8月8日は間違いなく「中立条約」の期間内だった。(延長しないことは通告済み。)

 ではどうして日本を攻撃したのか。1945年3月のヤルタ会談に米英ソの三首脳が集まった時、アメリカが求めたのである。そして「ヤルタ協定の秘密条項」で、米軍の損害を少なくするために、「ドイツ降伏後3か月以内に対日参戦する」。その代りに「千島列島をソ連に引き渡す」「モンゴルの現状維持」(モンゴルはソ連の衛星国で、中国は独立を認めていなかった。)「満州の港湾と鉄道利権を渡す」などを勝手に決めた。公表されていない勝手な取り決めは法的に無効である。(その後の米政府の立場は、この秘密協定はルーズヴェルト大統領の私的文書だというものである。)敵国になる日本から奪うのはまだしも、同盟国の中国の権利も勝手に侵害している。ヤルタ会談の時はアメリカはまだ原爆実験に成功していなかった。7月のポツダム会談中に原爆実験が成功すると、今度はアメリカはソ連軍を必要としなくなる。そこでソ連侵攻期限前の8月6日に広島に原爆を投下した

 ソ連軍は「満州国」になだれを打ったように攻め込み、多くの悲劇が生まれた。しかも、実は「北方領土」にソ連軍が侵攻してきたのは、8月15日以後のことである。千島の一番北の占守島(シュムシュ島)では、アメリカの攻撃に備えて日本軍が存在していたが、8月18日にソ連が侵攻、23日まで戦闘が続いた。日本側にもソ連側にも1000人を超える死傷者が出た。停戦に応じた日本軍は捕虜となりシベリアに連行された。ソ連軍が連合軍として日本軍の武装解除をするのなら問題ないが、そういう了解が米ソの中にない間に、ソ連は実力で千島支配をねらったのである。(スターリンの要求で、米国も後にソ連軍の千島占領を認めるが、ソ連の要求した北海道東部占領は認めなかった。)歯舞諸島の占領が9月初めに終わり、以後「北方領土」はソ連の支配下にあるわけである。8月15日以降に、日本軍が正規の戦闘に巻き込まれ悲惨な犠牲者が多数出たという歴史は知らない人がまだ多いのではないかと思う。

 そういう問題はひとまず置くとしても、日本から言えば「中立条約の有効期間内の攻撃自体が不法」である。最後の最後の頃の戦争で、ソ連が対日戦勝国として、連合国内の秘密協定に基づく千島列島領有を主張できるのか。しかし、まあ、それもいいとする。ソ連は対ドイツ戦で死者2千万とも言われる大被害を受けた。中国を超え世界で一番被害を受けた国で、民族の総力をあげてドイツに勝利した。戦勝国意識が強いのは当然で、ナチスと同盟を組んだ日本を信用せず、第二次大戦後の処理に関しては、敗戦国の主張など認めるつもりがなかったということだと思う。ドイツは戦後、大きく国境を西に動かされた。ソ連(ウクライナ)が西へ動き、それに連れポーランドの国境が西へ動いた。国境線となった川の名から「オーデル・ナイセ線」と呼ばれる。ドイツでは最終的にそのラインを受け入れ、「欧州統合」を進めるという政策を取ってきた。日本も「負けた側」であり、サンフランシスコ条約で認めた「千島列島の放棄」はやむを得ないだろう。

 本来は平和的に日露間で取り決めた条約で言えば、「千島列島はすべて日本領」である。だが戦争で負け、平和条約で放棄した「千島」はもうロシア領だと認めるしかない。「日本のオーデル・ナイセ線」は「エトロフ島とウルップ島の間」であると思う。千島列島の地理的問題、あるいは条約上の解釈の問題などは重要ではない。日本はソ連に対して、完全に無罪ではないが、ソ連の行った非道に比べれば、ソ連が戦勝国としての権利を主張できるのか。ロシアに対しても、ロシア国民に対してもそのことは言っていかなくてはいけない。幕末に平和の中に解決した「エトロフ島までが日本領」というのが、歴史的に正しい。「樺太・千島交換条約」によって「交換」した地域(ウルップ島以北の千島)が、日本が放棄する「歴史的な意味としての千島列島」である。歴史的な文脈と「正しさ」の感覚から、そのように思っている。

 ただし、今書いたのは「原則論」である。国後島は知床岬と納沙布岬を結ぶ線内に南部4分の1程度が入る。ほとんど「北海道に付属した島」と言える。一方、エトロフ島は他の地域を全部合計したより大きな面積を持っている。エトロフ島に何か妥協策があっても、僕は反対する気はない。例えば「エトロフ島は南北を日ロで分ける」とか。でも途中に何か意味のある違いがあるわけではなく、真ん中に線を引くというのも問題だろう。「エトロフ島を特区に指定し、日本国民には自由地区とする」とか。主権はロシアに認めるが、日本人は往来だけでなく、居住、経済活動などはすべて自由とする。これは可能か。それで解決になるのか。よく判らないが、ロシアがまず無条件に歯舞諸島を返還するという行動を取れば、全体として解決する方向が出てくるのではないか

 歴史的に言えば、この地域はアイヌ民族の土地である。そこに和人(大和民族=日本人)とロシア人が勢力を伸ばしてきた。だから「アイヌモシリ」(「人間の土地」)に戻すべきだなどと言う人もいるが、そんなアメリカ先住民の「保留地」みたいなものを作るのはかえって差別だろう。今では「ロシアも日本も手を引いて、大自然の中で生きるアイヌ民族に返そう」などと言うのは、ロマンティックな理想論である。しかし、問題を歴史的に正しく認識することは大切である。司馬遼太郎「菜の花の沖」船戸与一「蝦夷地別件」などの小説は長いけど、まずは読んでおく必要がある。それとプチャーチンと交渉を行った幕臣・川路 聖謨(かわじ としあきら)を描いた吉村昭「落日の宴」を政府は金だけ出して映画化して世界で公開するというのもいいのではないか。
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