尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「孔子廟訴訟」、最高裁判決への疑問

2021年03月04日 23時13分11秒 | 社会(世の中の出来事)
 2020年2月24日に、最高裁大法廷が「孔子廟訴訟」の判決を言い渡した。原告側完全勝訴の「違憲判決」だった。この裁判に関しては、大法廷回付が報道されたときに、「沖縄孔子廟訴訟、大法廷へー右の「政教分離」訴訟」(2020.8.1)を書いて解説した。一週間前のニュースになったけれど、結果についても感想を書いておきたい。
(テレビニュースから)
 一番最初の判決は「原告適格性がない」として原告敗訴だったが、その後控訴審で差し戻し判決が出た。その後の2回目の一審・那覇地裁は「原告完全勝訴」で「市有地を無償提供するのは違憲」とした。続く二審・福岡高裁那覇支部は違憲判決を維持しながらも、「土地代金をいくらにするかは市の裁量」とした。今回はその二審判決を破棄して、「市有地の使用料576万円を免除したのは違憲」と一審の判断に戻した。原審(この場合は二審の福岡高裁那覇支部)の判断を変える場合は、刑事訴訟法によって「口頭弁論」を開かなければならない。

 口頭弁論を開くだけなら「小法廷」で審理してもいいのに、この訴訟はあえて「大法廷」に回した。だから本格的な憲法判断を行うのかと期待したが、今回の判決は2010年の「空知太神社訴訟」と同じ考え方だった。これは北海道滝川市にある「空知太(そらちぶと)神社」が市有地を無償で使用していたことを憲法違反とした。今回は神社ではなく、儒教施設であることが新しい問題だが、違憲判断の構造は「宗教施設が市有地を無償で使用する」ことで共通している。
(勝訴を報告する原告弁護団)
 僕はこの判決に少し違和感がある。憲法違反の判断は重い。行政行為の違憲判断は、どんなものであれ評価すべきだという考え方もあるだろう。だが今回の裁判を起こした人たちは、他の「政教分離」裁判も応援しているのだろうか。政教分離裁判はほとんどが「靖国神社」(あるいは「護国神社」)に関するものである。有力政治家が「私人」として靖国神社を参拝したり、真榊を奉納したりするのは、「私人」だから許されるのだろうか。それをおかしいと思わない人が、「儒教施設を無償で使わせるのはおかしい」と言うのは二重基準だと思う。

 「本土」にも儒教関係の施設がある。東京の「湯島聖堂」や足利の「足利学校」である。しかし、それらは「歴史的価値」があるからと判決は波及しないと楽観しているようだ。では今回の問題になった「久米至聖廟」は歴史的価値がないのだろうか。建物に歴史的価値がないのは、戦災で焼失したからだ。戦前のものがそのまま残っていたら、「史跡」や「歴史的建造物」などの扱いをされていたに違いない。戦争は国家が行った行為であり、その結果として米軍の攻撃を受け焼失した。苦労の末に再建したら、「歴史的価値がない」というのは残酷だ。その再建の経緯を含めて、この施設には歴史的価値があると僕は思う。
(今までの主要な政教分離訴訟年表)
 政教分離規定は、本来は近代における「国家神道」と政治の癒着を禁じる意味合いが強い。もちろん他の宗教にも国家(自治体)が関わってはいけないけれど、時代の変化によって今までにはないケースも起こりうる。日本は国策でインドネシアからの介護者を受け入れているが、その多くはイスラム教徒(ムスリム)だろう。今後もムスリムへの対応は無視できない。その時に公立福祉施設で「祈りの場」を設置したり、公立学校で「ハラール」(ムスリムに許された食事)対応の給食を出したりしてはいけないのだろうか。僕にはとてもそうは思えない。

 あるいは皇居で行われる宗教行事、例えば「大嘗祭」に公費が使われ公人も出席していることはどうなのだろうか。皇居は「国有地」なんだろうから、その中で宗教行為を行ってはいけないのではないか。今回の判決から考えれば、憲法違反になるはずではないのか。それらの訴訟こそ、政教分離訴訟の「本丸」だろう。今回の原告・弁護団にも是非支援してほしいものだ。
コメント
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