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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

倉沢愛子「インドネシア大虐殺」と9・30事件の謎

2020年07月11日 22時45分42秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書から出た倉沢愛子インドネシア大虐殺」は、1965年に起きた「9・30事件」とその後のインドネシア共産党PKI)大弾圧、大虐殺を究明する本である。戦後世界史最大級の謎に迫る本だけど、読んでも今ひとつ判らない部分がある。何も語らないまま鬼籍に入った関係者が多く、永遠に謎のままなのかもしれない。日本とも浅からぬ関係のある問題だけに、多くの人の関心を期待したい。副題に「二つのクーデターと史上最大級の惨劇」とある。

 もう忘れている人が多いと思うけど、1960年代初期のインドネシアは国際的に孤立していた。日本占領、オランダからの独立を経て、スカルノ大統領は反帝国主義を掲げて新興アジアアフリカ諸国のリーダーだった。1955年にはインドネシアのバンドンで「アジアアフリカ諸国会議」が開かれた。中国の周恩来、インドのネルー、エジプトのナセルなどと並ぶ世界的リーダーだったのである。しかし、イギリス植民地だったボルネオ(カリマンタン)島北部がマレー半島と共に「マレーシア」を結成することに激しく反発し、一時は国連脱退まで表明したのである。
(スカルノ大統領とデヴィ夫人)
 日本は戦時賠償問題を機にスカルノとの関係を深めていた。特に1962年に第3夫人としてデヴィ夫人(根本七保子)と結婚していたことが大きい。インドネシアは五輪に代わる「新興国スポーツ大会」を開催し、東京五輪に(一時はやってきたものの)参加できなかった。経済的にも不振が続く中、スカルノ大統領を支えたのがインドネシア共産党(PKI)だった。PKIはイスラム勢力と並ぶ国家体制の一角を占めていた。内閣にも参加して、ソ連、中国に次ぐ多数の党員を抱える一大勢力だったのである。

 しかし、PKIと陸軍は対立を深め国内は一触即発のムードが高まる。ついに、1965年9月30日、大統領親衛隊のウントゥン隊長が国軍首脳6人を殺害・拉致した。(ナスティオン陸軍参謀長も襲撃されたが、からくも逃れた。代わりに副官が拉致・殺害された。)陸軍戦略予備軍司令官だったスハルト少将が1日夜までには事態を掌握したが、事件の背景には何があったのかは今も不明である。この本でも諸説が紹介されているが、国内的には「スカルノは関与していたのか」「スハルトは事前に知っていたのか」が問題になる。国際的には、スカルノと対立していた英米の陰謀説、反対にPKIの背後に中国共産党の陰謀があったなどの説がある。

 そこら辺は本書を直接読んで貰うとして、インドネシアでは「PKIの陰謀」説が国家的定説とされている。しかし、PKIはこの後、なすすべもなく大虐殺されて、事実上解体されてしまう。PKIが関わっていたとしても、全党的な蜂起計画などなかっただろう。陸軍との関係悪化の中で生じたクーデター的な計画だったと思われる。ただ、それをPKI首脳や毛沢東が知っていた可能性はある。また事件後の事態掌握の素早さを見ると、スハルトが直接知っていたかは判らないけれども、事前に予想して対策を練っていた可能性は高いと思う。
(スハルト大統領)
 この事件をきっかけにして、「容共的」と批判されたスカルノの権威が失墜し、1966年3月11日にはスハルトへの権力委譲に署名を迫られた。スハルトによって、インドネシアは親中国から親米路線に転換し、親米反共の5ヶ国によってASEANが結成された。単に東南アジアに止まらず、ヴェトナム戦争激化の中で世界的に重大な事件だった。戦後アジアアフリカのリーダーたちもこの時期に相次いで失脚している。経済運営がうまく行かず、政権が行き詰まったのである。スハルトは代表的な「開発独裁」を進め、インドネシアは東南アジアの大国として発展してゆく。

 しかし、その間インドネシアでは20世紀最悪レベルの大虐殺が起きていた。国際的にはほぼ無視され、今も全貌が不明である。ジャワ島東部に始まり、バリ島、スマトラ島などでインドネシア共産党員、及びその家族、疑われた人たちへの無差別的な殺人が起こったのである。犠牲者数は数十万から200万を超えるとも言われる。2012年に作られた記録映画「アクト・オブ・キリング」(ジョシュア・オッペンハイマー監督)では、その加害者が虐殺の様子を再現している。インドネシアでは今もなお、虐殺が公的に正しかったと認められているのである。

 著者の倉沢愛子氏(1946~)は大著「日本占領下のジャワ農村の変容」(1992)で知られるインドネシア研究者だが、今までほとんど紹介されなかった犠牲者側の声を丹念に追求している。名を変えて何十年も逃げ延びた人も存在するのである。1998年にスハルト体制が崩壊した後は、少しずつ復権しつつあるが正式にはまだ権利を回復できていない。この本では国外にいたインドネシア人留学生の運命も多数紹介されている。スカルノ時代にはソ連や中国に多数の留学生がいた。彼らの中には中国で「PKI亡命指導部」を結成した人もいたが、やがて時代の流れに取り残される。中国の方針転換で行き場を失い、西欧で窮迫の人生を終えた人も多い。

 今では日本で「テレビタレント」として認知されているデヴィ夫人だが、この本で見れば独自の立場でスカルノ擁護に活動していた。反共の立場で陸軍とスカルノの関係をつなぎ止めようと動き続けていた。スカルノもデヴィを寵愛している。赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」に勤めていた根本七保子をスカルノが見初めたとされるが、単なるお飾りではなかった。愛情的にも、政治的にも、スカルノを支えて奮闘していたのである。
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